12. 心乱されて
……さて、ここからは馬車だ。
老女将の話によれば、このウルムという町からグランブルグ伯爵家の屋敷のある王都までは、馬で数刻、馬車では半日程かかるらしい。
五歳の時に一度表に出てきたきりのレオン様は、おそらく馬には乗れないだろうし、あの美貌は人目を引き過ぎるから馬車が無難だろう。
早速、二人乗り用の馬車を頼んで乗り込む。
もう二度とあのラリサ王女に会うことが無いように、なるべく早く、出来るだけ遠くへ急ぎたい。
それに何より旦那様と奥様がどれほどリリアナ様の身を案じておられるだろう。
レオン様の姿のまま屋敷に連れて帰れば驚かれるだろうが、どうしたら元のリリアナ様に戻れるのか方法が分からないまま、今日のように誰か人と会って、どんどんレオン様の存在を知られていくのは危険すぎる。
これ以上騒ぎを起こす前に、少しでも早く屋敷へ帰らねば。
御者に金を弾んで急ぐように頼む。
「ねえ、この馬車、お尻が痛いよ」
しばらくしてレオン様が顔をしかめて訴えてきた。
……それはそうだろう。
貴族や金持ち用の馬車とは違って、平民用のこの馬車は座席が板張りで固く、しかも今は悪路を走っているため、何度も馬車が跳ねて体が浮き、その度にお尻を打ち付けて痛い。
しかし、平民用の馬車とはそういうものだ。
レオン様は貴族の子息でも、財布を握っている私は平民で、湯水のように金を使える金持ちとは違うのだ。
座席が固かろうが、尻が痛かろうが、馬に乗れないのなら、この馬車に乗るしかない。
「我慢してください。これに乗らなければ、屋敷には帰れないのですから」
「ええ――っ、もうやだっ!」
馬車が跳ねるたびに、レオン様の体もぽんぽんっと跳ねる。
とうとう、ぷうっとむくれて急に立ち上がったかと思うと、そのまま私の膝の上にちょこんっと横向きに座る。
「これならいいよ」
……良くないわ! 何やってるんですか⁉
私が慌てて膝からレオン様を降ろそうとした瞬間に馬車が大きく跳ねて、驚いたレオン様が私の首にしがみついた。
「もう、急に跳ねないでよ」
レオン様が顔をずらし、その透き通るような肌が、澄んだ青い瞳が、さくらんぼのような唇が私のすぐ目の前に来て、……思わず息を呑んだ。
ぷにっ。
レオン様の柔らかい肌が私の頬に触れ、その甘い息が私の耳にかかる。
……時が止まる。呼吸が止まる。瞬きが出来ない。言葉が出てこない。
心臓がどくどくと強く早打ちして口から出てきそうだ。
全身の血液が逆流して頭から吹き出しそうだ。
……助けてくれ、……もう無理。
「降りましょう、レオン様。馬車はやめます」
船は値段が高すぎ、馬は乗れない、馬車は私が無理。となると残りは徒歩か。
……歩いて、屋敷まで。
一瞬ふらっと目眩がしたが、町1つ分だけでも馬車で移動出来ただけマシか。
改めてこの町で宿を借り、早めに夕食を終えて明日の歩きに備えることにした。
五歳の時以来十年ぶりに現れたレオン様が、どれだけ動けるだろうか。
……いざとなったら、私がレオン様を抱えて歩くしかない。
大変と言えばそうだが、こういう時のために日頃から鍛えているのだし、これまで受けた恩を返すのは今だと思えば、さほど苦でもない。
私は、レオン様を抱えて歩いて屋敷まで帰る覚悟を決めた。
「クロード、さっきから何してるの? それ、何?」
寝台に腰を掛けて作業をしている私の手元を、レオン様が覗き込む。
「これですか? 旦那様から頂いたマントが破れてしまったんです。でも、このまま破れたままで帰るのは忍びなくて、自分で縫ってみようかと。マントが使えた方が、レオン様をお守りする時にも助かりますしね」
「ふうん……」
宿の主人に頼んで、針と糸を借り、自分で縫ってみるが、これがなかなか難しい。
平民の私は、普段から簡単な縫物くらいは自分でするが、このマントは改めて生地を良く見てみれば、恐ろしいほどぎっちりと目が詰まって織られており、なかなか針が通らないし、しかもつるつると滑る。
なるほど、「手に負えない」と尻込みする針子の気持ちも分かる。
「……よし、何とか出来た」
「僕も――!」
……ん? レオン様、横にいたのか。
夢中になって縫物をしていて全然気が付かなかったが、レオン様も私の横に座って何かをしていたらしく、ぐーっと伸びをしている。
「レオン様、何が出来たのですか?」
「これ」
レオン様が見せたのは、私が今修繕を終えたばかりのマントの裾だった。
そこには、黄色い糸で何やら丸い形のものが縫われていた。
「どわ――っ! レオン様、何やってるんですか⁉ これは旦那様から頂いた大切な、痛っ!」
驚いた弾みで、私は持っていた針で思い切り指を刺してしまい、ぶすりと深く刺した左の親指から血が出てきて、つい口に咥えてしまった。
「何してるの?」
「針で指を刺して、血が出てしまったんですよ」
自分の指を咥えている私を、不思議そうに見ているレオン様に、「ほらっ」と刺した親指の下を押さえて見せると、ぷくっとまた血が出てきた。
それを、レオン様がぱくっと咥える。
…………。
「……レオン様、何を?」
「ひがれれるはら、ほうひてるの」
……何を言っているのか分からん。
それよりも、指を咥えたまましゃべるから、………レオン様の舌が指に触れる。生温かい感触が、唇が。
……もう! もう! 無理!
「……レオン様、もう大丈夫ですからっ!」
私はうろたえながら指を引っ込めた。顔から火が出そうだ。
動転して頭の中がぐちゃぐちゃになっているのをどうにか誤魔化そうと、何か話題を探して、先程のマントに目を留める。
……そういえば、レオン様は何を縫ったのだろう?
広げてみると、拙いながら黄色の糸で何やら丸い……これは猫だろうか?
………何故、猫?
「これね、僕の顔」
……はい? レオン様の顔?
……いやいや、意味が分からない。これは、旦那様から頂いたとても高価な物なんですよ、レオン様。分かってます?
破れてしまったけど、とても大事な物なんですよ。それに、こんな悪戯をして。
「これは、クロードは僕の護衛だっていう印。これがあったら皆が分かるでしょ?」
楽しそうに笑いながら、上目遣いで私の顔を見る。
「離れていても、クロードは僕のものだから」
「そんな心配しなくても、何処にも行きませんよ。私はレオン様の護衛ですから。何があっても、絶対に離れません。安心して、さあ、もう寝ないと。明日は早いんですから。頑張って歩いてくださいよ」
「はあい」
大人しく自分の寝床に潜るレオン様に、風邪を引かないよう肩までしっかり毛布を掛ける。
……レオン様印のマントか。……参ったな。旦那様に何と説明しよう。
レオン様が縫ったと言ったら、許してもらえるだろうか?
それとも、針を持たせてしまったことを咎められるだろうか?
そんなことを考えながら、自分も明日に備えて眠りについた。