119. 狙い撃ち
「……ふわあ、お前がリリアナか。待ちくたびれたわ」
長い顎髭を撫でながら、大きな欠伸をした貴族らしき男は、崖の上から私とリリアナ様を見下ろしていた。
「……ほお、王命に逆らって間男と逃避行とは、楽しそうなことだな」
王命に逆らって。……ということは、これはやはり追手か。
だが、旦那様が王妃様から王命を告げられてすぐに屋敷を出たのに、もう逃げたことが知られて、先回りされるとは……。
あと少しで国境を越えられたのにと、私は唇を噛みながら崖の上の男を見上げた。
「くくっ、親よりも男が大事か、グランブルグ伯も大した娘を持ったなあ」
その男の下卑た笑いに怯えたリリアナ様が私の後ろに隠れた。
……国王が遣わした追手にしては、あまりに品が無い。
誰だろう、この男は。貴族のようではあるが。
「ここでお前達を捕らえて国王に媚びるのもいいが、ふんっ、そんな生ぬるいことでは儂の腹の虫が治まらん。……生きたまま皮を剝ぐくらいのことはせんとなあ」
……違う、これは追手じゃない。
次第に狂気を帯びる男の口調に、私はただならぬ様子を感じて身構えた。
すでに周囲は剣を持った十人程の兵士に囲まれている。
「可愛い娘を殺されて、屋敷を燃やされた恨み、思い知らせてやる」
……これはギリエル男爵だっ!
すべて自業自得だというのに、まだリリアナ様のことを諦めていなかったのか。
愕然としながら、私は崖の上にいるギリエル男爵を見上げた。
「……何故、お前が王命を知っているのだ。まだ下されてもいないはずなのに」
私の言葉を鼻でせせら笑ったギリエル男爵は、顎髭を数本引き抜き、ふうっと息を吹きかけて飛ばした。
「儂は登城を許された身。金さえ出せば、どんな秘密でも漏らす人間は山程いる。……可愛い娘アンリエッタが慕っていたエリオット王子が、まさかあの憎いリリアナと王命による婚姻? ……それを聞いた時の儂の気持ちが、お前らに分かるか、うん?」
まるで蛇のような目でリリアナ様を見るギリエル男爵に、私は背後に隠れるリリアナ様をその視線から隠すように前に出て、ギリエル男爵を睨み返した。
「儂の可愛いアンリエッタを焼き殺しておいて、自分だけのうのうとエリオット王子の妃におさまるとは、こんなことが許されていいはずないだろう? どうにかして思い上がったリリアナに思い知らせてやりたいと思っていたら、屋敷からこっそり逃げ出したと言うじゃないか! これを天の助けと言わずして何と言う⁉」
興奮したようにギリエル男爵が叫ぶ。
「オーランド領を通らずに国境を抜けるなら、必ずここを通るという儂の読み通りだったな」
まさか王命も、王命に逆らって逃げたことも、ギリエル男爵に知られて先回りされていたとは。
いかにも楽しくて堪らないという様子で舌舐めずりしながら、ギリエル男爵が私とリリアナ様を見下ろしている。
「さあ~て、どうしてくれよう? 生きたまま獣に食わせて、残った骸をグランブルグ家に届けてやるか。それとも、生きたまま火あぶりにして、黒焦げでエリオット王子に会わせてやろうか。それとも、矢で蜂の巣になるのがいいか?」
「どれもお断わりだっ!」
聞くに堪えないギリエル男爵の言葉に、私は思わず叫んだ。
「……お前達はアンリエッタを殺した。お前達の点けた火で……アンリエッタは生きたまま焼かれた。……許さんっ、絶対にお前らを許さんっ! 嬲り殺しにしても気が済まんっ! ……殺れっ、原形を留めずとも構わんっ! 切り刻んでやれっ!」
ギリエル男爵の声で、周りを囲んでいた兵士が一斉に切りかかって来た。
「リリアナ様、目を閉じていて下さい」
私は後ろにいたリリアナ様を咄嗟に左腕で抱え、右手に持った剣で切りかかって来た兵士の剣を跳ね返した。
剣を手から落とした兵士の腹を右足で蹴り飛ばして倒し、また一人また一人と、剣を跳ね返して相手がひるんだ隙に、高く上げた右足で頭を目掛けて回し蹴りにして倒した。
そして最後残る一人を、剣でその横腹を叩きつけて倒すと、崖の上のギリエル男爵に向き直った。
「……ほお、大したものだ。ただの色男では無かったようだな。ならば、これはどうだ?」
ギリエル男爵が軽く右手を上げたのを合図に、横にいた兵士たちが一斉に弓を構えた。
……まさか、崖の上から矢で狙い撃ちにするつもりか。
あれだけの数の兵士に一斉に射られては逃げきれない。
こんな身を隠す場所が一つもない所で、狙い撃ちされたら一溜りもない。
「くくっ。蜂の巣で決まりのようだな。せいぜい泣き喚いて楽しませてくれ」
高らかなギリエル男爵の笑い声と共に、矢が一斉に放たれた。