117. 返せない問い
宿場での朝食と馬の交換を終えて、また国境を目指して出発する。
グランブルグ家を出てから、もうだいぶ経つ。
旦那様と奥様はどうしているだろうか。
エリオット王子とリリアナ様の婚姻の王命はまだ下りていないはずで、それ故、伯爵家への咎めも追手もまだのはずだが、それでもやはり心配だ。
旦那様と奥様を案じながらも、ひたすら馬車を走らせる。
私にリリアナ様を預けて、共に逃げろと守れと旦那様は仰ったのだ。
今はとにかく、リリアナ様と共に追手の手の届かない所に一刻も早く辿り着かねば。
追手が来ていないか、背後を確認しつつ、国境を目指す。
国境が近づくにつれて馬車は次第に険しい道を走るようになり、薄暗い森の中へ入り、そして坂道を登っていく。
この山を越えたら、国境だ。
そこを抜ければ、隣国へ入る。
とりあえず、そこまで行けば、追手が来たとしてもそう簡単には捕まらないだろう。
「……薄暗くて不気味な道ね」
少し怯えた様子でリリアナ様が呟いた。
悪路が続いて、馬車はガタガタと大きく揺れている。
「山の中に入りましたからね。しばらくはこんな感じの道が続くはずです」
怯えたような目で外を見ながら、リリアナ様は不安で身を固くしていた。
「……怖いですか?」
「……少し」
「私が側にいます」
リリアナ様は顔を強張らせながら、不安を抑えようと自分の両手を組んで固く握っていた。
正面に向かい合って座っている私は、そのリリアナ様の固く握りしめた両手を取り、組んでいる指を解いて、その小さな手を自分の手で包むように両手を繋いだ。
「どんな時も、私が側にいます。だから安心して、もっと力を抜いて下さい。先は長いのですから」
これから先、一生をかけて私は兄としてリリアナ様をお守りするのだ。
そして、半ば自分に言い聞かせるように私は言葉を続けた。
「旦那様のお迎えがあるまでは、リリアナ様のことは私が何があってもお守りします」
強張った表情を緩めながらも、リリアナ様は不思議そうに私を見て尋ねる。
「……クロードは、どうしてそんなに良くしてくれるの?」
「え?」
「だって、そうでしょう? クロードはわたしの護衛だけど、いつも本当に命懸けでわたしを守ってくれる。お母様が仰っていたわ、クロードのような護衛は何処を探してもいないって。…………クロードは、どうして、……その、もしかして、…………」
顔を赤くして、最後まで言葉を言い切れずに、リリアナ様は潤んだ目で私を見上げる。
そのリリアナ様の様子に、私は胸がちくりとした。
『クロードをリリアナの婿に』
『忠義一徹で、リリアナの気持ちがまったく伝わっていない』
旦那様の言葉が頭の中に響く。
『あなたのその無神経は死ぬまで直らないわね』
……マリア。
子供の頃は、ただリリアナ様の護衛に選ばれたことが嬉しくて堪らなかった。
平民の私が、ただの使用人の子に過ぎない私が、名門伯爵家令嬢の護衛を務める。
嬉しくて、誇らしくて堪らなかった。
期待に応えたい。
私に剣を教え、護衛に推薦してくれたクラウス様。
そして私を信じて、大切なリリアナ様の護衛に選んでくださった旦那様。
護衛として、恥をかかないよう相応しい教育を与えてくださったこと。
分不相応な恵まれた境遇に感謝して、御恩に報いたい。
この命を懸けてリリアナ様をお守りする。
ただ、それだけだった。
側に仕えていることがただ幸せで、いつかこの命を捧げることがあっても、それが自分の務めだとそう思っていた。
それ以外は何もなかった。
だが私は、レオン様と出会った。
そして、レオン様に一生ついて行くと決めた。決して離れないと。
私にとって掛けがえのない、何よりも大切な人。
一生側にいて、この手で守ると決めた人。
そのレオン様は今、私の目の前にいるリリアナ様の中で眠り続けている。
いつ目覚めるか分からない。
いつ会えるのか分からない。
それでも、何年でも待ち続けると決めた。
リリアナ様の中に眠るレオン様を、兄としてリリアナ様を守りながら。
顔を赤らめて潤んだ目で私を見つめるリリアナ様に、私は言葉が返せずにいた。