116.煙が目に沁みる
まだ夜も開けぬ暗いうちにグランブルグ家を出たが、少しずつ空が白んできた。
国境を目指して、ひたすら走り続けてだいぶ経つ。
リリアナ様は、私の腕の中ですやすやと寝息を立てて眠っていた。
おっとりとした方だが、それでもリリアナ様なりに気を張っていたのだろう。
熟睡していて、起きる様子が無い。
欠伸を噛み殺しながら、眠気を堪えていたリリアナ様に私が差し出した手を、躊躇いながら取ったリリアナ様は、膝枕は無理だといって肩にもたれて眠ることにした。
落ち着かない様子ながらも私の肩にもたれて、リリアナ様はしばらくはそれで眠っていたが、その不安定な体勢では馬車が揺れる度に目が覚めてしまっていた。
「……ん」
「それでは眠れないでしょう」
「……でも」
「甘えてくださいと、言いましたよね」
馬車が揺れる度に目覚めてしまい、寝惚けているリリアナ様を、私は抱きかかえてそっと膝の上に乗せた。
リリアナ様は目を見開き、顔を赤くして私を見ている。
「私がこうしてリリアナ様を支えているので、安心して眠ってください。今のうちに眠っておかないと、体が持ちませんよ」
旦那様はあなたを溺愛し甘やかし、そして命を懸けて守った。
これから先は私が、旦那様の代わりにあなたを慈しみ甘やかし、守っていく。
兄として。
「……子守歌でも歌いますか?」
「そっ、そこまで子供じゃないわ。要らないわよっ」
ぷうっとむくれたリリアナ様は、くるっと向きを変えてから目を閉じ、そしてしばらくして寝息が聞こえてきた。
知らなくていいこともある。
知らない方が幸せなら、わざわざ知らせる必要はない。
無警戒に眠るその横顔を見ながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
白んでいた空が、少しずつ鮮やかに染まり、その美しい朝焼けの中を馬車は走り続けた。
そのうちに御者が、そろそろ馬が走り疲れてきたので、宿場に寄って馬を交換したいと言ってきた。
だいぶ王都から離れたし、国境ももう目の前だ。
私は御者の言葉に従って宿場に寄ることにした。
……まさか、リリアナ様に朝食抜きなんてさせられないしな。
御者が馬を交換している間に食事を摂ろうと、眠っているリリアナ様に声をかけるが、熟睡し過ぎて起きない。
何度声をかけても、全く起きない。
「……知らないとはいえ、逃避行の最中だというのに、リリアナ様もなかなか肝が太い」
私は感心しながらも、あまりの熟睡っぷりに困り果ててしまった。
どうやって起こせばいいのだ?
私はすやすやと私の腕の中で眠り続けるリリアナ様の顔を見た。
……本当によくレオン様に似ている。
これがもしレオン様なら、きっと私は眠っているレオン様の顔中に目を覚ますまで口づけして起こすのだろうが、……まさかリリアナ様にそんなことをするわけにはいかないしなあ。
「兄は、妹をどうやって起こすのだ? ……分からん」
考えても埒が明かないと諦めて、私は眠ったままのリリアナ様を抱えて馬車を降り、通りを歩き出した。
まだ早い時間だが、すでに大勢の商人達で賑わっていた。
その朝の早い商人達相手に食事を提供する露店もたくさんあって、通りには美味しそうな匂いが充満していた。
リリアナ様の朝食に何がいいか、露店を眺めながらしばらく通りを歩いて、ふと目の前に広がる懐かしい光景に、私は思わず足を止めてしまった。
ばちばちっと木のはぜる音に、もくもくと高く上がる煙。
少し皮が焦げたような、食欲をそそる香ばしい匂い。
ああ、これは、豚の丸焼きの匂いだ。
……レオン様の好きな。
その懐かしい光景と匂いに、私の心は一気にレオン様と過ごした時に引き戻されてしまった。
『クロード、僕、あれが食べたい!』
『クロードも食べてみる? はい、あ~ん。ねっ、美味しいでしょ?』
何処からかレオン様の声が聞こえる気がする。
今にも、何処からかレオン様が駆けてきそうな気がする。
つい、目がその姿を探してしまう。
こんな所にあなたがいるわけないと分かっているのに。
「美味しそうな匂いだけど、朝から豚なんて食べられないわ」
いつの間にか目覚めたらしいリリアナ様が、ちらりと視線をやって無理と頭を振る。
……リリアナ様はレオン様ではない。
どんなに姿が似ていても、レオン様ではない。
分かっていたことだ。
『クロード、大好き』
『クロード、何があっても絶対に離さないから』
何処にいても、何をしていても、あなたを想い出してしまう。
これから先、私はリリアナ様をお守りしながら生きていかねばならない。
いつか、また、あなたに会える日が来るのだろうか。
「……クロード、どうしたの?」
「何でもありません。……少し、煙が目に沁みただけです」




