115. 兄として
どうして旦那様は、リリアナ様に王命に逆らったらどうなるか話さなかったのだろう。
話す時間はあったはずだ。
旦那様なら、リリアナ様と話をしながらおかしいと気づいたはずだ。
リリアナ様が、勘違いをしていると分かったはずだ。
首を傾げながらリリアナ様を見ていると、ふと目が合って、にっこりと微笑んでくる。
これから先、何年も逃亡生活が続くとは、これっぽっちも考えていない顔だった。
自分の両親が、これからどうなるのか、最悪の未来など微塵も思い描いていない。
きっと、さっきの別れが今生の別れになるかもしれないなどと、考えてもいないのだろう。
……これでは、あまりにリリアナ様が不憫では?
旦那様は、「もし許されることがあれば、必ず迎えに行く」と仰った。
だが、王命に逆らって無事に済むなど考えられない。
もし迎えに来られたとしても、何年、何十年先になるか。
……それまで、リリアナ様は何も知らずに過ごすのか?
何も知らずに、来ないかも知れない旦那様の迎えを、何年も何十年も待ち続けるのか?
……それでは、あまりにリリアナ様が可哀想だ。
私は目の前に座っているリリアナ様を見た。
ほんの少しの間だけ旅に出て、すぐに戻ってくるつもりで、のんびりと寛いでいる。
……引き返そう。
リリアナ様に説明して、ご両親にちゃんと別れを告げた上で屋敷を出た方がいい。
もう、今後一生会えないかも知れないのだ。
せめて最後に、ちゃんと別れをさせてあげたい。
まだ、それだけの時間はあるはず。
私は座席から立ち上がり、急に立ち上がった私を驚いた顔で見ているリリアナ様に告げた。
「……引き返しましょう。屋敷に、戻ります」
戻って、リリアナ様にグランブルグ家がどういう状況に置かれているのか、きちんと話そう。
その上で、ご両親とちゃんと別れをして、それからまた出直そう。
私がすべてを告げる覚悟を決めてリリアナ様を見ると、リリアナ様は少し怯えたように瞳を揺らしながら私を見上げていた。
「……え」
「戻るって、何? どういうこと? 何かあったの?」
まだ何も告げていないのに、もうすでに怯えているようなそのリリアナ様の様子に、私は戸惑ってしまい、開きかけた口を閉じた。
そして、ふと旦那様の言葉を思い出した。
「リリアナは弱い。……こうなることは分かっていた」
……あ。
……だから、か。
だから、旦那様は話さなかったのか。
王命に逆らった貴族の末路。
真実を知った娘が、どれほど恐怖に怯えて、不安に震えながら過ごさねばならないか。
それを思い、娘が理解していないと知りながら、敢えて話さなかったのか。
…………旦那様。
旦那様が話さないと決めたことを、私がリリアナ様に話すわけにはいかない。
その真実がどれほどリリアナ様を苦しめるかを分かっていて、旦那様は話さなかったのに。
私はリリアナ様を託された。
守って欲しいと、旦那様と奥様の代わりに側にいてやって欲しいと。
ならば、そうしよう。
旦那様と奥様の代わりに、私がリリアナ様の兄となり、父となり、お守りする。
「……クロード、どうしたの?」
私が少しの間黙っていたことで、リリアナ様の表情はさらに強張っていた。
……そうだった、リリアナ様は昔からとても不安に揺れやすい方だった。
「……あ、えと、忘れ物をしてしまって、取りに戻ろうと思ったのですが、勘違いでした」
「忘れ物? ……急な出発だったもの、そんなこともあるわよね」
ほっとしたようにリリアナ様が笑う。
「勘違いだったので、このまま行きます」
私の言葉に軽く頷いたリリアナ様は少し眠そうで、目がとろんとしていた。
「……朝が早かったので、眠たいですよね。外はまだ暗いし、少し眠りますか?」
「……そうしたいけど、こんな所じゃ、なかなか眠れそうにないわ」
リリアナ様が馬車の中を見回す。
人目を避けるために、普段のグランブルグ家なら絶対に使わないような質素な馬車。
旦那様に溺愛されて贅沢に慣れたリリアナ様が、眠れないというのも仕方がない。
眠たそうに欠伸を噛み殺しているリリアナ様に、私は手を伸ばした。
「……では、眠れるように、私の肩をお貸ししましょうか? それとも、リリアナ様が宜しければ、膝をお貸ししましょうか?」
驚いたようにリリアナ様が私を見る。
「……え、でも」
「これからは、ずっと二人なのですから、遠慮しないで甘えてください」
戸惑うように私を見た後、躊躇いがちにリリアナ様は私の手を取った。
これからは私が、リリアナ様を守る。
リリアナ様の兄になり、兄として、この方を守る。
どんなときも大切に慈しみ、守り、生きて行こう。
旦那様と奥様の代わりに。