114. 楽しい旅の始まり
涙を流しながら手を振る旦那様や奥様、そしてマリアを残し、私とリリアナ様は馬車で屋敷を後にした。
ここから先、私は一人でリリアナ様をお守りせねばならない。
旦那様と奥様の代わりに。
何年先になるか分からないが、もし許されるなら必ず迎えに行くという、旦那様のその言葉を信じて。
肩にずしっと圧し掛かる重圧を感じながら、前に座っているリリアナ様を見る。
……不思議と、リリアナ様からは悲愴感は感じられなかった。
まるで、ほんのちょっとの間だけ旅に出るような、そうだ、例えばオーランド領に行った時のような、そんな気楽さが感じられた。
自分の為に、旦那様が王命に逆らうというのに、どうしてこうものほほんと、いつもと同じでいられるのかが私には理解できなかった。
「朝が早過ぎて、まだ眠たいわね……」
「…………そうですね」
「外も真っ暗で、何も見えないし……」
「…………そうですね」
「こんなに早い時分に屋敷を出るなんて思わなかったわ……」
「…………そうですね」
時折、私の顔を見ながらリリアナ様が話しかけてくるが、私にはどう返事をしたらいいものか分からなかった。
「……クロード、何処まで行くの?」
「…………分かりません」
「……どうして?」
……そんなこと、私に聞かれても分かるわけがない。
なるべく遠く、追手の来ない所へ。
もし、見つかるようであれば、さらに遠くへ。
王命に逆らって逃げるのだ。
……一生、何処までも逃げ続けなければならないだろう。
「……旦那様は、国境を越えるようにと仰いました。……取り敢えず国境を出て、それから……」
「え? 国境を越えるの? どうして?」
…………はい?
「国境を越えたら、すぐには戻って来られないわ」
…………ん?
「もっと近くで、時が過ぎるのを待ったらどうかしら?」
…………何を言ってるのだ?
微妙に話が嚙み合っていないような、ずれているような気がするのは、私の気のせいだろうか。
「この近くの村に美味しいパン屋さんがあるらしいのよ」などと言い出したリリアナ様に、もしやもしやと思いながら尋ねてみる。
「……リリアナ様、あの、王命に逆らって逃げるために、御自分が今、この馬車に乗っていると言うことは、お分かりですか?」
「もちろん、分かっているわ」
…………では、この気楽さは何なのだろう。何処から来るのだろう。
「……王命と言うのは、何か、御存じですか?」
「王様の命令でしょう?」
…………これも理解している。
「……では、王命に逆らうと言うことがどういうことか、お分かりですか?」
「王様に怒られちゃうのよね?」
…………ここか。
「伯爵であるお父様が、王様に怒られてしまうのでしょう。お父様には申し訳ないと思っているわ」
「……怒られて、終わりですか?」
「多分、しばらく謹慎しないといけないのでしょう? お母様もそれに付き添うのよね? 屋敷に閉じ籠らないといけないのは可哀想だけど、でも、わたし、本当にエリオット王子は嫌なの」
…………旦那様は、どうしてリリアナ様に話さなかったのだろう。
王命に逆らったら、どうなるか。
……謹慎だけで済むわけがない。
爵位も領地も財産もすべて没収されて、下手をすれば……。
だからこそ、旦那様は縁を切ってまで奥様とリリアナ様を逃がそうとしたのに。
すべて没収されるのを覚悟して、せめてもと当主の証の指輪を私に託したのだ。
レオン様に何も残せないなら、せめて…と。
リリアナ様には何も伝わっていなかった。
リリアナ様は何も理解していなかった。
だから、あんなに平気な顔をしていたのか……。
リリアナ様の不思議なほどの落ち着きようが、私はやっと腑に落ちた。
「王様の命令に逆らったらいけないのは分かっているけど、わたしはエリオット王子と結婚なんて嫌なの。お父様が、そんなに嫌なら結婚しなくて良いって、お断りしてくださるって。ねえ、だから言ったでしょう? お父様はお優しいって」
我が子の為に命を懸けた旦那様の覚悟を知ることも無く、無邪気に笑うリリアナ様に、私は力の抜けた笑みを返すしか出来なかった。




