112. 一つの体に二つの心
翌日の夜明け前に、リリアナ様をつれて屋敷を離れることになった。
いつ王命が下るか分からない。
その前に、少しでも遠くに逃げた方が良いという旦那様の考えだった。
なるべく遠くへ、どうせなら国外へ出ても構わないと旦那様は仰った。
隣国で発生し、オーランド領に流入した疫病も収まり、国境の封鎖も既に解かれたらしい。
「王命から逃げるのならば、むしろ国境を越えて外国へ行った方が良い。だが、そうなれば、幾らでも金が必要になる。……クラウス」
旦那様がクラウス様に命じて、金の用意をさせていた。
「……旦那様、そのことならどうか心配なさらずに。……グランブルグ家のような贅沢は無理ですが、リリアナ様とレオン様には決して不自由はさせないつもりです。金は、私がどんなことをしてでも稼ぎますから」
「まあ、そう言うな」
私の言葉に旦那様が、ふっと小さく笑った。
「お前の気持ちは嬉しいし、……レオンなら、きっとお前と一緒にいられるだけで良いと言うのだろうな。……だが、リリアナはそうはいかないだろう。こんなことになるとは思わずに、私が甘やかし過ぎた。……すまない」
旦那様の言葉に、私ははっとした。
……リリアナ様。
その素性を誰にも知られるわけにはいかなかったレオン様は、いつも質素な服を着て、私と一緒に安宿で過ごしていた。
名門伯爵家の子息でありながら、それを気にする様子もなく、レオン様はいつも楽しそうに笑っていた。
だが、リリアナ様はそうはいかない。
生まれた時からずっとグランブルグ伯爵家で大勢の使用人達にかしずかれて育ち、贅沢な暮らしが当たり前だったリリアナ様に、常に追手から逃げ回らなければならない生活が、果たして耐えられるだろうか。
私がどんなに努力して稼いでも、旦那様に及ぶはずもない。
そんな生活に、リリアナ様が耐えられるだろうか。
「……レオンには、申し訳ないと思っている」
旦那様がぽつりと零した。
「同じ伯爵家の子供として生まれながら、あの子には何の贅沢もさせてやれなかった。……いつかもし、迎えに行くことが出来たとしても、その時にはもう何もしてやれないかも知れない……」
ゆっくりと私のもとへ歩いて来た旦那様は、そっと自分の指にはめていた指輪を引き抜いて私に渡した。
グランブルグ家の百合の家紋が彫られたその金の指輪は、ずっしりと重かった。
「それは、グランブルグ家の当主の証だ。代々受け継がれて、私も父上から引き継いだ。……レオンに渡して欲しい」
「……旦那様」
「もっともレオンがそれをお前から受け取るときには、もはやグランブルグ家は存在していないかも知れんがな」
自嘲するように旦那様が笑う。
「……もし、あの子達が別々の体で生まれていれば、また違う未来があったのだろうか。……まあ、今更考えても仕方のないことだが、どうしても時々ふと考えてしまうんだ」
一つの体を二人で共有するのではなく、もしも初めから別々の体で生まれていれば。
レオン様はこんな風に逃げ隠れすることも無く、ごく普通の貴族の令息として育ち、何の問題も無く旦那様の跡を継いでいただろう。
アシュラン様のオーランド領をも引き継いでいたかもしれない。
リリアナ様もここまで過保護に育つことも無く、ごく普通の貴族の令嬢として生活していただろう。
名門貴族の令嬢として、最初から王族の相手と目されていたかもしれない。
別々の体で生まれていれば。
これほどに、運命が絡み合ってもつれてしまうことも、きっと無かっただろう。
考えても仕方のないことだが、それでも考えてしまうという旦那様に、私は何も言えずにいた。
その考えを何処かへ追いやるように軽く頭を振って、旦那様は私を見た。
「それは本来ならレオンが受け継ぐべきものだ。あの子に渡してやって欲しい」
「はい。必ず、レオン様にお渡しします」