110. 父の愛
王命によるエリオット王子との婚姻を、絶対に嫌だと泣き叫んだリリアナ様は、そのうちにぷつっと糸が切れたように意識を失って倒れた。
「リリアナ!」
駆け寄った旦那様が、床に倒れているリリアナ様を抱き上げて、そっと長椅子に寝かせる。
「……まあ、こうなるだろうなとは予想していたが」
「何を呑気なことを言っているのよ」
「レティシア、そう言うな。……リリアナは弱い」
意識のないまま長椅子に横たわっているリリアナ様の、涙に濡れた頬を指で拭いながら旦那様が呟く。
リリアナ様が安らげるのは、きっと眠っている今だけ。
目覚めてしまえば、王命によるエリオット王子との婚姻という現実が待っている。
それは、伯爵である旦那様といえども逆らえない。
……そして、その現実を受け入れなばならないのは、リリアナ様だけではない。
……レオン様も、……私も。
「……クロード」
しばらく黙ってリリアナ様の顔を見つめていた旦那様が、突然私の名を呼んだ。
「旦那様、私はここに居ります」
「……お前に、リリアナを預ける」
愛おしむように、優しくリリアナ様の髪を撫でながら、旦那様が私にそう言った。
……リリアナ様を私に預けるとは、どういう意味だろう。
エリオット王子との婚姻が決まり、リリアナ様が王子妃となれば、平民の私はお側には居られず、もはやお守りすることもかなわない。
リリアナ様を私に預けるという旦那様の意図が、私には掴めなかった。
「あの、旦那様。リリアナ様を預けるとは、……?」
長椅子の横にしゃがんでリリアナ様を見つめている旦那様の前に跪いて、私はその意図を尋ねた。
「……リリアナをつれて逃げろ」
「あなた!」
「私は、王命に逆らう。リリアナをエリオット王子の妻にはさせない」
リリアナ様をつれて逃げろという旦那様の言葉に、奥様が青ざめて声を上げる。
……王命に逆らう。
……リリアナ様をつれて逃げる。
それが、どういうことを意味するのか、その場に居る皆が分かっていた。
一気に空気が緊迫して張りつめる。
「……そんなことをしたら、いくらあなたでもただでは済まないわ。分かっているの?……リリアナの為に、そこまでする気なの?」
「……リリアナじゃない。……レオンだ。……私はレオンを守りたい」
旦那様が訴えるように奥様を見上げる。
「リリアナが王子妃になれば、レオンはもう一生出て来られないだろう。あの子は、これから先、一生をリリアナの中で眠り続けて終わることになる。……まるで、飼い殺しだっ。そんなこと、あの子にさせられない。……私は父親らしいことを、あの子に何もしてやれなかった。だから、レオンを守る為に、……リリアナを逃がす」
「…………」
「父親として、今度こそレオンを守ってやりたい」
「旦那様……」
「クロード、お前に子供達を預ける。……どうか、守ってやって欲しい」
そう言って旦那様は私に頭を下げるが、私には返事が出来なかった。
……私がリリアナ様をつれて逃げたら、旦那様はどうなるのだ?
王命に逆らえば、旦那様といえども無事には済まない。
このグランブルグ伯爵家はどうなる? 奥様は? 皆はどうなるのだ?
「……母親として、あなたの気持ちは痛いほど分かるわ。……でも、王命に逆らって、……どうなるか、分かっているの?」
苦しそうに問いかける奥様に、旦那様が優しく微笑む。
「レティシア、お前もリリアナと一緒に行きなさい」
「……え?」
「……罰は私一人が受ける。……罪が及ばぬように、お前や子供達とは縁を切る。この屋敷の使用人達にも領民達にも、決して手出しはさせない。だから、心配はいらない」
離縁するという旦那様の言葉に、奥様は呆然と立っていた。
あれほど奥様とリリアナ様を溺愛していた旦那様が、累が及ばぬように縁を切るという。
自分一人がすべての罪を被って、妻子を逃がすという。
その旦那様のその覚悟に圧倒されて、口を開くものは誰もいなかった。
「レティシア、リリアナとレオンを頼む」
ゆっくりと立ち上がった旦那様が、何も言えずに無言のままその美しい顔を歪めている奥様の頬にそっと触れる。
「レティシア、愛している。初めて会った時からずっと。……共に過ごせて、幸せだった」
奥様は目に涙を溜めながら、自分の頬に当てられた旦那様の手に自分の手を重ねて、黙って旦那様を見ていた。
「義父上に、一生側にいて守ると誓ったが、……果たせそうにない。どうか、許して欲しい」
奥様のその大きな青い目から、ほろりと涙が零れ落ちた。