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106/156

106. 母は強し

 これは、私への罰だ。


 己の主に恋をするという許されない罪を犯した私への罰だ。

 あんなにも私を可愛がってくださった、信頼して御子を預けてくださった旦那様を裏切ってしまった。

 どれほど旦那様を落胆させてしまっただろう。

 旦那様の心中を思うと申し訳なく、自分が情けない。

 あれほど祖母にも言われていたのに。


「決して恋してはいけない。身分をわきまえなさい」


 分かっていたのに、それでも抗えなかった。

 自分を抑えきれなかった。 

 どうしても、レオン様に惹かれてしまった。


 ここを出て行かなければならない。


 もう、ここには居られない。 

 もしも許されるなら、一生お側にいてこの手でお守りしたかったが、旦那様に知られてしまった以上、ここを出て行かなければならない。


 ……レオン様。

 何処までもついて行くと、一生側を離れないと誓ったのに、もう会えない。




「うっ……」


 全身を打ち据えられた痛みに堪えながら、私は床に横たわっていた体を起こした。

 背中が焼けるように痛む。

 その痛みに気を失いそうになりながらも何とか立ち上がり、旦那様の前に頭を下げた。


「……旦那様、……長い間、お世話になりました」


 旦那様はそれに応えず、私の方を見ようともしなかった。

 クラウス様が、もう行けと無言のまま顎でドアの方を示す。


 そして、私は旦那様とクラウス様の前から下がり、部屋から出て行くべくドアに手を掛けた。


「……あら、もうお話は終わったの?」


 私が出るより一足早く、奥様が中に入ってきた。


 部屋の中のその異様な空気を察したのか、入り口に立ったまま旦那様とクラウス様を見ていた奥様は、俯く私の顔を目にした瞬間、大きな声を上げた。


「クロード! あなた、口から血が出ているじゃない! 何があったの⁉」


 ハンカチを手に私の口元を拭おうとする奥様に、旦那様が叫ぶ。


「レティシア、放っておけ! そいつはもう我が家とは関係ない! たった今クビにした!」

「……クビって、あなた、何を言っているの? クロードがいなくなったら、リリアナの護衛はどうするのよ?」


 奥様のハンカチが汚れてしまうと顔を背ける私に、優しく微笑みながら奥様が私の口元を拭う。

 繊細な刺繍の施された奥様の白いハンカチが、私の血で赤く染まる。

 

 ……優しい奥様。レオン様のお母様。

 いつも温かく微笑みかけてくれた大好きな奥様。

 ここを離れてしまえば、奥様にももう会えない。


「そいつは、レオンをたぶらかした! そんな奴に、私の大事な子を任せられるか!」

「あら、たぶらかしたのは、あなたの子よ」

「……へ?」


 ……不謹慎だが、旦那様が間の抜けた声を上げた。


「そっ、そんなわけないだろう! レオンはまだ五歳の子供だぞ⁉」

「十五歳よ。わたくし達が長く会っていないだけで、あの子はもう十五歳なのよ」

「そっ、それでもレオンはまだ子供だ! そいつが悪いに決まってる!」

「レオンは、お父様に生き写しらしいわよ」

「……へ?」


 旦那様が、また間の抜けた声を上げた。

 何を言っているのかよく分からないような、戸惑った表情で奥様を見ている。

 奥様は、そんな旦那様の様子を気にせずに言葉を続けた。


「あなたは昔、お父様を見ていると妙な気分になると言っていたわよね」

「ちょっ……何を言っているんだ、レティシア⁉ 今はそんなこと、どうでもいいだろう⁉」


 旦那様は取り乱して、声が裏返っていた。


「男なのは分かっていても、美しすぎて捕らわれてしまいそうだと言っていたじゃない。……あなたが抗えないのよ。このクロードが抵抗出来ると思う? しかも、もし向こうから迫ってきたら?」


 旦那様がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。


 ……アシュラン様とはどんな方だったのだろうと、旦那様を見ながら考えていると、私のその視線に気づいた旦那様が顔を赤くしながら喚き散らした。


「煩い! 煩い! そんなことはどうでもいいんだ! とにかく主に心を奪われる護衛なんて以ての外だ! そんな奴はレオンの側には置けない! さっさと出ていけ!」


 荒い息で叫ぶ旦那様に、私が諦めて部屋を出て行こうとすると、奥様が私の手首を掴んだ。


 奥様の優しさは有難くて、涙が出そうになる。

 だが、私がいつまでもここに居ることで、奥様にまで迷惑を掛けるわけにはいかない。


「……もう、いいのです」

「良くないわ」


 強い口調ではっきりと言った奥様は、旦那様に向き直って口を開いた。


「……リリアナなら、許せるの?」


 奥様の言葉に、旦那様がはっとした様子で口をつぐむ。


「あなたは、リリアナの気持ちを叶えてやりたいと言っていたわね? クロードのことを、平民だが心根が真っ直ぐで信頼出来ると。娘を任せても良いと。……リリアナなら許せるのに、レオンだと許せないの?」


 ……リリアナ様を、私に任せる?

 初めて耳にする話に驚いて、私が旦那様を見ると、旦那様は気まずそうに目を逸らした。

 ……どういうことだ?


「クロードが忠義一徹で、リリアナの気持ちがまったく伝わっていない。どうにかしてやりたいと言っていたはずよ。……それなら、レオンが自分でクロードの心を掴まえたことはどうするの? あなたは、リリアナだけにすべてを与えて、レオンからはクロードまで奪うつもりなの?」


 旦那様が唇を噛みながら、困ったような顔で私と奥様を見ている。


「そんなつもりじゃ……。私はただ、レオンが心配で……」

「クロード無しで、あの子達の護衛はどうするの?」

「それは、誰か探せばいい。金を弾めば、いくらでも優秀な護衛は雇える」


 ……新しい護衛。

 私の代わりに、誰か別の男が、レオン様とリリアナ様をお守りするのか。

 私ではなく、誰か他の男が、レオン様を。

 分かってはいたが、悔しくてやりきれない。


「その新しい護衛は、命を懸けてあの子達を守ってくれるの? 口だけでなく、クロードのように本当に命懸けで、川に流されて、火に囲まれて、崖から落ちても、例え自分の命と引き換えにしてでも守ろうとしてくれるの?」

「う、……それは、その、やってみなきゃ分からん」

「やってみてダメなら、子供達はどうなるの?」

「…………」


 新しい護衛が、もしも主よりも自分の命を惜しむような男なら、……レオン様はどうなるのだ?


 想像しただけでも恐ろしいその未来に震えあがった私は、居ても立っても居られずに、部屋から出て行くことも忘れて旦那様の前に駆け寄り、ひれ伏して頼んだ。


「旦那様、どうかお願いです! 私をレオン様の側に置いて下さい! 必ず命を懸けてお守りしますから! どうか!」


 忌々しそうに私を見下ろした旦那様は、仕方無いという様子でため息を吐いた。


「……仕方ない。……クロード、今までどおりリリアナとレオンを守れ」

「はいっ!」

「違うでしょ」


 奥様の冷ややかな声が部屋に響いた。


 一度は追い出された身の私が、再びレオン様の側にいることを許されたのに、奥様は何が違うと言うのだろうか?


 怪訝そうに奥様を見る旦那様と私に、奥様がにっこりと笑う。


「あなたはクロードをクビにしたのよね? それなら、今のクロードは我が家の使用人じゃないわ」


 ……それはそうですが、それが何か問題でもあるのだろうか。


「あなたは、優秀な新しい護衛にお願いして来てもらう立場でしょう? その態度はどうなのかしらね」


 奥様の言葉に、旦那様が目を見開いて私を見る。


「それだけ優秀な護衛なら、我が家でなくても引く手あまたでしょうに。もし断られでもしたら、どうするの? ちゃんと礼儀を尽くさなければいけないのじゃないかしら?」


 旦那様は助けを求めるようにクラウス様を見るが、すーっと目線を外されてしまい、すがるように見た奥様にとどめを刺された。


「大事な子供達の為なら、優秀な護衛に頭を下げて来てもらうくらい、出来るわよね?」

「くっ……」


 何もそこまでせずとも、レオン様のお側にいられるだけで、お許しが出ただけで幸せですと私が言おうとすると、奥様が余計なことは言うなと言わんばかりに首を振る。


 悔しそうに歯噛みをしていた旦那様はやがて観念したように、床に膝をついていた私に手を差し伸べて立たせると、重いその口を開いた。


「……クロード、改めて頼む。どうか、リリアナとレオンを守って欲しい。このとおりだ」


 そう言うと、旦那様は私に頭を下げた。

 旦那様の後ろにいるクラウス様も同じように私に頭を下げている。


 貴族である旦那様が、伯爵様が、その護衛騎士である貴族のクラウス様が、平民の、ただの使用人の私に頭を下げるなんて。

 ……こんな、こんなこと信じられない。


 私が言葉を失くして奥様を見ると、奥様は笑いながらなおも続ける。


「もちろん、お給金も弾むわよね。優秀な護衛ですものね」

「くっ……これまでの倍出す」

「リリアナの婿に欲しかったのなら、それがレオンの相手でも認められるわよね」

「くうっ……分かった、…………認める」




 ……私は、夢を見ているのだろうか。




 こんなこと、起こるはずがない。

 旦那様が、私に頭を下げるなんて。

 旦那様が、私とレオン様のことを認めてくださるなんて。


 こんな都合の良い夢、夢だとしても、信じられない。   


 きっと私は今、夢を見ている。


 現実では有り得ない、到底許されない、幸せな夢を見ている。


 旦那様が、平民の私がレオン様の側にいることを許して下さるなんて。


「……これは、夢だ」

「馬鹿ね、夢なんかじゃないわ」


 奥様がそっと私の頭を抱き寄せて、自分の頭にくっつける。


「これでもう、こそこそ隠れなくていい。堂々としていなさい。わたくし達が許したのだから」


 それでもまだ、ふわふわと夢の中を漂っているような不思議な感覚で、私は戸惑いながら旦那様を見る。


「旦那様、……私はレオン様をお慕いしていて宜しいのですか? レオン様のお側にいて宜しいのでしょうか……?」

「……仕方ないだろう、レオンの方がお前に惚れているというのだから。私はレオンに何もしてやれなかったのに、あの子からお前を奪う訳にはいかない」

「旦那様……」

「その代わり! 決してレオンを泣かせるな! あの子を傷つけたら、今度こそお前を許さん!」

「……素直に、レオンを頼むと言えばいいのに」

「煩い! うるさーい!」


 奥様の言葉に、旦那様は耳を塞ぎながら叫ぶ。

 それを、クラウス様と奥様が顔を見合わせて笑っていた。


 

 ……本当に、許して頂けたのか……、旦那様に……。


 決して許されないと思っていた。


 平民の私が、レオン様の側にいられる。


 そんな夢のような日が来るなんて。


「クロード」


 奥様が、私の胸ポケットからハンカチを引っ張り出して、私の頬に当てた。


 ……私は涙を流していたらしい。

 目頭が熱くなって、次から次に涙が溢れてくる。

 ハンカチはいつの間にかぐっしょりと濡れていた。


 ……レオン様、会いたい。


 今、堪らなくレオン様に会いたい。



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