色づき始めた日々
しばらくして、私は下絵を持ってアトリエを訪ねた。
「こんにちは、神崎です。少し早く着いてしまって、下絵をお持ちしました。」
「どうぞ、入って下さい。散らかってて申し訳ない。もうすぐ皆来るから。」
辺りは珈琲の香りに満ちていた。丁寧に入れられた珈琲の香りって特別で、その香りに包まれていると異空間にいるよう気持ちになる。温かくて、ほっとする香り。伊山君が珈琲を入れていた。
「どうぞ。」と伊山君が出してくれた。
「頂きます。」私はカップを口元に運んだ。珈琲は、重厚なのに優しい香りで、私を笑顔にした。
「はぁー、美味しい。」私は深く息を吐くように言葉にした。
「口に合って良かった。俺、珈琲が大好きなんだよね。例えば、どんなに疲れていても珈琲飲むと、疲れが吹き飛ぶでしょ。イライラしてたら、落ち着くし。万能なんだよね、珈琲って。」
たわいのない会話を楽しんでいたら、時計が17時を知らせた。「おっと、脱線したね、一足先に下絵を見せてくれる?」
伊山君は下絵に目を通しながら「神崎さんて、もしかしてスケッチの勉強してた?」と聞いた。
「よく気付きましたね。一応美大は出たんですが、物にはならなくて結婚後は全く鉛筆持ってませんでしたよ。最近お花の仕事を始めてから久しぶりに鉛筆持ちました。」そう言って私は苦笑いした。
「素敵な感性持っているから、どんな形でも活かせてるなら、有りだよ。良かった!」彼は満足そうに笑みを浮かべて言った。
伊山君の表情が変わった。まるでいたずらっ子の表情だ。
「ところで、神崎さんて普段の移動手段って何?」
「私ですか?近所は自転車移動が多いですけど、仕事は車です。なぜそんな質問を?」
その時、国近さんが急いでやって来た。
「晴人、待っててって言ったじゃん。」と言った後、彼女の鋭い視線がこちらに向いた。
「ノゾ、お客様をお待たせするわけには、いけないでしょ。」
その『お客様』という言葉に少し傷つく私がいたが、気付かないふりをした。
皆が揃ったところで、私の下絵を元に実際に使用する花や植物、石等の自然物などの案や配置などを相談した。
彼らと意見を交えることは、私をワクワクさせた、まるで、学生時代に戻ったかのような高揚感を覚えた。楽しい時間はあっという間だった。
息子が帰って来る前に夕飯の支度をしなければと思い、私は慌ててアトリエを後にした。
送ると言う伊山君の申し出を丁寧に断り、家路へと急いだ。
私は夕飯の支度を終わらせて、息子の帰りを待っていた。
すると主人からのメール「夕飯はいらない。」
最近いつも、これだ。そして決まってお酒や、香水の匂いを纏って帰ってくる。
この人は、何処に居るのだろうか?誰と食事をし、誰とお酒を楽しんでいるんだろう?いくつもの疑問が私を襲う。
今年の仕事始めからしばらくして、主人が携帯をリビングに置き忘れ、シャワーを浴びに行った。その時LINEの着信音、見てはいけないと思いつつも初めて見てしまった。「今日は楽しかったよ~、明日はうちでゆっくりラブラブしようね」
あー、やっぱり、そうだったんだ、予感は現実の物となった。不思議とショックは小さかった。きっと、前から終わってたんだ、夫婦として。その時に気付いた。妻に興味を失った夫、子供に意識が行って夫を忘れた妻。どっちの責任でもないと思ったが、ただただ寂しさが心を覆った。