第十八話:僕にはわかることがある
知れば知る程天井が見えてくる。経験は、知識は人の脚を竦ませる。
まずは自身の弱さを知ることだ。そして、勇気を出して、一歩を刻む。揺るがぬ絶対の意志で。
アリスはそれが、時に狂気と呼ばれる事を知っていた。
普通は――例え便利だったとしても、あれほどの裏切りを受けて、ナイトウォーカーを再び憑依させる事など選べない。
そして、アリスは降り立った。
呼ばれ、馳せ参じる。その剣としても、奴隷としても、恋人としてもこれ以上の悦びは存在しない。
憑依を利用した転移。物理的な距離など関係ない。空間転移のように無理やりゲートをこじ開け移動しているわけでもない。
世界の根底に敷かれたルールを活用したその能力は適切な対策を取らなければ防ぎようのないものだった。
例えば――アリスの持つ《解呪師》の解呪。闇なる者を浄化する神職系職の祈り。あるいは、一部の上級職が持つ他者を正常に戻すスキル。
そのどれもが、たかが作られた魔導機械には持ち得ないものだった。
真に近い闇の中、堕ちた魂が浮かび上がる。
生命吸収の通じない魔導機械。相手の縄張り。無数の眷属。弱い主人。守らねばならないパーティ。そのどれもがハンデにはならない。
今の自分はきっと美しい。アリスには確信があった。
突然出現したアリスに、御主人様の期待に応えられなかった哀れな精霊種達が言葉を失っている。
御主人様は、彼らにアリスの存在を知らせなかったのだ。唯一驚いていなかったのは、怪物――愚かにも御主人様との敵対を選んだ怪物だけだった。
年老いた男のそれに似た嗄れた声が暗闇に反響し、響き渡る。
「ぬしが……ナイトウォーカー、夜の女王、か。魂貪りそれを転用する悪性の中の悪性――」
それは、褒め言葉だ。堕ちた魂はアリスの力の証明である。
怪物の、仲間の、御主人様の注目に、魂が高揚するのを感じた。御主人様が自然な動作で後ろに下がり、それに代わり前に立つ。
ぎょろぎょろと動くワードナーの眼がアリスを見下ろしている。アリスは、スカートの端を持ち上げると、丁寧にお辞儀をした。御主人様の顔を――潰さないように。
「はじめまして、アリス・ナイトウォーカー。ご用命、賜りました」
「知って、おるぞ――魂の吸収とそれを使った生命のストック――ぬしの、力の源泉は――我が眼は、どこにでも、ある。貴様は――少々暴れすぎた」
魔導機械とは思えない感情の篭もった声を聞いても、アリスは揺るがなかった。能力を看破した程度で生命操作は破れない。
見られている。証明できる。裏切ったあの時は、全力だったが、少しだけ本調子ではなかった。御主人様がいなければ、真の力は出せない。
バラバラにする。命令の通りに。薄い笑みを浮かべ威圧する。それと同時に、すぐ右隣の壁を通り抜け、巨大な尾が横薙ぎに襲いかかってきた。
御主人様の選んだ有象無象達が息を呑む。
力と重さ。魔導機械の強みを十分に生かした一撃に、アリスは目を丸くしてみせた。
「……………攻撃しなくていいの? 先手を譲ってあげたのに」
「な……に……?」
ワードナーの声に初めて動揺が交じる。
そっと添えるように立てた手の平に、ぴたりと尾が止まっていた。
ただの金属の塊。質量による攻撃。霊体種にとって魔導機械は相性が悪いが、それはお互い様。互いに相性が良くないとなれば、残るは経験と自力の差。
穴蔵で王を気取っていた人造物など、あらゆる存在に憎まれ戦ってきたアリスからすれば玩具のようなものだ。
引かれる尾を、手を伸ばし捕まえる。残った命を爆発させ、腕力を強化する。足元を空間魔法で固定すれば、後はワードナーとアリスの力勝負だ。
尾の表面に流れた消化液による痛みすら甘美だった。尾を戻せない事に気づいたのか、ワードナーの瞼がぴくりと動く。アリスは頷いた。
「そう――それが、恐怖。私を恐れる者に、私は負けない。だけど、何を恐れているの? 貴方には――魂すらないというのに」
「ぬかせ! 我に、恐怖など、死への恐れなど――なし、夜の女王ッ!!」
ひっそり集めていたのだろうか? 転がっていたワードナーの眷属達の下から、新たなクリーナーが無数に飛んでくる。消化液が、触手による攻撃が、執拗にアリスとその周囲を狙っている。
雨のように降りかかる消化液の中、アリスは嘲笑った。
「くすくすくす、私は貴方の恐怖の正体を知っている。貴方が恐れているのは――存在意義の喪失。これまで地下に篭もり積み立てた栄光を失う事。御主人様は――貴方をばらばらにして、地上に持ち帰る」
§ § §
堕落した魂と神を目指した魔導師の創造物がぶつかり合う。それは酷く邪悪で悪辣で、地の底で起こるに相応しい戦いだった。
アリスは絶好調だった。魂が美しく淀んでいる。その静かな、しかし臓腑の底から響くような笑い声に、完全にスイ達が怯えていた。マスターである僕に向ける目つきまで変わっている。
「なな、なんで、攻撃、当たってないの!?」
船にしがみついたトネールが震えた声をあげる。
飛び交う消化液が、尾が、船に当たる直前で逸れる。大きく跳ねるように突撃してくるクリーナー達も、船に掠ることなく落下する。
ワードナーはどうやら少しでもこちらを削る作戦に移ったらしく、その攻撃には見境がない。
それがアリスの罠とも知らずに――。
魔導機械の力はその性能によるものだ。常に最高性能を自由に出せる彼らは、生まれた時から強力な彼らは、逆に言えば最高性能以上の力を出せない。
柄にもなくワードナーは焦っていた。その攻撃は精彩を失っている。
アリスは華奢だ。生命エネルギーの操作によって能力を強化できる彼女は、それさえさせなければただの肉弾戦の苦手な悪性霊体種でしかない。
彼女の弱点は継戦能力が吸収した生命エネルギーに大きく左右される点だ。ワードナーはじっくり攻撃するべきだった。かつて僕がそうしたように。
《空間魔術師》。別次元に干渉する上級魔導師。それが彼女の放ったペテンの正体だ。
「当たらん!? 逸れる、だと!?」
「くすくすくす…………貴方の手が、滑ってる。私を、御主人様を、恐れている」
空間干渉。その力はただの物理攻撃を行う魔導機械にとって、戦闘経験のない相手にとって、圧倒的だ。
攻撃が逸れるのは空間がねじれているため。消化液が当たらないのは異空間に消し飛ばされているため。初撃を受け止められたのは――空間魔法によって衝撃を全て流したため。
ランドさんとのあの戦いでアリスがその手を使えなかったのは、その術が極めて繊細で、ランドさんの手の内がわからなかったからだ。ランドさん達と比較すれば、ワードナーの攻撃はとてもわかり易い。
ワードナーがアリスに勝つには一撃で仕留めるのが最善だった。だから、最高の一撃を、奇襲で、初撃に放ってしまった。魔導機械の持つ文字通り機械のような精密さで。
嵐のような攻撃を全て受ける事は出来なくても、来るとわかっている攻撃くらいならばどうにでもできる。僕が、そういう風に育てたのだ。
スレイブ同士、相性がなければ育成度合いの勝負になる。僕は最初からアリスが勝つとわかっていた。
スイ達の攻撃を受けても無傷だったワードナーの装甲が、物理防御を無視する空間魔法の刃で容易く削られていく。
身体が大きいというのは、的が大きくなるという事――腕の一本が根本から両断され、ワードナーが呻く。
「ぐぐッ………………これが、ナイトウォーカー…………聞きしにまさる力。荒野を荒らし回っただけの事は、ある」
「くすくす…………誰に聞いたの?」
アリスが逃さないようにその尾を押さえているが、ワードナーは巨躯だ。逃げる事はできなくても自由に動ける。
だが、ワードナーの激しい抵抗がそこでぴたりと止まった。周囲のクリーナー達の突撃も不気味なくらいに停止する。
アリスの表情から笑みが少しだけ引き、警戒するように僕の前に立つ。暴れまわっても本能には飲まれない。立派な姿に、僕は今すぐにでも褒めてあげたくなった。
……うちの子になる?
ワードナーの朗々とした声がアリスではなく僕に向けられる。
「我の、負けだ。フィル・ガーデン。もはや我にはぬし達を倒す術はない――まさかこの身が初戦で敗北を喫すとは…………だが、ああ――不意打ちで殺すには、余りにも惜しかった」
きっとワードナーにとって、アリスが現れるのは予想外だった。もしも知っていたら彼は奇襲で僕を殺そうとしていたはずだ。
憑依を用いた転移を見せたのはアリスの裏切りが露呈したあの日だけ。彼は未知を対策できなかった。それも彼の経験値の不足を意味している。
「フィル・ガーデン、偉大なる探求者、我の最初で最後の敵――ぬしは我に、言ったな。スレイブになれ、と」
「まだ、有効だけど?」
「ふっ」
ワードナーが小さく笑う。アリスがこちらを見て、不満げに眉を動かし、たおやかな指先で僕の手を取る。
大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。彼らは――マスターを裏切らない。
ワードナーが静かに言う。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。感謝するぞ、フィル・ガーデン」
「!?」
アリスが目を見開く。ワードナーが次に取った行動は、跳躍だった。
――潜航。会話中に準備を整えたのか、体表から分泌した大量の消化液により、ワードナーの上半身が水面に飛び込むかのように天井に埋まる。そして――そのまま落ちてきた。
トネールが慌てて船を後退させる。身体をうねらせながら進んでくる様は蚯蚓と言うよりは龍のようだった。
「我が名は、ワードナー、クリーナーロードッ!」
円形の頭部に生えた巨大な口。生え揃った牙は船を大きく逸れ空を切ると、そのまま地面を滑り床に転がったクリーナー達を飲み込む。
相手の策に気づいたのか、アリスの顔色が変わる。そして、ワードナーの最後の言葉が響き渡った。
「さらばだ。我が友」
くぐもった爆発音があがる。ダンジョンが震え、しばらくしてその巨体が崩れ落ちる。スイが口元を両手で押さえ、目を見開いた。
体内に飲み込んだクリーナーを爆破したのだろう。自分に自爆能力はなく、クリーナーの爆発では体表の装甲を破れないから――。
船から身を大きく乗り出し死骸を観察していたアリスが、唇を噛む。白い肌に血の筋ができた。
「やられたッ…………まさか、あのような手を――」
「…………大丈夫だよ、アリス。彼の部品はきっと――その程度では壊せない」
悲しい事だが、機械魔導師のスキルを使えば、粉々にでもしない限り復元可能だ。そして、それをワードナーは知らなかった。
数多の敵を下してきたが、自死を選ぶ敵は初めてだ。
僕が彼の行動を予想しつつも見逃したのは、その選択が余りにも悲しく、余りにも尊かったからなのかもしれない。
これできっと彼は――悔いなく逝けた。
礼のつもりだったのだろうか、彼は床に散らばる残りのクリーナーを爆破しなかった。爆破すれば僕達を――生き埋めにできるかもしれないのに。
太古から、恐らくこの魔導機械の王国の成立当初から生きていた偉大なる友にしばしの黙祷を捧げる。
彼は尊厳のために自死を選んだ。彼は何も吐かなかった。だが、彼は余りにも世間知らずだった。
何も言わなくても、最善を尽くしても――僕にはわかることがある。
そして、僕は大きく深呼吸をすると、精根尽き果てた顔をしたセイルさんに言った。
「船を下ろして、ワードナーをバラして帰ろう。今回の探求はここまでだ」




