第十話:それを離すなんてとんでもない
「ッ……」
街中を音もなく疾走する。景色が目まぐるしく変わる。トネールが天使の声で歓声を上げている。
僕は移り変わる風景を呆然と眺めながら、昔一度、友人の竜の背に乗せてもらった時の事を想起していた。
上空数百メートルを縦横無尽に巨大な翼をはためかせ飛ぶ姿はまさに地上の覇者に相応しく、空から見た風景は国一つを展望できるほど美しく、そして乗せてもらっている身からすればたまったものじゃなかった。
降り掛かってくる凄まじい風圧に髪が巻き上がる。帽子をしていたら吹き飛んでいただろう。
腹に、腕に、胸に、空気の塊が押し付けられ凄まじい揺れが視界を揺さぶった。三半規管が凄まじく揺さぶられる。極めて冷たい空気がかろうじて出ている手首を無情に切り裂く。
だが、スイもセイルさんもブリュムも、そして当然トネールも平気な表情で行き先を見ている。
これが……元素精霊種! 最古より存在していたとされる根源的種族!
やばい、凄い体験は凄い体験だが……意識が飛ぶ。自分の貧弱さを見くびっていた――というか、船を生み出したトネールが何か対策を打ってくれるものだと思っていた。
全身を冷やされて、頭ががんがんする。スタート五分でもう胃の中はひっくり返りそうだった。
艱難辛苦こそが人を強くするを標榜し、精神力であらゆる状況を乗り切ってきた僕でもこの状況はどうにもならないところがある。
そこで、ブリュムが一言も喋らない僕に気づき、僕の表情を見て悲鳴を上げた。
「お、お兄さん!? だ、大丈夫? 死相がでてるよ!?」
「あはははは、大丈夫だよ……」
震える舌を何とか動かし、何とか根性で微笑んだ。立っておられず、ずるずると背を手すりに委ねる。手すりも勿論冷えきっていた。
風の船。速度の出る乗り物とは聞いていたが、これほどか……いや、これほど僕にダメージがあるのは、そんな単純な理由ではないだろう。
この船は推進のために風を『操作』している。その影響がもろに乗車した者に出ているのだ。高等級種族ならば平然としていただろうが、僕のような者にとっては完全に欠陥術式だった。
顔をあげ、息も絶え絶えに確認する。
「で……後どれくらいで着くの?」
「ま、まだ出たばっかりだよ、お兄さん!?」
そんなの知ってるよ。【黒鉄の墓標】まではまだ数百キロある。この速度でも数十分でつくような距離ではない。
とても持ちそうにない。冷たい床に這いつくばるように伏せる。意識がすっと遠くなる。最後に僕の耳に届いたのは、慌てたようなトネールの声だった。
§
「お兄さんさぁ…………もしかして…………馬鹿?」
深い溜息と共にかけられるブリュムの声を、僕は横になりながら聞いた。
船は止まっていた。僕が倒れたのを見てトネールが停めたのだろう。少しひんやりとした柔らかい感触を感じる。膝枕だ。
僕はありがたく頭の位置を変え、ブリュムの膝の上からその整った顔に視線を向ける。
「普通さぁ、辛かったら言わない? 何勝手に気絶してるの?」
まだ身体は冷えているが、先程よりは随分とマシだ。気分も悪くはない。これは快挙だ、元素精霊種に自主的に膝枕してもらえる機会などそうそうない。
冷え切った手を開き、ブリュムの手を握る。ブリュムの体温は純人よりも低めのようだが、今の僕よりは温かい。僕は恐らく紫色に変色しているであろう唇を開くと、囁くように言った。
「いや…………倒れたら罪悪感植え付けられるかなって」
魔物使いというのは感情を揺さぶってなんぼみたいなところがあるし……悪い印象より印象なしが一番良くないのだ。
「はぁ!? そりゃ、そんな顔色してたら罪悪感もあるけどさぁ……お兄さん、自分がどんな顔してるかわかってる?」
「…………鏡はないけどだいたい想像つく」
「確認を怠ったこちらの責任もあるとは言え、なにかあった時は報告してもらわないと困る」
セイルさんが怒っているような呆れているような絶妙な表情で言う。護衛依頼を受けて護衛対象を殺したら大問題なので、当然だろう。
悪かった、悪かったよ。少し調子に乗った。だが、僕の弱さを正しく伝えるのは必要な工程でもある。コミュニケーションというのは積み重ねだ。
「まったく、手間のかかる依頼人だ……」
高い声で言いながら、トネールが風除けの魔法を使う。セイルさんが周囲を警戒し、スイが無言で僕の上に毛布をかけてくれる。なんというか、善意の上で生きているなという感じだ。やっぱりうちの子になる?
ブリュムがぽりぽりと頭を搔き、僕を見下ろして言う。
「お兄さん、もう大丈夫でしょ? 手を離してくれるかな? 後、いつまでそうして転がってるつもり? どいて?」
「…………」
それを離すなんてとんでもない。僕は隙あらば(なくても)声をかけるし、触れるし、データを取るよ。
だが、あいにく今回はただ迷惑をかけるために同行したわけではない。セイルさんが手を差し伸べてくれたので、ありがたくそれを取って身体を起こす。危うく死ぬかと思った。
風の船は高さ数メートルのところで浮かんでいた。船の中から下を見下ろすと、どこまでも広がる荒野と巡回する多種多様な魔導機械が見える。
アリスに背負われ空から見下ろした時も思ったが、こういう遮蔽物のない地形で制空権を取れるというのはかなり有利だ。遠距離攻撃さえ使えれば、相手次第では一方的な戦いになる。魔導機械の残骸は高値で売れるし、やり方次第ではそれだけで一財産作ることもできるだろう。それを考えると、空を飛べるのに餓死しかけていたアムのダメっぷりが際立つ。
と、そこで遥か遠くに以前アリスと共に戦った無数の砲塔を持つ亀型魔導機械が見えた。超遠距離狙撃を得意とする移動要塞。レイブンシティ近辺では珍しく群れを作らず、荒野全域に分布する魔導機械だ。
彼我の距離は以前アリスと共に相対した時と変わらなかったが、魔導機械は攻撃を仕掛けてくる素振りを見せなかった。基本的に魔導機械の攻撃はシステマチックに行われる傾向があるのだが、射程以外に何か条件でもあるのだろうか?
眉を顰め冷静に分析していると、セイルさんが強張った表情で声をあげた。
「…………フィル、手を離してくれるかな?」
「お兄さん、まさか見境ないの?」
「…………チャンスを見逃さないと言って欲しい」
手を離すと、僕は座り込み、ついでに近くにいた無愛想なスイを抱きかかえ、ブリュムに頭を叩かれた。
「そういう事じゃないから。お兄さん、距離の詰め方バグってるでしょ! 何? 恥とかないの?」
水の精霊だけあって、スイの体温は純人より僅かに低い。だが、それでも冷えきった今の僕の身体よりは遥かに暖かく、湯たんぽのようだった。
迷惑そうな顔をしているが、忌避感が勝った時に跳ね除ける事を躊躇うタイプにも見えないので問題ないだろう。顔を上げ、満面の笑みを浮かべお礼を言う。
「ありがとう、助かったよ。僕はもう大丈夫だ、先に進んでくれ」
「……セイルさん、私が間違えてた。やっぱりこの人、放り出した方が良くない?」
「……そういう訳にもいかないだろう……もう依頼を受けてしまった」
諦観したようにセイルさんが肩を落とす。そして、船が再び進み始めた。
§ § §
久々の通信を受け、それはゆっくりと身を起こした。
長き年月をかけ掘り進めた幅広の空間は真の闇が支配しており、夜目の利く種族でも見通す事は叶わないだろう。魂持つ者の侵入を一度として許していないその空間にはどこか寂寞とした空気があった。
その洞穴の最奥に、それは在った。ぬらぬらと粘液に塗れたどこか有機的にも見える体皮。小山のような巨体は無数の節からなり、身体の下にはその巨体には見合わない細い腕が無数についている。
どこか生き物じみているが、その頭頂に存在する無数の目には命の輝きがない。
――それは、孤独の王だった。
表に出ることを求められず、ただ地底に身を潜め命令を果たし続けた孤高の王。搭載された無数の機能のほとんどを使う事もなく、自分がどのような役割を担っているのかも知らない大いなるシステムの一部。
自ら生み出した眷属は命令に従い動くだけの存在で、知性一つもない。
魔導機械は極めて効率的だ。その本能に寂しさを感じるような機能は搭載されていない。だが、数年ぶりの通信に、どこか高ぶりを覚えるのは長き年月を誰にも気づかれぬ事なく生き続け自己進化を果たした結果だろうか?
「SSS……探求、者……魔物、使い…………」
嗄れた呟き。続いて、声なき咆哮が空間を駆け抜ける。
全土に散らばった自らの生み出した眷属――肉体の一部に号令をかける。久方ぶりの、それも一方的な命令だったとしても、役割は果たさねばならない。
それが、彼の存在理由なのだから。




