閑話その1:悪性
§ § §
それは、見るからに弱っていた。
アリスと比べるべくもない低い種族等級に、人間に迎合しようとした精神の弱さ。
取るに足らないと思っていた。だから、アリスは『威圧』しなかった。
失敗だった。中途半端な事はするべきではなかった。アム・ナイトメアはしっかり排除するべきだった。
敬愛するご主人さまの下で力をつける前に。
部屋にはアムとアリスしかいなかった。夜。周囲には小さな物音すらない。
そんな静寂の中、アリスを呼び出した夜魔が、はっきりと言った。
「貴女の目的は――アシュリーの殺害だった」
「ッ……」
絶句するアリスに、アムがまるで当然のように言う。
「なんでわかるかって? アリス、貴女の動きは――私がするかも知れない動きです」
これだ。
同種だからこそわかる強烈なシンパシー。
目の前のそれは魂の格すら低くても、紛れもなくアリスと同じ忌み嫌われる悪性の魂だった。
「だから、さっさとフィルさんの所にこなかった。私という、フィルさんに誤ってライフドレインをかけてしまうような、邪魔者の発生を黙ってみている事しかできなかった」
その通りだ。アリスは生命操作に特化した種族だ、縁を通してライフドレインからマスターを守るなど造作もないが、そもそもそんな事をするならさっさと相手を殺してしまった方が手っ取り早い。
いつもならば、躊躇いなくそうしていた。
「憑依を使った転移は一方通行、一度こちらに来たら、二度と王国には戻れない。その前に貴女にはやるべき事があった。貴女の右目に刺さっていたのは確かに――フォークでした。そして、貴女は、戦闘中で――そして、『生命回帰』を行う余裕がないくらい追い詰められていた」
アムが淡々と続ける。
アリスの想定では、フィルは例え異国の地で契約を結んだとしても、悪性霊体種とだけは結ぶはずがなかった。何故ならば、アリスが既にいるから。
それを力づくでひっくり返すなど予想もしなかった。この女が居なければ私は――。
「あはははは、おっかない顔しないでくださいよ、アリス」
その笑顔が自身のマスターに重なって更にアリスの心を苛つかせる。
殺すか? 一瞬よぎった考えを即座に却下する。
駄目だ。今アムがいなくなったらフィルは間違いなくアリスを疑う。
あんな雑な計画が通じたのは初回だけだ。
「負けたん、ですね。一ヶ月も、準備に時間をかけて。そのせいで、ランドさん達との戦いで、全力を出せなかった。ライフストックを絞り出しても、全員殺し切る自信がなかった。だから、脅した」
「……ッ」
その通りだ。目の前の雑魚の言う通りだ。アリスは負けた。完膚なきまでに負けた。
夜の眷属が最も強くなる月齢を待ち、マスターとの契約を断ち切り、入念に準備して奇襲を掛け、敗北した。長距離転移で失った力は回復しきれていなかったとはいえ、そんなもの言い訳にもならない。
フィルを遠ざけるところまではうまくいった。あの僅かな時間でアストラルリンクも解除できたし、憑依も気づかれる事なく成功した。
計画は万全だった。勝てるはずだった。後はアシュリーを倒し、憑依を通じてフィルを見守りながら、機を見計らって姿を現す。それだけのはずだったのに――肝心なところで想定外が発生した。
マスターを失ったはずのアシュリーの力が――落ちなかったのだ。
アシュリー・ブラウニー。フィル・ガーデンが最初に契約した『眠れる姫』。
最弱の種族に生まれたにも拘らず弱者のまま死ぬ運命に逆らった家事妖精。
それは、アリス・ナイトウォーカーがこれまで見たことのない怪物だった。
アリスが最高傑作なら、アシュリーは狂気の産物だ。
幻想精霊種とは物語の具現。シィラ・ブラックロギアが昏き森に潜む邪竜の王の物語ならば、ブラウニーとは本来、古い屋敷でひっそりと家事を行う、そんな物語だ。
それを、物語を、存在理由を、恐らくアシュリーは書き換えた。それは余りに忌まわしい行為だ。
そう簡単にできることではなく、やって良いことでもない。だが、アシュリーはやった。
そこに見えるのは尋常ではない覚悟。何より恐ろしいのは、躊躇いなく自身を捧げる精神性だ。
アリスはアシュリーのコピーだ。成り代わるために姿を変えた。マスターの呼び方も、服装も。
『白銀の彗星』――技すらも模倣した。
「勝てるはずだった。アシュリーの職は《従者》。たった一人決めた主人の近くにいる事で力を得る、取るに足らない職。負けるわけなどなかった。いつも通りならッ!」
完膚無きまでに負けた。一万の命があると言ったのはブラフだが、もしも一万あったとしても、あの怪物は一万の命を削ってきただろう。
敗因はわかっている。
その光景を思い出し、アリスは呟いた。
「眠れる姫が――目を開けていた」
アリスが最初に出会った時、既にアシュリーは一日の大半を夢の中で過ごしていた。
まるで圧倒的な力の代償とでも言うかのように、起きている時間は極僅かだった。
だが、今ならばこれまで眠っていた理由もわかる。
それが、アリスには我慢ならない。唇を噛む力が入りすぎ、血が溢れる。
「ご主人さま、だ。あの怪物は――ご主人さまの、『眠り』を引き受けていた」
フィルはこの地で何度も眠りに引き込まれた。
あれは恐らく、『正常な反応』だ。
憑依で一月の間、陰からフィルを観察していてわかった。
きっと、この世で最弱の肉体しか持たない純人にとって、膨大な意志力で肉体と脳を酷使する戦い方は負担が大きすぎるのだ。だから、ブラックアウトする。
王国では、アシュリーがアストラルリンクを通じて負担の大部分を背負っていただけで――。
魂の契約は死の共有すらも可能にする。ならば、負担を受け入れる事など容易いだろう。
だが、何も言わず、何も求めず、負担だけ受け入れるなど、アリスにはとても考えられない。
絶対に許可は取っていない。ご主人さまがそれを許すわけがない。
「絶対の忠誠――奴を潰すには、骨が折れる」
あまりにも強すぎる。絶対強者として生まれたアリスをも寄せ付けない力。
かつての仲間相手に躊躇なく殺しにかかる精神。目をつぶれば、アリスを塵芥のようにしか見ていないその眼差しが、声が、脳裏に蘇る。
「でも、この地までは届かない」
「来る。あの怪物は、絶対に追ってくる」
それは確信だった。
アリスは細心の注意を払ってフィル・ガーデンを殺した。一般的に解除不可だと思われている魂の契約を、わざわざ職の枠を一つ潰し、二年もの歳月をかけて極め、解除した。ギルドの奥に安置してある炎の魔導具の方にも手を加えている、抜かりはない。
だが、それでも奴は来る。アリスが奇襲をかけてきた意味を理解できないほど馬鹿ではない。
「共に、戦いましょう」
「……足手まとい」
「強く、なります」
アムが断言する。その眼は昏く輝き、アリスがフィルに抱いているものと同じ妄執が見えた。
この女の目的は永続契約だ。そして、そのためならば何でもやる。
たとえ嫌っている同種のライバルとも手を組む。目論見はわかっている。
アリスの眼を見て、アムが笑う。
「ならば、こう言い換えます。アシュリーを殺そうとしたこと、フィルさんの友達を殺そうとしたことを、全て黙っててあげます。だから、世界を半分こしましょう?」
「……お前も黙っている事がある。お前は嘘をついた。私の存在に気付いたのは――推理したからじゃない」
いけしゃあしゃあとフィルに推理してみせたが、あの推理はほぼ正解だったが、推理の順序が違う。
この夜魔は確かにフィルの下で強くなった。だが、恐ろしいのはその点ではない。
「お前が気づいたのは――ご主人さまに、『憑依』しようとして――失敗したからだ」
魂への干渉は早いもの勝ち。恐らくフィルは気付いていないが、干渉は何度もあった。
種族スキルとは種族が生まれ持った特性の事。
それは――本能とも言いかえられる。悪性霊体種が救世主を前にして我慢できるわけがない。
偉そうに推理していたが、聞いて呆れる。この女は、自分に不利になる事を、何も言っていない。
目を細めるアリスに、だが、アムが言った。
「ええ、そうですね。それが何か……?」
悪びれのない表情で、アムが右手を差し出してくる。
ゾクゾクするような感覚が、その時確かにアリスの背筋を駆け上った。
面白い。
圧倒的格上であるアリスを脅す胆力。細かな情報から真理を導く才覚。そしてミスを隠し通す悪性。
確かに、アリスの持たない力をこの少女は持っている。
故に、手を結ぶ価値がある。刹那の瞬間に、アリスは決断した。
血色の虹彩が元の眼の色に戻る。
それはアリス・ナイトウォーカーにとって二度目の敗北だった。
手を伸ばし、アリスはアムの右手をしっかりと握る。
「脅されてしまったら仕方ない。私の世界を少し分けてあげる」
「……半分ですよ?」
「冗談じゃない。半分もやれない。精々二割。これでも譲歩してる」
「二割!? じょ、冗談じゃないですよ? こっちだって半分こで譲歩してるんですから!」
アムの要求を鼻で笑った。今のアムの力でこれ以上を求めるなど片腹痛いにもほどがある。
アリスだって十分譲歩しているのだ。ムキになって諸手を上げるアムに諭すように言った。
「これ以上を求めるならば、もうちょっと能力を上げる事。能力次第では少しは譲ってあげてもいい」
そして、夜の女王は小さく微笑んだ。




