第五十二話:私のクエスト
その声には慈悲があった。この怪物は本当にその程度の手段で全てを解決出来ると想っている。
これまで感情を露わにしていなかったエトランジュが身を震わし、吐き捨てるように言う。
「全て見なかったことにして、戻れ? 舐められた、ものなのですッ……」
「悪いが、フィルには借りがある。そもそも危険な魔物は探求者として見逃すわけにはいかないな」
「私が確認した貴女の行為は幾つかのギルド規約とレイブンシティの法に抵触しています。貴女には万に一つも勝ち目はありません。これは、警告です。従わない場合は積極的自衛権を行使します」
エトランジュの、ランドの、小夜の強い意志の秘められた言葉に、アリスが俯く。
そして――まるでただの少女のような、心底おかしそうな声で笑った。
「……くすくすくす。愚かな……なんて愚かな、探求者達――せっかく、私が、許してあげたのに」
肌が粟立つ。囲んでいたメンバーが本能的に一歩後ろに下がる。
アリスの目が見開かれ、その魂が爆発した。
――いや、それは爆発ではなかった。
まばゆいばかりの銀の光がその細身の身体から立ち上る。
「くすくすくすくす……まさか、まさか、この程度で、この程度の布陣でッ! L等級へのランクアップを目前としたフィル・ガーデンの最高傑作を倒せると、考えてるなんて――」
それは、力だった。
ランドの、エトランジュの、広谷の強く輝く魂が掻き消されかねない程の膨大な力。
その興奮に開いた血のように赤い瞳がアムを見据える。
「アム・ナイトメアッ! 慈悲深い私は、貴女の事も、許してあげるッ!」
「馬鹿な……長距離転移まで使って、まだこんな力を残して――」
想定外だ。魂の輝きは必ずしも能力とは比例しない。
だが、目の前の輝きは格が違う。ランド達が即席の布陣を組み飛びかかる。アリスの指がアムを指し、歌うように叫んだ。
「でも――『それ』はもういらないでしょ? 貴女はもう、一人でも、戦える。私と、違ってッ!」
「ッ!?」
ピシリと。アムの左手が痛んだ。反射的に自らの左手を見る。
一瞬。僅か一瞬で、十日前から常に感じられたラインが、絆が、アムとフィルを確かにつないでいた契約が断ち切られていた。
「『解呪師』のスキル……それが、『魂の契約』解除のからくり、ですか」
白夜が目を細める。その『職』の名は、フィルの言葉の中にはなかった。
恐らくそれは、フィルの知らないアリスの側面だった。そして、それはこの計画が用意周到に行われた事実を示している。
「ああ、長かった。本当にッ! ようやく終わる。ご主人さま――私を、もっと愛してください」
高まった感情が力となってアムを揺さぶる。
上に伸ばされた白い腕。一瞬だけ、その手の甲がアムの視界に入ってくる。
――その時には、既に終わっていた。
「破砕嵐ッ!」
「電子圧縮!」
瞬時に距離を詰めたランドの巨大な槌が唸りをあげてアリスの細身の肉体を穿った。
まるで花が咲いたように四散したアリスの身体に、エトランジュの手に発生した黒い波動が襲いかかる。
一秒もかからなかった。アリス・ナイトウォーカーの姿が完全に消える。
残ったのは地面に飛び散った血だけだ。周囲には肉の一片も残っていない。あまりの凄惨な光景に、リンが小さく呻く。
「ッ……あの力、加減、できなかった」
「はぁ、はぁ……完全に、圧縮してやったのですッ!」
あっけない。だが、たった一手で魂を消し飛ばした二人の表情には一切の余裕が見えなかった。
相手は理解不能の怪物だ。鎚を握ったランドの手はまだ、細かに震えている。
だが、アムの頭にあったのは一秒前に見た光景だった。
「契約の紋章が……なか……った?」
冷や水を浴びせられた気分だった。
いや、冷静に考えれば、当然だ。
フィルは、アムとの契約すらぎりぎりだったのだ。たとえ本人の同意があったとしても、アリスと契約が結べるはずがない。
『魂の契約』だったら、可能だったのだろう。だが、その席には既に信頼するスレイブが座っていた。
契約というのは目に見えた信頼の形だ。そしてそれは、孤独な悪性霊体種にとっての拠り所である。
フィルは、アリスとの絆を『信頼』だけで十分だと感じていたのだろう。実際に『命令』が通じていない事を最後まで疑っていなかった。
そういう意味できっと、フィル・ガーデンはアリス・ナイトウォーカーを全く理解していなかった。
愛したマスターをも裏切らざるをえなかった絶望。その理由がわかった気がした。
呆然とするアム。薄明かりが差し込む工場内に静かな声が響き渡る。
「同情なんて……いらない」
「!?」
それはまるで冗談のような光景だった。地面を濡らしていた血溜まりが光を放つ。
そして、刹那の後、そこには元通りのアリス・ナイトウォーカーが佇んでいた。
血に濡れていたはずのドレスは純白に戻り、その眼差しからは一切の痛痒は見られない、
生命の理を超越した不死性。至近距離にいた二人が一瞬唖然とし、しかし素早く距離を取る。
「あり……えない。あそこまで破壊して、再生?」
「服まで元に戻ってる……ただの回復スキルじゃない、のです」
馬鹿げた力だ。町一つを飲み込んだ亡霊の姫。銀の光が瞬き、その魂が膨大な魔力で満ちる。
フィルはアムにある程度、アリスの力を教え、アムはそれに基づき戦力を集めた。だが、実際に目で見ると何もかもが違いすぎる。
アムの脳内を、かつてフィルが述べた言葉が通り過ぎる。
「『生命操作』……ライフ……ストック。命を……ストック……するスキル?」
忘れていた。フィルはアリスとアストラルリンクで繋がれていなかった。
だが、それとは別に、彼は一切アリスの生存を疑っていなかった。全く考慮していなかった。
常識はずれの生存能力。これが、その理由。
これがきっと、最後の戦いにアシュリーではなくアリスを選んだ理由なのだ。
「残念。私のクエストを受けるのは――まだ、早い」
強い光がアリスの右腕に集まる。それは既知だった。フィルから聞いていた。
生命力を自在に操り変換する、アリスの力の一つ。魔王をも殺す純粋なる破壊力の放出――。
「『エヴァー・バレッド』」
「ッ――『遮断壁』ッ!」
銀の光が無数の球をなす。それとほぼ同時に、エトランジュが力を行使する。
広く発生した透明な壁に光の球が連続で着弾する。工場が激しく揺れる。だが、壁は揺るがない。
「う、うおおおおおおおおおおおおおおッ!」
恐怖を吹き飛ばす咆哮。ランドとガルド、広谷が疾走した。リンが広谷に補助スキルをかける。
無数の刃が、先程一撃でアリスを粉砕した打撃が放たれる。それをアリスは、無防備に受けた。
刃は、容易く振り抜けた。その細身の身体がバターのように切り裂かれ、ランドの一撃で粉々になる。だが、瞬きした次の瞬間、アリスは平然とその場に立っていた。最早それは再生の範疇にない。
まだ残心すら終えない探求者達を見て、アリスが嗤った。
引っ張られるような感覚。アムの背筋を冷たいものが駆け巡る。
「『ライフドレイン』」
それは、アムにだって使える、悪性霊体種の本能とも言える基礎的な種族スキルだった。
だが、それは何もかも違っていた。
ランドの、ガルドの、広谷の、エトランジュの肉体から透明な何かが引きずり出される。本来触れなければ影響を及ぼせないはずのスキルが、生命が成り立つのに必要な何かを吸収する。
「ぐッ……まずい――」
「ッ……『閉鎖回路』!!」
アリスを中心とする空間が断絶される。生命を奪い取っていた何かが遮断される。
だが、既に遅かった。悪性霊体種の力は有機生命種に特別、効果がある。
前に出ていたランドとガルドの身体が大きくふらつき、倒れる寸前になんとか立て直す。
後ろにいたエトランジュと有機生命種ではない広谷の二人はまだマシでしっかりと両足で立っているが、その表情には明らかに強い疲労がある。
アリスがそれを見て、追撃もせずまるで見せつけるように唇を舐める。
「さすが――腐っても、高等級探求者。素晴らしい……生命力」
「町一つ飲み込んだ……災厄」
たった一つしか種族スキルを持たないと、聞いていた。だが、その一つを使いこなしている。
ランドが咆哮する。自らを鼓舞し、能力を向上させるスキルだ。ガルドが素早いフットワークでアリスの背後に回る。エトランジュが呼吸を落ち着け、術を練り上げる。
そして、アリスの纏う光がその細身の身体に収束した。
目にも留まらぬ速さで放たれたガルドの刃が空振る。真上から振り下ろされた巨大な槌を、アリスは両腕で受け止めた。
足元が陥没し、両腕が鈍い音を立てあらぬ方向に折れる。渾身の一撃を受けられたランドの表情が歪む。アリスが血まみれで笑う。無防備なアリスの背に広谷の刃が迫る。しかし、振り切る事はできなかった。
「か、硬い……ッ、『一閃両断』を素で受け止めた、だと!? ありえんッ!」
その肢体は先程とは違うしめやかな光に満ちていた。
生命力だ。生命のエネルギーが、肉体を強化し、刃を阻む盾となっているのだ。
放たれた蹴りがランドの鳩尾に突き刺さり、その巨体を紙切れのように吹き飛ばす。目にも留まらぬ掌底が動揺に一瞬固まるガルドの顎を打ちつける。舞うような動きで広谷の攻撃を回避したところで、その身体を銃弾の嵐が薙ぎ払った。
「はぁ、はぁ……どうやら、私の方が、相性が、いいみたい、なのですッ!」
スキルによるものだろうか。地面に生えた無数の機銃の側に蹲り、エトランジュが息荒く言う。黒光りする機銃は死神の鎌を想起させた。だが、上半身を失ったアリスは一瞬で再生し、平然と襲いかかる。アリスは笑っていた。
「くすくすくす……恐ろしい威力。でも――機械魔術師は燃費が悪い。後、何発打てるの?」
「うる、さいッ! 好きなだけ、食らわせてやるの、ですッ!」
エトランジュが転がるように後ろに下がる。掃射は続いているが、亡霊は嵐の中、己の身が破壊されるのも意に介さずに襲い掛かって来る。飛びかかる寸前に、アリスが笑みを浮かべた。
「五個は、減らしたのですッ!」
「くすくす、おめでとう。後、たった一万くらい殺せば私を殺せる」
「ッ!? くだらない、冗談を――」
「『ライフドレイン』」
「ッ……『閉鎖回路』」
アリスのスキルとほぼ同時にエトランジュが防御スキルを発動し、壁でスキルを遮断する。
生命は無事だったが、両者の消耗度は明らかに違っていた。
アリスの顔色は全く変わっていないが、エトランジュは幽鬼のように青ざめている。強すぎた。
ランドは強い。エトランジュだってこれまで見た探求者の中では隔絶している。
だが、違いすぎた。一対多数なのに、万全の態勢を整えたのに、勝てるビジョンがまるで浮かばない。
アリスの手がエトランジュに伸びる。その指先が触れる寸前、黒髪の機械人形が飛び込んできた。
「スキルによる攻撃を検知。ギルド規約にもとづき、応戦を開始します」
「次から次へと――ご主人さまの人望には、うんざり。ライフドレインは貴女には無影響のはず」
「『光子ブレード』」
「ッ!」
小夜の右手が握られる。そして、その中から光の剣が現れた。光の剣がアリスの身体をするりと通り抜ける。小夜の眉が顰められる。
「弱点は知ってる」
「『透過』ッ……殴打に変更します」
すかさず放たれた拳をアリスが受け止め、大きく放り投げる。小夜が滑らかな動きで着地し、そのまま突進する。アリスが光球を放つが、それらを光の剣で切り払い距離を詰める。
エトランジュが呼吸を整え、広谷が追い、飛ばされたランドとガルドが戦線に復帰する。
アリスが眉を顰め、その手を上げる。膨大なエネルギーが収束し、高い天井付近まで昇る。
「鬱陶しい小虫……「『楽園の銀星』」
光が、降ってきた。その数も威力もこれまでの比ではない。
「はぁ、はぁ、はぁ、『光学管制斜壁』!」
それを、地面から生えた無数の黒塗りの砲塔から発射された金色の光が迎え撃った。空間というキャンバスに描かれた光の線が、空から降り注ぐ銀の流星とぶつかり、きらきらと残滓を残す。
拮抗していた。だが、もうエトランジュは限界だ。スキルを使いすぎて魔力が枯渇している。
光が消える。残ったのは無残な戦場と、滝のように汗を流し、身を震わせている少女だった。
駄目だ。勝てない、次に大技が来たら、負ける。
「『ライフドレ――」
スキルを起動させかけたアリスを、息も絶え絶えのランドが粉砕する。復元しながら後ろに下がるアリスを、ランドがひたすら追う。
その鎧には大きなヒビが入り、しかしその動きは初撃と遜色ない。
魂を燃やしているのだ。そこにすかさずガルドと小夜、広谷が加勢する。さすがのアリスもこの状態で大技を放つ事はできないようだ。セーラが今にも気絶しそうなエトランジュに回復魔法をかける。
戦わなければ、と、アムは思った。だが、今の精神状態でアムが入ったところでどうにもならない。
白夜が冷ややかな眼でアムを見る。だが、その眼がアムを蔑んでいないことは既に知っている。
「想定外、ですか」
「は、い。絶対、勝てる、はずでした」
アリスは弱っているはずだった。なにせ、超長距離転移はフィルの言葉によると、本来考慮に値しないレベルの大技なのだ。
そもそも、力が戻っていたら、目的を達してさっさと彼女はフィルの元にやってきたはずである。
完璧なパーティを作った。こんなに沢山の他者を頼ったのは初めてだった。万全を尽くした。苦戦する可能性こそあったが、負けるわけがなかった。
動揺に乱れる精神をなんとか整えるアムに、白夜が静かな声で言う。
「貴女の役割は勝つために最善を尽くすことです、アムさん。アリスは、貴女が考えているよりは弱っています。私は戦えませんが、センサーは小夜より優秀です」
「…………え?」
予想外の言葉に目を見開く。白夜は会話の間もずっとアリスを観察していた。
アリスの表情は平静だ。アムの眼には最初と変わらないように見える。幾度身体をえぐられても、全身を粉微塵にされてもすかさず立ち直っている。
「アムさんの話が正しければ――彼女は真性の怪物です。悪性霊体種は有機生命種に強い。相性の悪いランドさんやエトランジュさんがまだ立てている時点で弱っている事は確定でしょう」
その言葉に、アムはアリスを見た。目が覚めるような思いだった。その通りだ。
アリスは今、四人がかりで――補助のリンも合わせれば五人がかりで抑えつけられている。だが、本来そんな事はありえない。何故ならば――メンバーの力は均等ではないからだ。
今回のメンバーで一番弱いのは恐らく広谷だ。アリスがそれを知らないはずがない。
にも拘らず、まだ広谷は戦えている。最初に集中攻撃して殺した方が楽なはずなのに。
「弱体? ……違う。手を抜いている……いや――」
違う、アリスは本気だ。本気で攻めようとして――手が鈍っている。そして、アムは目を見開いた。
血のように真紅の瞳。アリスの冷たい眼差しの奥にあるのは…………恐怖だ。
あのスレイブは、怖れている。どうして気づかなかったのだろうか。
アムは真剣な表情で、必死にパーティを回復させているセーラを見た。
「……セーラ、お願いがあるの」




