第四話:うん、よく言った
僕はアムを名乗った悪性霊体種の少女に少しだけ付き合ってあげる事にした。
盗み聞きを指摘され、顔を真っ赤にしているアムを連れてギルドに併設されている酒場に向かう。
無機生命種の分布が多いレイブンシティでもどうやら酒場は変わりないらしい。メニューに無機生命種向けの酒が多い事だけがこの地の文化を示している。
席に座ると、アムが対面に座る。そして、僕は尋ねた。
「で、何だっけ……?」
「……スレイブを探している、と、耳に入りました」
アムが身を縮めるようにして言う。
人里における悪性霊体種の待遇は目に余る。だがそれは必ずしも周りだけの問題ではない。
僕はアムの様子から態度を変えた。脚を組み、偉そうに目を細める。
「ああ、その通りだ。僕は《魔物使い》で、故あってスレイブとコンタクトが取れない状態だ。とりあえずの状況を打破するために、強いスレイブを求めている」
「…………」
アムの目が僕の言葉に小さく見開かれる。僕はそのまま続けた。
「どこまで盗み聞きしたのかは知らないけど……探していたのは善性霊体種か元素精霊種だ。無機生命種と有機生命種でも構わないけど、恐らくスレイブ側の条件で噛み合わないと考えていた」
「その、悪性霊体種の、スレイブが、いたというのは……」
「嘘じゃない。だけど、彼女は嫉妬深いし、同種と契約すると後から面倒になるだろうからね……」
「そう……ですね」
アムが顔を真っ赤にして、さらに身を縮める。見るからにダメなループに入った悪性霊体種だ。
黙って言葉を待つ。アムはちらちら視線を向けてくるのみで、時間だけが過ぎていく。
僕は無駄が嫌いではないが――どうやらこの子にはもう少し助け舟が必要なようだ。
「アム、まずは――しっかりと目を合わせるんだ。ずっと俯いている探求者は悪性霊体種でなくても大成できない。僕の目を見て」
「……」
「うん。とても濁った素晴らしい目をしている」
僕の言葉に、アムが僅かに瞠目する。褒めるのは基本だ。目が駄目なら別の部分を褒めていた。
アムの目は透明だったがその薄墨色の虹彩の奥には鬱屈した感情が渦巻いていた。
絶望、嫉妬、渇望、悔恨、まだこうして大手を振って外を歩けているのが不思議なくらいだ。
どうやらまあまあ酷い目にあったらしい。
「さぁ、アム。忘れないで、何事も言葉に出さなければ意志は伝わらない。目を逸すな。話す事を、話し合う事を、排斥される事を、恐れてはならない」
意識を集中させる。悪性霊体種は精神状態が肉体に如実に反映されるが、それは決して悪い影響だけではない。鋼の意志は彼女たちを怪物にする。ちょっと『調整』するだけでアムも強くなるだろう。
悪性霊体種に善性はなく、故に人の善性を信じない。そしてそれ故に――人里ではうまくいかない。
その資質は『魔物』としては輝くのだが、それは余りにも勿体ないと思う。
「話し、合う……」
アムがまるで熱に浮かされたかのように、掠れた声で呟く。後ひと押しだ。いつだって人を変えるこの瞬間が僕はたまらなく楽しい。アムに命令する。
「さぁ、アム。意見を言うんだ」
「わ、私を……スレイブに、してください」
僕は笑みを浮かべて答えた。
「うん、よく言った。でも、駄目」
「……え?」
さて、やることもやったし、これでアムは大丈夫だ。さっさと指輪を売り払って小夜さんを雇おう。
立ち上がり去ろうとする僕に、呆然としていたアムが慌てたように叫んでくる。
「え!? え!? なんで、ですか!?」
「アムさ、僕の話、聞いてた? 悪性霊体種をスレイブにしない理由は言ったと思うけど……」
「で、でも、それは――」
「なんだ、ちゃんと声も出せるじゃないか」
だが、意見を言えばそれが通ると勘違いされても困る。僕ははっきりと自分の方針は口にした。
僕が、彼女が声をかけてきた理由を察しつつ付き合ってあげたのはただのボランティアだ。
今のアムならばきっと先程までよりも、もう少しだけまともに生きていける。
「な、何が問題なんですか?」
「問題は既に言ったよ」
「わ、私が、弱いからですか?」
「問題点に強さは挙げていなかったと思うけど……」
確かに霊体種でこの地の魔物に立ち向かうのは厄介だが、それを可能にするのがマスターの仕事だ。
「やっぱり、悪性霊体種では駄目なんですか!?」
アムが潤んだ目で訴えかけてくる。やはりずるい子だ。
視線が集まっていた。だが、多少の涙でどうにかなると思って貰っては困る。
「僕が既に悪性霊体種のナイトウォーカー……アリス・ナイトウォーカーと交わした契約条件には同種との契約の制限も存在している。契約とは神聖なものだ。無為に破れば信用をなくす。だから、僕はどんな状況でも契約は破らないし、嘘もつかない。アリスとは契約して四年経つけど一度も破ったことはない。大丈夫、今のアムなら大丈夫だ。あ、元素精霊種か善性霊体種で、僕と同じか少し年下くらいのスレイブ志望の女の子を探しているから、もしも心当たりがあったら声をかけてよ」
「酷い! 期待させた責任を、取ってくださいッ!」
ははは、面白い事を言う。期待させた責任を取れだって?
そんな責任取らされたら――僕のスレイブはきっと今頃百人くらいいる。
「それだけ元気なら大丈夫だよ、その感情をバネに頑張るんだ。そして、いつか僕を見返すといい」
手をひらひらさせて席を離れる。数メートルも歩いた所で、背中から悲鳴のような声が飛んできた。
「その契約に、『側から離れない』という条項はなかったんですか!?」
「む……?」
鋭い指摘に思わず足を止める。
《魔物使い》はスレイブがいなければ何もできない職だ。少なくとも、僕に限ればそうだった。
契約は平等なものだ。それはマスターとスレイブ、両方を守るためにある。当然だが、僕とアリスの契約条項には『常に付き従い、指示に従う事』という条項が存在していた。物理的距離についての記載はないが、見方によってはアリスの強制転移は、僕のためとはいえ、明確な契約違反とも言える。
「ありますよね? あるに決まってます! 《魔物使い》の基本ですからッ!」
切羽詰まった声。確かに、向こうが違反したからこちらも違反していいというわけでもないが、考えようによっては今の状況はアリスに責任の一端があるとも考えられる。
契約の穴。僕は後ろを向いた。
面白い。面白いな、まさか気づくとは思っていなかった。
《魔物使い》は稀有な職だ。アムがその基本を知っているというのも予想外である。
アムがほっとしたように胸を撫で下ろすのが見える。
「アリスさん? と離れてしまった事は、心中、お察しします」
「饒舌だね」
「しかし、その契約の条項はこういった時のために、存在すると思うのですが……いかがでしょうか」
アムの目が暗く輝いている。本人の強力な感情の発露故か、ぞくぞくするような寒気が身を蝕む。
敵対する存在を恐怖させる『恐怖のオーラ』は悪性霊体種が等しく持つ力であり、その種が忌避される理由の一つである。町中では使用禁止のはずだが、どうやら随分制御が甘いらしい。
「僕は元素精霊種か善性霊体種のスレイブを希望している。元素精霊種の強力な攻撃魔法は魔導機械に有利だし、善性霊体種は人気者だからコネ作りに使える。契約経験がないから、興味もある」
身も蓋もない事を言う僕に、アムが先程までが嘘のような強い口調で断言する。
「いませんよ。この地に元素精霊種や善性精霊種に区分される存在なんてほとんどいません。フィルさんのスレイブになる可能性は――ほぼ、ゼロですッ!」
「はっきり言うね。その通りだよ。でも奇縁があるかもしれない」
「ここに、奇縁がありますよ! 確かに……確かに、善性霊体種でも、元素精霊種でも、ありませんが、私なら――応用が利きますッ!」
……面白い子だなあ。まさか応用が利くなんて文言を売りにするとは。
「私なら、何日でも飲まず食わずで働けますッ! それに、目も、濁っていて素晴らしいですッ! お買い得ですッ! お買い得ッ!」
そう売り込まれると……ありな気がしてきた。
僕も新天地で視野が狭くなっていたかもしれない。探求者としてはなりたてかもしれないが、頭も悪くなさそうだし、実力も僕よりはずっと上だろう。よく見てみると整った顔立ちもしている。
歳もまぁそれ程離れていないし、異性なので年齢、性別は申し分ない。何より、スレイブ側からのアプローチなので信頼も現段階では負担にならないくらい十分に築かれていそうだ。
アリスへの言い訳が厄介だが、それは僕の方で交渉すればいいだけの話だ。さすがに永続で契約を結ぶことはできないが、期間限定で契約する分には悪くないだろう。
何より、アリスと同じ悪性霊体種なので応用が利くし、お買い得だ。小夜さんを雇うのはいつでも出来るし――。
「……そうだな。お買い得だし、ちょっと試してみようかな……」
「は、はいッ! 試してくださいッ!」
僕の笑みに、アムが元気いっぱいに答えた。
§
とりあえず契約だ。たとえ試運転でも、契約を交わさねば《魔物使い》の力をアムに及ぼせない。
それに、後で条件を釣り上げられても厄介だ。差別ではないが悪性霊体種相手は油断ならない。
そのまま酒場の一画で契約を進める。アムはそわそわして挙動不審だった。
交渉成功が信じられないのだろう。僕は頭のいい子が好きだ。概要を聞き、アムが瞠目する。
「本契約でいいのに……」
「形は本契約と一緒だよ。《魔物使い》の契約魔法は二種類しかないからね」
《魔物使い》の使える契約魔法は二種類。
普通の契約魔法『友誼の約束』と、アストラルリンクを結ぶための契約――『魂の盟約』だ。今回使うのは前者である。
契約は互いに繋がりを作るためのものだ。《魔物使い》の持つ魔法――スキルはその繋がりを介してスレイブを強化する。
僕の要求を単刀直入に述べる。目的は帰還。期間は未定だが永続ではない。
その話を聞き、アムがまた残念そうに言った。
「ずっと契約でいいのに……」
…………まだ一度も依頼をこなしていないのに、どういう事だろうか?
「まぁ、期間は追々でもいい」
その辺りは臨機応変でいい。
《魔物使い》の契約魔法は犯罪者に使われるような強制力の強い契約魔法と異なり、結ぶのが簡単で、解除もどちらかの意志で簡単できる。
――だからこそ、絆が、理解が、信頼が、必須なのだ。
要求を述べたら次に決定すべきはアム側の条件である。しっかりと説明する。
「次に決めるべきは代価だ。今回は試運転だから明確に決める必要はないと思うけど、うまくいったらそのまま契約を続行するから一応目安だけは出して置く必要はある。無機生命種の場合は通貨、それ以外の場合は魔力が多いけど、悪性霊体種なら魂とかの場合もある。後は、栄光の強制とか……魔王クラスの魔物の討伐とか、その辺りの『指針』を条件にしてくるものも多い」
「代価……」
マスターにとってもスレイブにとっても、契約のプロセスは重要だ。ここで詰めておかないと後々スレイブ側に不満が溜まりサボり始めたり、逆にマスター側のスレイブへの愛情が薄れ、虐待が発生したりする。僕は幸いなことにまだ経験がないが、これが原因で《魔物使い》を辞めてしまう者も後を立たない。特に複数と契約を行う場合、相性などもあるので難易度は段違いになる。
「代価って……どのくらいが相場なんですか?」
「種族にもよるけど、お互いに話し合って決める事が多いかな。基本的には種族のランクが高いほどに高いけど、それ以外にも実力が高くなったら交渉で報酬を上げるのが一般的だ」
僕の言葉に、アムが思案げな表情で言った。
「ちなみに私の種族は夜魔です。相場はどれくらいでしょう?」
「……夜魔……ね……」
…………まずいな。この子、予想外に種族等級が高い。
夜魔はB等級の悪性霊体種だ。有名なもので言うと、吸血鬼と同等級である。夜にしか動けない分だけ吸血鬼の方が戦闘力は高いが、朝でも何の支障もなく動けるぶん夜魔の方が活動時間は長い。
アムはF等級の探求者らしいが、探求者等級が低くても、種族等級が低いとは限らない典型だ。
せいぜいF等級の『幽魔』程度だと思っていたが、当たりを引いたらしい。
もしかしたら外れかもしれないが――。
悪性霊体種と専門に契約を交わす《死霊魔術師》と呼ばれる職がある。
夜魔相手なら高名な《死霊魔術師》ならば月に200M以上出してもおかしくはない。一般的な魔術師に取っては高嶺の花だろう。相当優秀な魔術師にしか契約できない。それが種族等級Bなのだ。
というか、そもそも、B等級にもなると単体で強いのでスレイブ候補自体、ほとんど存在しない。
だが、契約で誤魔化しは許されない。
「夜魔なら、魔力で言うと最低でも月100Mかな……実力次第ではもっと行くと思うけど……マスターの職にもよるけど、優秀な《死霊魔術師》なら二倍、三倍出してもおかしくないね」
「えっと……じゃあ90Mでは……」
アムが恐る恐る切り出してくる。最低100Mと言ったのにそれより下げているのだ。破格といっていい。この奥ゆかしさをギルドに登録しているどこぞのライト・ウィスパーに見習わせてやりたいよ。
まぁ、その破格でも出せないわけだが。
「僕じゃその五分の一も出せないね」
「ええ!? ……じゃ、じゃあいくらなら出せるんですか?」
ないよ。僕に余剰魔力はほとんどない。
余剰がないというか、正確には魔力自体がほとんどない。実はスレイブにかける強化スキルだけでもかつかつだ。説明責任があるので話したが、完全に無駄であった。
そもそも魔力が十分あったら……普通の魔導師になってる。
僕の答えに、アムはしばらく黙っていたが、何故か少しだけ嬉しそうに言う。
「……し、仕方ないですね……魔力はいらないです。十分持ってますし」
「待遇でできるだけ期待に応えるよ」
「仕方ないですね。お買い得、ですから」
この件については完全に僕が悪い。そしてどうやらアムは――とってもスレイブになりたいようだ。
安い子である。騙されないか心配になる。
だが、ここまではいい。
ここまでは強制力がほとんどないからだ。ここから先は少し違う。
「最後に決めるべきは――禁則事項だ」
「禁則事項……」
「どこまで、従うかだよ」
何をやるか。やりたくない事はないのか。例えば、吸血鬼と契約を結ぶ場合は日中の活動命令が禁則事項とされる場合が多いし、逆に善性霊体種の場合は同種への攻撃を禁則事項と入れる事が多い。
この項目はマスターにとってはともかく、スレイブ側にとっては重要で、ちゃんと設定せねばスレイブにとってストレスとなる命令をされる可能性がある。
スレイブの趣向を知るという意味ではマスター側に取っても重要な項目と言えるだろう。
「セオリーとして、死に直結する命令の禁止と性行為の強要に制限をつける。他に何かある?」
もちろん、僕には《魔物使い》としてのプライドがある。無体な事はやるつもりはないが、契約で縛られているというのは安心感にも繋がるのだ。
アムは少し視線を右斜め上に上げ、思考していたがすぐにこちらに向き直り、
「禁則事項はなしでいいです」
「え……なし?」
「はい。なしでいいです」
邪気のない笑顔で信じられない事を言った。
目の前の少女の瞳をじっと見つめる。アムの笑顔には陰がない。冗談を言っている気配もない。
禁則事項がなし、というのは非常に珍しい。スレイブとの信頼が非常に深まった時にだけ見られる現象だ。普通は十年以上マスターと共に過ごしたスレイブが、マスターへの信頼を示すために選択する選択肢だった。というのも、単純に例えると、つまり彼女は僕にこう言っているのと同じわけだ。
『私の全てを貴方に捧げます』と。
これは、『魂の契約』とほぼ同じである。
あの神聖な契約には一切の制限が生じない。あれは魂を捧げたという証で、契約を結んだスレイブは何でもやる。《魔物使い》の専門用語でこれを『ラスト・トラスト』だとか、『ラスト・エンゲージ』と呼び、信頼関係の究極系とされているのだ。
「アム、それだけはやめておいた方がいい。絶対に後悔する。禁則事項は飾りじゃないんだ」
「え……? そうなんですか?」
「ああ。そうだな、例えばの話だけど、もし禁則事項なしにした場合、アムは僕の『死ね』という命令に反抗できなくなる」
「ああ……なるほど……」
了承したかどうか。それは魔術的にとても重要なファクターだ。
意志に反する行動の強制と比較して、一度了承した事の強制は難易度が大きく落ちる。《魔物使い》の契約魔法は強くはないが、それでも大体の事はできてしまうのだ。
契約を軽視するのは初めて契約を行うスレイブにありがちな事だ。だからこそ、マスターは契約の全てをスレイブに教える義務がある。
全ては対等の関係を結ぶためだ。契約では精神は――縛れないのだから。
「何十年苦楽を共にした《魔物使い》とスレイブの間でも、制限が完全に撤廃されているというのは稀だ。僕たちの間では究極の信頼関係とされているからね」
喉元に刃をつきつけられて平然といられる者は相当稀だ。アムが僕の言葉に、目を瞬かせる。
「究極の信頼関係……ですか……。アリスさん――フィルさんの前のスレイブとの契約にも制限はあったんですか?」
「ああ、もちろんあったよ。まぁ、アリスは一般的な契約とは少し違うけど」
前じゃなくて今だけどな。まるで前なんて言ったらアリスが……いなくなったかのようじゃないか。
アムは僕の説明にしばらく下を向いていたが、顔を上げると、覚悟を決めた表情で言った。
「禁則事項は……やっぱり、なしでいいです」
この子、本当に僕の話聞いてないよな。
もうどうしようもない。小さくため息をつく。
「どうやらまだその契約の重さを分かってないようだな……いいよ、一端なしにして、この項目についてはまた後で話し合おう」
「はいッ!」
こういうのは一度実感させなければ、何度も同じ事を繰り返しかねない。
夜魔の寿命は長いし、もしかしたら何度かスレイブとなる機会もあるだろう。一度目で痛い目にあっておけば、二度目から同じ失敗はしないはずだ。
「……OK。じゃー契約を結ぼう。手を出して」
何の疑問もなく差し出されたアムの右手を手に取り、手の甲を上に向ける。
契約魔法は簡単で、特別な儀式も必要とせず、それ自体の消費魔力もそれほど高くない。
さすがに緊張があるのか、アムの顔がこわばっている。
そして、僕は目を細めると、呪文を紡いだ。
「ヴィートリース、ヴィートリース。汝が魂よ。永久の共と化せ。理よ。至高の名を冠する者よ。我が剣となりて楽園を満たさん」
「ん……」
くすぐったそうにするアムを無視し、ゆっくりと指先で丁寧に手の甲をなぞっていく。
自身の身の魔力が凄まじい勢いで抜けていくのがわかる。疲労感に抗いながらも、術を継続する。
《魔物使い》の契約魔法は簡単だ。ただし、契約対象の格によって使用魔力が上下するという特徴があった。僕の持つ魔力量で夜魔と契約が結べるかは五分五分だろう。
アムが痛みを感じたようで、顔を少ししかめる。僕は安心させるようにアムに囁いた。
「アム、心配はいらない。身体から力を抜いて、僕から流れ込むものを感じるのに集中するんだ」
「は、はい……」
アムが大きく深呼吸し、力をゆっくりと抜く。
生き物は総じて魔力に対する抵抗を持っている。それが魂に作用するものならばなおさらだ。
制約に術式のほとんどをつぎ込んでいる《魔物使い》の契約魔法は抗おうと思えばいくらでも抗える類の術だった。
術を成立させるのにスレイブとなる側の協力は絶対的に不可欠だ。
故に――《魔物使い》に最も必要なのはコミュニケーション能力なのである。
それほど大きくはないが、確かに感じていたアムの抵抗がなくなる。
全身が重い。意識が飛びそうだ。朦朧とする視界の中、僕はかすれる声で呪文の名を唱えた。
「友誼の約束」
なぞった跡が微かに発光する。光は声を上げる間もなく収束し、アムの手の甲に紋章を刻みつけた。
「はぁはぁ……なんとか……成功したか……」
「成功……これが……契約ですか」
ぜーぜー肩で息をする僕とは裏腹に、アムはなんともなさそうな顔で手の甲を明かりに透かす。
手の甲に刻まれた翼をかたどった紋章を確認した瞬間、全ての力が抜け、テーブルに突っ伏した。
顎ががつんと音を立ててテーブルに当たるが、気にしている余裕がない。
全力疾走したかのように喉がカラカラだ。貧血にも似た目眩が襲ってくる。
魔力はもうほとんど残っていない。本当にぎりぎりだった。酷い気分だが、アムのどこか機嫌よさそうに紋章を確認している姿を見ると、頑張ったかいがあったというものだ。
しかし……やはり格が違う。契約魔法は基本的にスレイブ側へ大きな負担を強いる魔法だ。にも拘らず、ここにはぶっ倒れそうな僕と平然な顔をしているアムが存在している。
僕の種族――種族等級Gの『純人』とB級の夜魔では存在の強度が違うのだ。
後少しでもアム側に抵抗があったら契約は結べず僕は魔力切れでぶっ倒れていただろう。
「凄い……これ、フィルさんの存在を近くに感じます……」
「契約したからね……」
今の僕とアムは見えない絆で繋がっている状態だ。魔力に敏感ならはっきりわかるだろう。
テーブルから起き上がれない僕の様子にやっと気づいたのか、アムが心配そうに声をかけてくる。
「フィルさん……大丈夫ですか?」
「……あまり大丈夫じゃない。少し契約に力を使いすぎたみたいだ。試運転はちょっと待ってくれる?」
「はい!」
情けないマスターに対して、契約したてのスレイブが笑顔で答えた。