第三十一話:犬だったら良かったのに
部屋に入ると、鍵をしっかり締め、僕はアムいじりを開始した。
身長体重を確認し、血液を採取し、体温を計測する。風邪を引かない霊体種の熱っぽい顔は本当にレアだ。
昨日買ったカメラで写真を撮っていると、アムが恨みがましげな声で言う。
「酷い……酷いです、フィルさん。具合が悪い時にまでそんな――」
「え……? 具合悪いの?」
「……え? あれ……?」
真っ赤に熱を持った顔をぺたぺたと触れ、不思議そうな表情をした。
アムの症状は体調不良ではない。魂脈の活性化がアムに齎すのは能力の強化だ。そして、エネルギーというのは熱である。体温の上昇はそのためだが、霊体種は体温が上昇しても生き物のように活動に影響が出たりはしない。
「全て、思い込みだ。人に交じって生活する霊体種はすぐにそちらに引っ張られる。それも、君たちが野生よりも弱い理由の一つだ」
だが、訓練でその枷は簡単に外せる。それでも反論したかったのか、アムが戸惑いながらも叫ぶ。
「で、でも、身体が――信じられないくらい、熱いんです」
「戦いで高揚している。興奮している。酩酊にも似ている。魂が、輝いている。それは君に眠っていた力の断片だ。今回の反応はアルファトンの力だけど、使いこなせばアムの基礎能力は更に上がる」
アムはもっと自分の種族――夜魔について学ぶべきだ。既知かどうかは成長に於いて大きな要素でもある。
僕には出会ったあの時からアムの強くなる道筋が既に見えていた。
「で、でも……でも…………」
だから、手紙を出した。アムはそこまで手を掛けなくても強くなるし、急激に強くしすぎると精神に隙が出来る。特に調子に乗りやすいアムの事だから、しっかり手綱は握ってやらねばならないし、僕が帰還した後にリンがしっかり見張れるようにやり口を見せねばならない。
そこで僕は声色を柔らかいものに変えた。鞭だけでスレイブは育たない。
「まあでも、アムの身体に負担がかかってないわけじゃない。一時間くらいは魂脈は活性しっぱなしだと思うけど、そういう時は冷やすのが一番だ」
「冷やす……?」
アムが熱っぽい表情で首を傾げる。
「温めのシャワーでも浴びるといい。リラックスすれば魂脈の活性もある程度は落ち着くはずだ」
「なるほど……では、お言葉に甘えて……」
アムがふらふらとバスルームに向かう。僕は昼間買ってきた霊体種向けのコスメを取り出すと、その後に続いた。中に入ったアムが僕を見て、目を丸くする。
「フィルさん……? 私、これからシャワー浴びるんですが……」
「うん、洗ってあげる」
「…………!?」
「アムさ、あまり髪とか手入れしてないだろ? せっかく長い髪をしているのに、勿体ない」
僕は《魔物使い》だ。スレイブを強くするのが本分だが、美しくするのだって同じくらい重要だ。
僕の趣味でもあるし、自分で言うのもなんだが、僕のトリートメント技術はなかなかのものだ。
いつか毛の長い大きい魔獣と契約してフサフサの体毛を思う存分洗ってあげるのが僕の夢である。
アムはちょっと毛が少ないが、まぁ今回は妥協してやろうじゃないか。
ただでさえ赤かったアムの顔が更に赤く染まる。
「え? ええ? じょ、冗談ですよね?」
「今日は疲れただろうし、マッサージもしてあげるよ。スレイブの体調に気を遣うのも僕の仕事だ」
自慢じゃないが、僕のマッサージ技術はなかなかのものだ。王国では神の指先と呼ばれていた。
「僕が厳しいだけだと思った? メリハリつけてるだけだよ」
「え……? い、いえ…………」
「ああ、恥ずかしい? 大丈夫、別に一緒にお風呂に入ろうって言ってるわけじゃない。僕は服を着たまま、お世話するよ。なんならタオル巻いててもいいし」
まぁ、隅々まで洗うつもりだが。これまで貧乏だったアムの事だ、石鹸なども金がかかるし、ろくに身の回りの事をやってこなかったに違いない。だが、今後もそのままでは困るのだ。
霊体種は汚れにくいが、それだってしっかり手を掛けなければ輝きに陰りが生じる。
「フィルさんの前のスレイブは、それを受け入れていたんですか?」
「何故か僕が風呂に入っている時に侵入してくるくせに、僕が洗いに行くのは嫌がるんだよね」
傷のチェックくらいさせろッ! グルーミングくらいさせろッ! 手が掛からないのは楽だが、少し寂しい。趣味なんだよッ! それに僕はスレイブとの交流により精神の平静を保っているのだ。
「アムが人じゃなくて犬だったら良かったのに……」
ブラシを掛けたかった。上に乗って荒野を駆けたかった。柔らかい毛皮に背を預け眠りたかった。シャワーで丸洗いしたかった。僕が昔から抱いていた憧れは未だ叶う兆しがない。
アムが引きつった表情で食って掛かってくる。
「!? フィルさん、今すっごい酷い事言ったッ! 自覚あります!?」
「よしよし、偉い偉い。さぁ、服を脱いでそこに座って。せっかく霊体種向けのシャンプーとトリートメントと石鹸を買ってきたんだ。ほら、ブラシだってあるよ」
にこにこしながら買ってきたばかりの品物を見せると、アムは深々とため息をついて言った。
「フィルさん……出てってください」
その言葉に、僕はまだはっきり伝えていなかった事を思い出した。真剣な顔でアムに言う。
「アム、安心して。確かにアムは美人さんだけど、僕はプロとしてスレイブに発情したりはしない」
「!? で……出てけーッ!」
§ § §
最初に顔を合わせた時は、そこまで期待していなかった。
全てを見通すような瞳。契約を交わし、ポーンアントとの戦いに勝利した時、アムは凄いと思った。
アムの抱える全ての問題を消し飛ばし、広谷を完全に圧倒した時、アムは凄まじいと思った。
そして今、アムはそのマスターのあり方に畏怖すら感じている。
同種族のリンにも劣る脆弱な肉体。それを補ってあまりある知識と経験。そして何より――その恐ろしい精神性。
純人で元SSS等級探求者など本来信じがたい話ではあるが、そのマスターの言葉をアムはすんなり飲み込んだ。それならば、納得がいく、と。
フィル・ガーデンは強すぎた。出会ってからまだほとんど経っていないにも拘らず、アムはその力を十分に理解させられていた。《魔物使い》でありながら、たった一人異国に放り出される。そんな絶望的な状態から、僅か数日でこの街で地盤を固めつつある。逆にそのくらいでないと納得ができない。
恐ろしいのは、僅かな時間で地図を記憶する記憶力でも、全てを見通しているような知性でもない。
切り開く力だ。目的に向かう、妄執にも似た執念だ。フィルはそれが、ずば抜けている。
その言葉や感情はアムから見て必ずしも正しいものではなかったが、恐らくこういう者が英雄と呼ばれるのだろう。そんな事を考えてしまうくらい、アムの目から見るマスターは異質だった。
「…………ッ」
起きた直後に、自分の体調を確認し、ぞくりと身を震わせる。
力が漲っていた。その量は、昨日の絶好調だった時のアムをも明らかに超えていた。フィルと出会う前と比べれば恐らく、十倍以上強い。
「どう、して……」
喜びはなかった。ただ、信じがたかった。自主練はした。美味しいものを食べてゆっくり休息を取った。薬を盛られた。だが、その程度のことで、たった一日でここまで強くなれるはずがない。リンと初めて友達になった時もアムの力は大きく強化されたが、それと比べても桁が違う。
フィルの行動はめちゃくちゃだ。マスターはアムに単純に与えてくれたわけではない。
信じられない事を沢山した。言葉や行動でアムを翻弄した。薬を盛った。
笑ったし、激しく憤ったし、ショックも受けた。その全てがアムにとって新鮮だった。
どうしようもなく、惹きつけられるのを感じる。アムは、理解していた。
きっと契約が終われば、フィルはあっさりアムを解放する。だが、その後もずっと、アムはこのマスターの事を忘れる事なく生き続けるのだろう。いや、違う。きっと、フィル・ガーデンがこれまで関わってきた全ての人は、フィルの事を強く心に焼きつけているに違いない。
これからきっとフィルはアムをどんどん強くするだろう。飽くなき探究心を持つSSS等級の《魔物使い》にとってそれは当然の事だ。だが、果たしてアムは、契約が終わった後もその強さを保っていられるのか――アムにはどれだけ考えても全くわからなかった。
光あるところにまた闇あり。希望を知った後の絶望程、恐ろしい物はない。こういう言い方をしたくないが、その輝く魂は悪性霊体種にとって絶好の獲物だ。恐ろしい魔物も唯々諾々と従うだろう。
と、その時、ベッドの端から腕がふと飛び出した。まるで何かを探すように彷徨う腕に、思わず手を伸ばす。手と手がちょうど触れたその瞬間、激しく空間が弾けた。
「!? ????」
鋭い痛みに思わず手を引っ込める。手を確認するが傷などはない。
しばらく様子を見るが、それ以上何か起こる気配はなかった。
「な、何なん、ですか?」
……純人の種族スキルだろうか?
アムはしばらく安らかな表情で寝入っている己のマスターを見ていたが、自分を無理やり納得させると、立ち上がった。
今日もこの寝起きが悪すぎるマスターが目を覚ましたら、放置している間にどれだけアムが頑張ったのか披露してやらねばならない。




