第二十九話:アム・ナイトメアは優秀なスレイブだ
最近調子を取り戻した新進気鋭のスレイブ、アム・ナイトメアの朝は早い。
朝、日が出るか出ないかのタイミングで目を覚ますと、真っ先に隣のベッドで眠るマスターがちゃんといるかしっかり確認する。
フィル・ガーデンは朝が弱い。だから、アムが眼を覚ました時は大体死んだように眠っている。数分寝顔を観察してマスターが生きている事を確信すると、日頃鍛錬を怠らない真面目なスレイブはそっと剣を手に、朝の訓練のために外に出る。
外に出る時は霊体種の種族スキルでもある『透過』を使う。『透過』は自身の存在を別次元にずらし、物理干渉を無効化するスキルだ。普通の霊体種ならば使いたがらないそのスキルを、優秀なアムは既に使いこなしていた。
存在がどこかに飛んでいきそうな気持ちの悪い感覚を我慢し、扉を透過し部屋の外に出ると、床を透過して広い中庭に向かう。
まだ薄暗い中庭には誰もいない。朝に行うのは型の確認だ。目をつぶり、自分に刻み込まれた《剣士》の道を一つ一つ意識しながら剣を振る。探求者の中には既に知っている型は練習する必要はないなどと公言する者もいるし、大技の練習をしたいと駄々をこねる者もいるが、アムは違う。
基礎こそ職の土台であり、その洗練こそが自分の力と絶対の自信に繋がる事を知っているのだ。
無心で剣を振る事千回、そこまでやるとアムは続いて種族スキルの練習をする。
種族スキルは剣術などとは異なり、本能に近い。なのでわざわざ練習しないなどという者もいるが、アムは違う。
『透過』を使うと、続いてもう一つの霊体種のスキル――『重力影響無視』を使用する。
スキルを使用すると形容し難い気持ちの悪い浮遊感がアムを襲い、アムは重力の楔から解き放たれた。『重力影響無視』はその名の通り重力の影響を完全に無視するスキルだ。透過時にのみ使用でき、うまく使えば自由に空を飛ぶことさえできる。
ゆっくり呼吸をして、力を制御する。重力影響無視は霊体種が生来持つスキルだが、それで自在に空を飛ぶには修練が必要だ。
発生した直後からずっと使っている野良の霊体種は恐ろしい速度で空を飛べるらしいが、アムはずっと地に足をつけて生活しているのだし、物質世界に慣れ過ぎている。
ふわふわと空中遊泳を楽しむアムの姿からは強い緊張が見えるが、それはスキルの使い方を誤ると、どこまでも空に落ちていってしまう可能性があるからである。一流の探求者は慎重だが、そのスレイブもまた十分な注意深さを持っているのだ。
しばらく浮遊に身体を慣らしたら、続いてアムは腰の剣を抜き、空中で剣を振るう練習に入る。
《剣士》の職で見える道は地に足がついている事前提だ。空中で戦うにはまた異なる練習がいる。
誰も教えてくれない剣術だが、アムは慎重に、丁寧に、しかし出来るだけ素早く熟していく。
今のアムは肉体と装備を透過している。この状態で剣を振っても、相手には当たらず透過するので練習しても無駄だ。そんな事を言う愚か者もいるかもしれない。
だが、それは見当違いだ。透過した剣は確かに通常の戦いでは役に立たない。だが、同じく透過した相手や透過耐性を持つ相手には当たる。この訓練は上位の魔物との交戦を想定しているのだ。
複数の種族スキルを使った上での訓練は桁違いに疲労する。ただの素振りではほとんど疲労を感じないアムの呼吸も乱れ、数十分も振ればくたくただ。だが、それでも、汗びっしょりになりながらもアムは訓練をやめない。気をつけるべきは動きが雑にならないように注意することだ。自分の動きは自分が支配せねばならない。ここまでやると、薄暗かった空もすっかり明るくなっている。
過酷な訓練をしていると、やがて宿の主――アネット・ヴァーレンがわざわざ声を掛けにくる。
朝食の時間だ。アムは疲れを感じさせない笑顔で慎重に地面に近づくと、スキルを解除する。アムほど優秀になると、空中でうっかりスキルを解除して落下し悲鳴を上げるなんて無様は見せない。
「壁や床に透過対策した方がいいのかねえ……」というアネットさんの言葉を背に、自室に戻る。アムのマスターは朝と全く変わらない姿勢で眠っていた。
アムはテキパキとシャワーを浴びて汗を流すと、マスターを起こす。
「朝ご飯ですよ、フィルさん。起きてください!」
「んん…………いらない」
声は一度しか掛けない。アムほど忠実になると、ねぼすけマスターの意思も尊重する。何度も声をかけてパンチされるような事はないのである。マスターがいなくても寂しくはない。
食堂にはアムの親友であるリンと、そのスレイブであるヘルフレッドの広谷がいた。談笑をしながら、美味しい朝食を食べる。マスターもくればいいのに、と少し不満に思うくらい、清々しい朝だ。
朝食をとると再び寝室に戻る。探求者は基本的に早起きだ。だが、マスターはまだ布団の中にいた。
「フィルさん、起きてください。あーさーでーすーよーッ!」
「んー……」
今頃ギルドは他の探求者でいっぱいだろう。勤勉なアムと違い、何という怠惰なマスターなのだ。マスターは平身低頭してアムのような優秀な夜魔をスレイブにできたことを感謝するべきだ。
ここまで大人しくしていたが、もう我慢ならない。布団をかぶってしまったマスターを強く揺る。
しばらくマスターは無反応だったが、やがて鬱屈そうに頭を出して言った。
「よし、アム。リンに頼んで広谷と実践訓練してきなよ。リンにアドバイスを貰うといい。ちゃんと後で何言われたか聞くから……それじゃ、よろしく」
「…………」
§
探求者の中には実践訓練を怠る者もいるというが、優秀なスレイブであるアムには信じられない。
日頃の鍛錬は当然だが、真剣を使った実践訓練ほどアムの身になるものはないだろう。その相手が自分より優れた使い手で、且つ外から欠点を教えてくれる信頼出来る人がいるなら尚更だ。
鬼人種。《侍》の広谷。《侍》とは特殊な前衛職だ。刀と呼ばれる変わった剣を使い、高速の斬撃で魔物を切り捨てるその職を持つ者は東方の発祥地を除けば希少であり、名前すらほとんど知られていない。アムがその名を知っている事はアムの勤勉さと優秀さを示していると言ってもいいだろう。
模擬戦だが、鬼人種特有の引き締まった肉体からは強い戦意が放たれていた。刀を腰に収めたままの広谷に対して、アムは相棒を正眼に構える。身体能力はアムが少し劣る程度だろうか?
まだ刀を抜いていない広谷とアムでは明らかに後者が有利だったが、アムはにやりと笑った。
「知ってますよ。『居合一閃』。《侍》には抜刀時の攻撃にボーナスがかかるスキルがあるらしいですね」
初戦時。狂気に飲まれていた時に放った広谷の一撃の速度を、アムはしっかりと覚えていた。
「フィルさんに聞いた事をよくもまあ自信満々言えるわね、アム」
「リンは黙ってて! いいんですよーだ、知らない事を聞くのは恥ずかしくないってフィルさんも言ってましたしッ!」
§
模擬戦を終えた時には、既にお昼を回っていた。
探求者は大体昼間は外にいるので、『小さな歯車亭』では昼ご飯は出していない。さすがのアムも朝からの訓練に続いての実践訓練でくたくただ。
戻ると、何ということかマスターはまだベッドの中だった。さすがに優しいアムもカンカンだ。
「フィルさんッ! もうお昼ですよッ!」
「んん……」
マスターがやる気のない声をあげる。だが、アムには必勝の策があった。耳元で囁きかける。
「衣食住は契約に入っていたでしょう。ご飯食べにいきましょう、身体に悪いですよ」
「契……約……?」
そうだ。マスターは一流の《魔物使い》である。《魔物使い》の基本である契約を疎かにするわけがないのだ。アムの期待通り、マスターがゆっくりと半分眼を開ける。
「アム……机の引き出しに入っている手紙を」
「え……? あ、はい」
言われた通りに机の引き出しを探る、中には封筒に入った一通の手紙があった。
「はい、持ってきました、けど」
「それ……小夜さんか白夜に届けて、返事貰ってきて。よろしく」
再び目を瞑るマスターに、アムは一瞬呆然としてしまったが、慌てて布団を揺する。
「!??? フィルさん、ご飯は!? 一緒に、ご飯!」
「ああ……ご飯は、アネットさんに頼んで貰って」
「えええ!? ここ、お昼は出ないんですよ!?」
「アネットさんに頼んで、貰って。後はよろしく」
「…………」
§
アム・ナイトメアは優秀なスレイブだ。優秀なスレイブなので、マスターがいなくても平気である。
恥ずかしい思いをしてアネットさんに頼み、ご飯を貰う。どうやら、宿泊客への食事は出していなくても、外部向けに食堂を解放しているらしい。食事を終えると、アムは脇目も振らずに速やかにギルドに向かった。さっさとお使いを終えて、今度こそフィルを起こすのだ。
時間が半端なだけあって、ギルドには人がいなかった。カウンターを確認して思わず立ち止まる。
カウンターには小夜はいなかった。だが、白夜がいつも通り冷たい眼差しで来訪者を捌いている。
行きたくない気分だったが、名前を出されて指示された以上は行かなければならない。
アムは優秀なスレイブなのだ。依頼を受けるわけでもないのに列に並ぶのは気が引ける……というか、マナー違反なのではと思わなくもないが――そこで、優秀なアムは良いことを思いついた。
依頼を持っていけばいいのである。
掲示板を確認して良さげな戦闘用依頼を幾つか見繕い、列に並ぶ。この間まで人混みの中では肩を落として身を縮めていたが、今はしっかりと背筋を伸ばす。
そこで順番がやってきた。白夜は顔見知りのアムを見ても眉一つ動かさなかった。
「こんにちは、アムさん。用件をどうぞ」
「こ、これ……フィルさんから、手紙です」
相変わらず端的な言葉だ。だが、今のアムはこの冷たい機械人形が見た目以上のユーモアを持っている事を知っている。
白夜は特に嫌そうな顔をせず手紙にさっと目を通すと、ペンと紙を取り出しさらさらと文を認める。一体何を書いているのだろうか。眼を細めていると白夜が急にアムを見た。
「アムさん、しっかりスレイブをやっているようですね」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に目を見開く。白夜はその時、僅かに笑みを浮かべた。
「封筒には開封された跡はありませんでした」
「そそ、そんな事、しませんよ」
多少気になりはしたが、アムはできるスレイブだ。主の手紙を勝手に見るなんてとんでもない。
「誠実な行いです。私は貴女の行動を称賛します」
「ど、どうしたんですか、急に……」
苦手だったはずの相手からの称賛。
自分でもちょろいと思いつつ照れるアムに、白夜は言った。
「いえ。手紙に、うまく持ってきたら過剰に褒めてあげて欲しい、と」
「!? それ、私に言ってはいけないのでは!?」
「そうですね。気づきませんでした。謝罪します」
全く悪いと思ってなさそうな表情で謝罪する白夜。手紙を差し出し、アムに言う。
「これは返事です。途中で開封せずにしっかりフィルさんに持っていくように」
「信用されてないです!?」
「アムさんだから付け足したわけではありません。必要だと判断したので付け足しただけです」
一瞬やはり嫌われているのかと思ったが、すぐに思い直す。
アムはとても優秀なスレイブだ、とても優秀なので当然判断力も優秀である。機械人形が合理性に富むのは当然だ、気にする必要はない。
「そ、そうだ。後……依頼を、受けたいのですが……委任カードもあります」
アムがそこで恐る恐るカードを差し出す。委任カードはスレイブにマスターの権利の一部を預けるためのカードである。このカードがあればもう探求者ではないアムでも依頼を受けたり、主の口座に預けられたお金を引き出し使う事などできるのだ。
昨晩渡されたカードはある意味信頼の証だ。
白夜はしばらくカードを裏表ひっくり返して確認していたが、すぐにアムを見て言った。
「残念ですが承れません」
「え!? な、なんでですか!? カードは本物ですッ!」
やはり嫌われているのか? 大声を上げるアムに、白夜はどこか呆れたように言った。
「頂いた手紙に、貴女が依頼を受けたがっても通さないようにと書いてありました」




