第二十話:こんなに気分が悪いのは久しぶりだ
「フィル……さん」
タイミングがいいのか悪いのか。敬愛するマスターはこの状況を見たらどんな顔をするか。
フィルが階段を降りてくる。その表情はリンに負けず劣らず酷かった。両目は半分閉じ、頭には盛大に寝癖がついている。脱がせた外套は着ておらず、シワだらけのシャツはいかにもだらしない。
フィルはぼんやりとした顔でアムとリンと、広谷を見ると、ぽつりと呟いた。
「タイミングが悪い上に――シィラに負けた時の百倍胸糞悪い。最低だよ。探求者をやって十年近く経つけど、こんなに気分が悪いのは久しぶりだ。僕はお母さんじゃないんだぞ。いいか、明日以降だ。明日以降だったら、良かったんだ。少しでも準備していればまだ、覚悟できた」
虚無を想わせる黒い瞳が広谷をじっと観察している。アムを見た時は一瞬で絡んできた広谷が、その眼光に圧されたかのように後ろに下がる。そして自分の行動に気づき唖然とした。
フィルはふらふらと広谷に近づくと、至近距離から観察し、すぐに傍らのリンに向き直った。
怒っている。睨んでいるわけではない。あからさまに眉を顰めているわけでもない。
だが、その表情はアムが知り合ってから一度も見たことがない類のものだった。
「『鬼人転源歌』――禁術だ。間違えていたら致命的だから一応聞くけど、君がリン――この『ヘルフレッド』のマスターで間違いないか?」
「……そ、そうだけど?」
戸惑いを隠せないリンに、フィルは大きく頷く。
「そうか。その年齢でここまでヘルフレッドを変容させるとは、君は天才だな」
「き、貴様、いきなり割ってきて、何者だ?」
ようやく我に返ったのか、広谷がフィルに向かって居丈高に言う。
だが、そのフィルはその威圧に全く取り合う事なく、皮肉な笑みを浮かべた。
「貧乏くじを引いた。だけど、アネットさんと約束したからな」
そして、大きく腕を振り上げると、アムのマスターは思い切りリンの頬を張った。
§ § §
最悪だ。眠りから無理やり起こされ、目に入ってきたのは考えうる最低を更に越えた最悪だった。
ロビーは酷い有様だった。そこかしこに刀傷がつき、アムと見覚えのない二人組が相対している。
寝ぼけた頭でも一瞬で状況が理解できた。女の子の方がリンで、大柄の鬼人種の方が暴走したというスレイブだろう。まず一日目からの遭遇は想定外なのだが、まぁそれはいい。アムが何故か負けたようなのも、まぁ受け入れられる。
でも、この鬼は駄目だ。最低だ。思わずアネットさんに代わって頬を張ってしまった。
クソ面倒くさい。この尻拭いは先輩《魔物使い》の責務を越えている。アネットさんとの約束がなければ、アムの気持ちも無視して放り出して帰っていたところだ。
鬼は急な乱入者に愕然としていた。
鬼人種。俗に言う、鬼だ。頭に生えた角が特徴の亜人種である。
この世界では吸血鬼など、『鬼』の文字が入った種族は数多いが、僕たち《魔物使い》が鬼という単語を使う場合、有機生命種と悪性霊体種の混合種(悪性霊体種の特性を持つ有機生命種)を指す。例えば、人を食らう食人鬼や東方に広く知れ渡る鬼や大鬼。悪魔も度々鬼と呼ばれるが、こちらは厳密に種が異なり、《魔物使い》が悪魔を鬼と呼ぶことはない。
数多存在する鬼人種はその並外れた闘争本能と、少なくない種が人を食らう事から、その多くが敵対しているが、知性も人並みに高いのでその一部は人間社会に混じって生活している。
少なくとも、人里で生きる夜魔の数よりは多いだろう。僕は鬼人種があまり好きではないが、それは個人の嗜好の問題で、特に偏見などは持っていないつもりだ。鬼人種の友人もいるし、ちゃんと勉強している。
リンが頬を張られたままの姿勢で凍りついている。スレイブも何がなんだか状況がわかっていないようだ。僕はぼりぼりと頭を搔き、眠気を訴える脳を叩き起こす。
「な、何するんですか……フィルさんッ!? リンは、敵じゃ……ありません」
「でもリンは――何故ぶたれたのか、わかるはずだよ」
「え……?」
さすがにそれがわからない程の愚者が禁忌を犯せる程の才能を持っているとは思いたくない。マスターから視線を外し、スレイブを見上げる。なるべく刺激しないよう穏やかな声と表情で話しかけた。
「いきなり刺激してしまって申し訳ない。僕は《魔物使い》のフィル・ガーデン、そこの夜魔のマスターをやっている。名を教えてくれないか……?」
「ッ……広谷」
「広谷。いい名だ。『侍』か。東方から流れてきたんだな。遠い先祖から途方も無い距離を移動してこんな所で引っかかるとは、ケチがついたね」
「何を、言ってる!?」
震える声で、広谷が叫ぶ。怒気には僅かな怯えが含まれていた。
鬼人種は数多いが、ヘルフレッドはその中の一種である。種族等級はD、『生意気な子鬼』の異名を持ち、分類は東方の純鬼種の仲間に入るが、種族特徴として岩のような黄土色の肉体、そして――成人した男鬼でも身長が一メートル半を超える事がない事が上げられる。
だが、目の前の広谷の体長は明らかに二メートルを越えていた。全身を覆う鍛えられた鋼のような黄土色の肉体は僕と比べて二回りは大きく、鬼族特有の釣り上がった金色の鬼眼。そして頭に生えた鬼族の証である二本の銀色の角が種族を主張している。
探求の帰りらしく、纏った鎧は東方でよく見られるタイプの鎧、業物らしく、単純な鋼鉄ではない灰色の輝きが薄暗い電灯に反射している。
『恐怖のオーラ』よりも一段階下がる鬼種の持つ常時発動型スキル、『邪鬼のオーラ』が空間を満たし、本能的な恐怖を呼び起こさせる。
普段ならば立派なヘルフレッドと褒め称えたいところだが、残念ながら立派過ぎた。明らかにヘルフレッドの領分を外れている。
「恐れる必要はない、広谷」
「!? 俺はッ! 恐れてなど、ないッ!」
ヘルフレッドは臆病だ。彼らは強いが、彼らの故郷では遥かに身体の大きな鬼人種が横行している。
だから、彼らは未知に対する強い警戒心がある。そしてそれは、身体が大きくなり本性が暴走している今も変わっていない。
僕は心を込めて、頭を下げた。ああ、嫌だ。やるせない。切ない。
「本当に申し訳ない事をした。同じ《魔物使い》として貴方にこんな運命を背負わせた事を謝罪する」
鬼が表情に怖れを浮かべ、後退る。リンのために必死に戦ったのであろうアムが甲高い声で叫んだ。
「なな、なんで、何を、謝ってるんですか!?」
ため息をつく。説明などしたくない。だが、これも彼女の経験になる。僕は義務を果たすだけだ。
「アム、リンは――広谷の魂と誇りを陵辱したんだ」
「…………え!?」
「ヘルフレッドはどうあがいてもここまで大きくは育たない。禁断の術を使った。アムとの契約破棄でどれだけ凹んだのか知らないし、どんな甘言を弄して彼を騙したのか知らないが、同じ《魔物使い》として本当に恥じ入るばかりだよ」
《魔物使い》の職の持つスキルのほとんどが育成スキルである事は既に述べた通りだ。身体能力を一時強化するようなスキルもなくはないが、それらは倍率も低く、ないよりマシ程度でしかない。
だが、もちろん幾つかの職が切り札を持つように、《魔物使い》には叡智の奴隷である先人が生み出した禁忌の技が存在する。『鬼人転源歌』は数多存在する忌み嫌われた術の一つだった。
「アム、リンは広谷に『鬼人転源歌』――禁忌の術を使用した。この術は鬼人種の根源を完全に変質させてしまう悍ましい呪文だ」
力に焦がれた鬼人種がいた。スレイブの求めに応えたい《魔物使い》がいた。育成には時間がかかる。そして、時間をかけたとしても種族等級の低い鬼人種を強化するには限界がある。
『鬼人転源歌』はそんな問題を限りなく手っ取り早く解決するために生み出された術だった。
リンの表情から血の気が引いていた。叩かれたせいではない。
「『鬼人転源歌』は鬼人種の肉体を肥大化させ、力を物理的に増大させる。だけど、致命的なデメリットもあった。『堕ちる』んだよ」
多くの鬼人種は人に混じって生きる上で、本能を抑えている。
禁術には肉体を強化するだけでなく、闘争本能や残虐性まで高めるという欠陥が存在していた。
いや、正確にはそれは欠陥ではないのだろう。
肉体と心は表裏一体、鬼人種が順当に成長した場合だって凶暴化する事があるのだ。肉体に理性がついていけていないというのが正しい。
そして、一度飲まれた理性はそう簡単には取り戻せない。
青ざめ俯くリンの顎に手を当て、目を見る。罵倒の一つくらい言わせて貰わないと納得できない。
「『侍』の職は高潔な者にしか与えられない。御しきれると思ったか? 被害者面するんじゃない。理由の有無なんて関係ない。君は――《魔物使い》失格だよ」
彼は、長きに亘り放浪してきたはずの鬼は、刀を誇りに胸を張って生きていたはずの侍は、人間社会に立派に馴染んでいるはずの広谷は、リンの術によって正気を失ったのだ。
リンがたちが悪いのに引っかかっているのは予想できたが、さすがの僕でもここまでの悪逆非道は予想していなかった。だが、儀式の途中ならばまだしも、もう成ってしまったからには僕に出来ることなどたかがしれている。《魔物使い》のミスは《魔物使い》が贖うのは理でもある。
「リン、広谷との契約内容はなんだ?」
「……え――そ、それは……」
「ああ、もういい。全て、わかった」
リンの表情から全てを理解する。主導権が握れていない。相当緩い契約なのだろう。あるいは――命令不可のパターンまで考えられる。
もう呆れ果ててものも言えない。確かに《魔物使い》の契約は緩いが、マスターにはストッパーの役割もある。主導権を全て渡して良い訳がないのに、信頼の意味を勘違いしている。
やむを得ない。僕はやるせないため息をつき、広谷に言った。
「本当に申し訳ない、広谷。死んでくれ」




