第十九話:私でも、力に、なれます
混乱していた。だが、アムは迅速にマスターの言葉を実行した。
時刻のメモを取り、フィルを担いで部屋のベッドに寝かせる。回復魔法の使い手を呼ぶべきか迷ったが、やめておく。アムの目にはフィルの体調が手に取るようにわかったし、紋章もマスターが無事である事を教えてくれている。そんな指示は出されていないのだから、余計な事はしない方がいい。
身じろぎ一つせずに眠り込むフィルを見て、アムはなんとも言えない感情に襲われていた。
無理をしていたんですね……フィルさん。
純人の脆弱さはリンでわかっている。彼女は気丈でアムに的確に指示を出し、最後のあの時まで弱みを一切見せなかったが、休息だけは十分以上に取っていた。アムの眼にフィルは超人に見えていたが、冷静に考えればずっと動きっぱなしだったのならば倒れたとしても不思議ではない。
アムはまだほとんどいいところを見せられていない。迷惑をかけっぱなしだ。
剣を振るう姿を見てもらいたかった。褒めて貰いたかった。
だが、アムの口から出てきたのは違う言葉だった。
「よかった……フィルさん。私でも、力に、なれます」
眠るマスターの頬に指先で触れる。アムに全てを預け眠るマスターの姿を見ていると、先程まで抱いていた畏怖が消えていくのが感じる。
マスターの弱い一面にアムは不安や頼りなさを感じなかった。むしろ、守らねばと強く思う。
アムの持っていなかったものを沢山与えてくれた。アムの抱いていた確執まで察し、解決策を提示してくれた。少しでも恩を返せるのならば、これほど嬉しい事はない。
既に日は沈みかけていた。だが、今のアムは力も装備も、昨日までの比ではない。今ならば、何か一つ、下級の依頼をこなす事くらいはできるはずだ。もともとアムは探求者だ、手順は覚えている。
それに、アムは種族的に夜の方が強いのだ。下級依頼程度ではフィルが買ってくれた物の値には届かないが、お金はあればあるほどいい。眠っている間に働けば、マスターも褒めてくれるだろう。
いい考えだ、と思った。意気揚々と部屋から出かけたところで、ふとマスターの言葉を思い出す。
『素振りを続けるなり、後は自由にしていい。ただし、勝手に依頼を受けたり、宿から出ちゃだめだ』
「………………わ、わかってますよ。剣の練習をしに行くだけです、心配いりませんって」
§
中庭で剣を振る。買ってもらったばかりの剣は少し軽かったが、長さはちょうどよく取り回しに不便はない。
身体が軽かった。いつも頭の片すみにあった後悔や悩みが軽減されたからだろうか。
そして、剣士の職を得た今のアムには自分の目指す先がはっきりと見えていた。
これが……職を受けるという事か。身体能力が上がっているわけではないが、既に身体のキレがいつもと違う。理想と現実とのギャップを着実に埋めていけば、きっとアムは一端の剣士になれるだろう。そうすれば、ギルドのあのいつもアムを無礙に扱った冷血な受付の反応も変わるはずだ。
少しだけ上級職を貰えなかった事が残念だが、マスターがそう判断したのならばそれでいい。
そこまで考えた所で、アムは目を見開いた。昨日までの自分だったならば、チャンスが失われたらずっと気に病んでいただろう。もしかしたらマスターを恨んでいたかもしれない。
「……私も、できるところを、見せないと……」
見捨てられる事だけは絶対に避けねばならない。力や装備は向上したが、もしも捨てられたら、今度こそアムは駄目になってしまう。情けないところを見せてばかりだ。できるところを見せるのだ。
契約は短期だ。だが、期間は明示されてはいない。
アムが強くなればスレイブでいれる時間が長くなるはずだった。いざとなったら泣きつくつもりだが、それはあまりに情けない。
神経を集中させる。脳内に浮かぶ剣士の道――その先に存在する、先人が開拓した戦技を一つ一つ丁寧に模倣していく。
つい先程まではどうやるのかすら理解できなかった技がすんなり自分の中に入っていくのは不思議な感覚だった。
リンとの活動中はずっと力ずくでなんとかなっていたし、それでもいいと思っていた。が、今、新たな力を手に入れてようやくリンがアムに必死に職を授けようとしていた理由がわかった気がした。《託宣師》が力を与える相手を選んでいた理由も理解できる。
一振り一振りに気持ちを込める。足運びを意識し、呼吸を意識する。今だけは夜魔の頑丈な身体がありがたい。フィルと違って、アムは一晩剣を振り続けても問題ないのだ。
いつしかアムは時間を忘れていた。悩みも不安も全て頭から追い出し、無心に剣を振る。
――アムの聴覚が大きな物音を捉えたのは、その時だった。
破砕音ではない。扉を思い切り開け放ったような、そんな音だ。
ほぼ反射的に気配を確認し、アムは目を見開く。大きな気配だ。大きくそして、淀んでいる。
だが、アムが目を見開いた理由はその近くにあるもう一つの気配にあった。
「リン……」
§
リン・ヴァーレンは《魔物使い》で、純人種の女の子だ。
赤みがかった長い髪をいつもツインテールにしていた。とても頭のいい子だった。アムに持たない物を全て持っていた。そしてそれを指摘すると、いつも照れくさそうに笑っていた。
別れこそ最悪だったし恨んだこともあったが、リンとの思い出を思い返すと悪い思い出の方が少なかったように思える。アムと組んだのは契約を結ぶためだったのかもしれないが、それを恨む気にもなれない。もし彼女がいなければアムはとうの昔に本能のままに人を襲っていただろう。
剣を握りしめ、音がしたエントランスに向かう。そこには――見る影もない元親友の姿があった。
思わず息を呑んだ。もしかしたら、フィルと出会う直前の自分よりも酷いかもしれなかった。
手入れを欠かしていなかった髪は艶を失い、いつも笑みを絶やさなかった表情は暗く淀んでいる。双眸の下には深く隈が張り付き、幽鬼のように生気が見えない。
別れてから一度も姿を見ていなかった。見ようとしていなかった。言いたいことは幾つもあったが、変わり果てた親友の姿を前に、何も言えない。
常に身だしなみを整え人の目を気にしていたリンがここまで荒れ果てるとは、果たしてアムと別れた後に何が起こったのか。
リンの窪んだ眼がアムを見る。その表情に一瞬驚きが過り、乾いた唇が小さくアムの名を呼ぶ。
「ア……ム……?」
「リン……何が――」
「なんだ、お前は……?」
響き渡るような声がした。リンとは一変した力強い眼光がアムを貫く。
まるで怒りを堪えているような声に、リンの華奢な身体が一瞬硬直するのを見た。
それは――鬼だった。身長は二メートル以上。甲冑を纏っているが、その上からでも岩のような筋肉がわかる。頭には鬼族の証である二本の銀の角が生え、腰には一振りの長い剣を携えていた。
傲岸不遜な態度は力に絶対的な自信を持っている証か。リンの後ろに立ち、アムを睥睨している。
フィルさんの言った通り――スレイブだ。しかも、鬼種である事も一致している。
アネットさんは出てこない。その目が自分よりも頭二つ分は小さなリンを見下ろす。
「お前の、知り合いか?」
「…………私の、前のスレイブよ」
空気がひりつくような、強い邪気を感じた。悪性霊体種ではないようだが、似たようなスキルを持っているのかもしれない。アムにそれ系の力は通じないが、その威容に思わず一歩後退る。
強い。熟達している。恐らく、アムと同じく前衛職だが、体つきが違う。
鬼が前に数歩進み、盛大に笑う。だが、その鋭い双眸には明らかな侮蔑が含まれていた。
「あはははははっはははっははっ、お前が、リンが言っていた元スレイブかッ! 生来の力を発揮できず、《魔物使い》の力もうまく使えず、使われる事もできず、尻尾を巻いて逃げ出した負け犬ッ!」
「ッ……」
アムが言葉に詰まったのは、詰られたからでも、恐れたからでもなかった。リンがスレイブの暴言を黙って見ている事が信じられなかったからだ。
以前のリンならば『恐怖のオーラ』に似た、間違いなく法で使用を制限されているスキルを故意に使用したスレイブを見て黙っているなどありえない。
フィルが言っていた言葉の意味が今更理解できる。鬼の纏った気配はこれまでアムが出会ってきたどの探求者よりも暴力的だ。
リンは一体、どういう経緯でこんな種と契約を交わす事になったのか。
「失せろッ! …………いや、待て――――ふん、負け犬にしてはなかなかの力を……感じる」
鬼の目がアムを見て、僅かに見開かれる。真っ赤な血のような瞳にアムが映っている。
「壁くらいになる、か。喜べ、俺が、この広谷が、使ってやろう」
「広谷。アムに手を出さないで」
あまりに横暴な言葉に、さすがに黙っていられなかったのかリンが小さな声をあげる。
変化は一瞬だった。鬼の顔が一瞬で歪む。
「リン、貴様ッ! この俺に、反論するとは、どういう事だッ!」
金属の手甲で覆われた太い腕が振り下ろされた。だが、その先にいたのはアムではない。
ありえない。スレイブがマスターを攻撃するなんて――。
とっさに、間に入っていた。一歩で距離を詰め、速やかに剣を抜き放ち、手甲を弾く。
一応手加減はしていたのか、アムの一撃で腕が弾かれる。リンが床を転がった。
どうやら、装備の質はこの鬼の方が高いようだ。広谷の眉が引きつり、熱い息を漏らした。
口の中に生え揃った鋭い牙が見える。白目が赤く充血し、強い戦意がアムの精神を揺さぶった。
「歯向かうか、夜魔ッ!」
驚く程身体が軽い。先程よりも力を込めて振り下ろされる腕を剣で弾く。
先程、中庭で辿った先人の技がアムに最適な間合いを、動きを教えてくれる。一合打ち合うたびに剣が震えたが、なんとか食いつく。
その間にリンが這いつくばるようにして距離を取っていた。それを見て、広谷が激高する。
「これは、ただの教育だ。だが、忘れるな。お前が、先に、剣を、抜いたのだッ!」
「駄目、広谷ッ! やめなさいッ!」
「黙れッ!」
それは、目にも留まらぬ早業だった。一瞬遅れて、鋭い金属音が響く。
金属製の天井に一筋の線が奔っていた。広谷が抜き放った剣をアムに突きつけるように構える。
これまで見たことのない奇妙な剣だった。曲線を描く刃は長く、波打つような美しい波紋が奔っている。片刃だが、アムの使っている直剣とは明らかに用途が違った。
その動きは職を得たばかりのアムとは違い、熟達していた。だが、戦えるのはアムしかない。
「リン、後ろに隠れて――」
「決めた。決めたぞ、リン。この身の程を知らない夜魔を痛めつける。そうすれば、少しは貴様も、分を弁えるだろうッ!」
刃が閃く。初撃よりは遅いものの、アムの動体視力でもほとんど捉えられない凄まじい剣速だ。
後ろに下がりながらなんとか刃を凌ぐ。もしも職を持っていなかったら、とても対応しきれなかっただろう。連続の斬撃は一撃の重さこそ落ちているものの、アムにはぎりぎり耐える事しかできない。
ふと、連撃が止まる。拮抗する刃の向こうから、鬼の目がアムを見た。
「存外、やるなッ! 剣士、かッ! 力も、なかなかだッ!」
何も言うことはなかった。余裕もない。技量では大きく離され、腕力でも広谷の方が僅かに強い。
その上、まだ広谷は本気ではなかった。だが、後ろにはリンがいる。逃げるわけにはいかない。
「だがッ! 戦意がッ! 足らんッ!」
広谷が咆哮する。瞬間、刃がぶれ、無数の閃光が奔った。剣にこれまでとは比較にならない衝撃が奔る。
縦横無尽に奔った光の線。その一つ一つが斬撃だと理解したその時、アムの剣は大きく弾かれ宙を舞っていた。
手から離れた剣が大きな音を立てて床に転がる。
慌てて距離を取ろうとするが、その時には広谷の奇妙な剣はアムの喉元に突きつけられていた。
「勝負あり、だ。夜魔ッ!」
「ッ……」
広谷が酷薄な笑みを浮かべる。だが、その突きつけられた切っ先に乱れはなく、もしもアムが身動きをすればすぐさまアムを切り裂くだろう。
実力差はどうしようもなく大きいわけではない。せめて、後数日職を貰うのが早ければ勝っていてもおかしくはなかった。だが、そんな想定に意味はない。
どうすれば……いい? リンの帰還が早すぎた。せめて後一日あれば――。
「戻れ、リン」
とてもスレイブのものとは思えない命令に、リンが唇を強く結び、よろよろと立ち上がる。
そのあまりに痛々しい姿に、アムは一瞬自分の置かれた状況を忘れた。
「貴様が、悪い。全ては、貴様が、悪いのだッ! 契約を、忘れたかッ!」
「わかっ、てるわ」
絞り出すように出された声に、元親友が出したとは思えない声に、目と耳を塞ぎたくなる。
リンが笑みを浮かべる。かつてアムに向けられていたものではなく、酷く痛々しい笑みだ。
「どうしてここにいるのかしらないけど、そういう事だから。一応、感謝しとくわ。ありがと」
「なんで――」
なんでこんな事になってるの? 口を開きかけたアムに、リンは笑みを消して言う。
「これは、私の問題だから、貴方は関係ない」
『ご、め、ん、ね』。
声に出さず、リンの口が動く。その動作には謝罪と、強い覚悟が含まれていた。
絶句している間に、リンは広谷の傍らに戻る。鬼が満足げに深い笑みを浮かべた。
「それで、いい。貴様は、まだ、使える。そうだな……貴様が、大人しく従うのならば、この夜魔には手を出さないでおいてやろう。わかったな!?」
「はい。わかりました……広谷、様」
リンが能面のような表情で答える。その時、アムは心の底から理解した。
これは――もう、戻らない。アムではどうしようもない。力を得て驕っていた。
自分の事すら一人でできないのに、他人の事まで面倒を見るなど、とうてい無理だったのだ。心臓がずきりと痛む。急に喚き散らしたくなってくる。何に対して当たり散らしたいのかはわからない。
先程まで漲っていた力がいつの間にかなくなっている。
広谷が剣を下げる。だが、アムは動けなかった。そんなアムを見て、広谷が嗤う。
音が聞こえたのはその時だった。足を引きずるような間の抜けた音。億劫そうな声。
広谷が顔を上げ、リンがぴくりと眉を動かす。
「最低の気分だ。全く、今何時だと思ってるんだ」




