第十一話:これは――お気に入りなんだよ
ペルグランデ大陸。この星の陸地面積の九割以上を占めるとされる巨大な大陸は境界線などと呼ばれる巨大な山脈――ヴェルト山脈で北と南に分断される。
長らく、北に住む民にとって南の世界は、そして南に住む民にとって北の世界は未知だった。
山脈とその麓に広がる大森林には多種多様な強力な幻獣が熾烈な生存競争を行っており、未だに前人未到だ。数多の英雄達が踏破を諦めたその山脈の頂上には神が棲まうとされていた。
現在確立されている唯一の移動方法は――海路だ。
半年に一度、強力な海棲の幻獣を強引に突破し数週間を掛けて往復する『境界船』。種族等級Lに区分される無機生命種の戦艦に乗ることだけが境界線を超える現実的な手段であり、そしてそれの乗船には莫大な資金とコネが必要だった。
乗船チケットの販売価格は十五億。だが、それもほとんどが市場に出る前に捌けるらしい。
ギルド併設の酒場の一画で購入した世界地図を眺めながら、僕は眉を顰めた。
「きついなぁ……」
レイブンシティが位置するのは僕がシィラ討伐で赴いた『昏き森』から、境界線を挟んだすぐ近くだった。直線距離はまだマシだが、アムだけで越境に挑むのは命を捨てるようなものなので、王国への帰還は絶望的に難しい。そして、『短時間で』という条件がつくと更に難易度が跳ね上がる。
今の僕の手持ちのカードでは余程の幸運に恵まれなければ達成不可能だろう。
アム。悪性霊体種の夜魔。やはり今は一端帰還を忘れ、彼女の育成に注力するべきだろう。
悪性霊体種は六つの種の中で、最も性質が悪いとされる種族である。
霊体種は精神状態により能力が大きく上下するが、彼らが悪性とされるのは負の感情によって能力が向上しやすいからだ。
故に、悪性霊体種をスレイブにする際には特別の注意が必要とされる。
悪性霊体種は敵である間が一番強いというのは《魔物使い》の間では常識だ。僕たちが彼女たちを運用する上で人の法は侵すわけにはいかないものなので当然と言えるだろう。
これは、腕が鳴るな。できれば悪性霊体種じゃない方がよかったが贅沢は言うまい。
《魔物使い》は育成職だ。契約した対象を強化できる力も持っているが、それはおまけでしかない。
そして僕はスレイブを自分の力で強くする事に至上の喜びを感じるタイプだった。
結局、アムはトラウマを吐かなかった。それは僕への信頼が足りていない事を意味している。
いや、信頼しているが故に不安を感じている、とでも言うべきか。
アムには懸念点も多いが、その程度で投げ出すならば《魔物使い》はできない。
問題は夜魔の情報がほとんどない事だろう。この地は良かれ悪しかれ魔導機械と関わりが深すぎる。
魔導機械の素材は高値で売れるが、場合によっては拠点を変える必要もあるだろう。
ショップで買った資料を広げ今後の計画を考えていると、契約の紋章がアムの接近を伝えてきた。
《魔物使い》の契約魔法に強制力はほとんどないが、紋章は飾りではない。
数秒遅れ、アムが自動で開いた扉から顔を出し、きょろきょろと酒場内を見回す。
その目が僕を捉え、大きく見開かれる。僕はこれみよがしと時計を確認した。
朝の十一時の十五分前。待ち合わせは十一時なので、僕よりも先に来て待つつもりだったのだろう。
残念ながら僕にはまだ宿がない。昨晩は酒場の隅で時間を潰したので、先に来るのは不可能だ。
「おはよう、ございます。フィルさん……早いですね」
「おはよう、アム。よしよし、早めに来たんだね、偉いよ。よく眠れた?」
「は、はい。その……よく、眠れました」
アムが昨日のテンションを忘れたかのようにもじもじと言う。
どうやら……余り眠れなかったようだな。大物を狩った後に興奮で眠れなくなるというのはよくある話だ。だが、夜魔ほどの種族等級ともなれば数日は寝ずに活動できるだろう。
種族等級というのは割とふんわりした指標だ。
そもそも多様な力を持つ種族を一つの指標に無理やり当て嵌めている時点で大雑把な事はわかるだろうが、あえてその指標の判断基準を一言で表すのならばそれは――『強度』という事になるだろう。
種族等級Bの彼女は種族等級Gの僕よりも遥かに、理不尽なまでに、強い。
昨日は忙しかったのでろくに歓談もできずに解散したが、アムは随分と状態がよくなっていた。
ぼさぼさだった髪は及第点と呼べるレベルまで整えられ、肌艶も良い。服装が昨日と同じでぼろぼろなのはきっと彼女が替えを持っていないからだろう。探求者の装備は高いからな……。
立ち上がり、じろじろとわかりやすくアムを確認して、大きく頷く。
「ちゃんと髪を梳かしてきたんだね」
「!? は……はい……」
アムが顔を真っ赤にして身を縮める。僕の目を気にしたのだろうが、他人を気にするのは第一歩だ。
たとえ武人として天稟を持っていたとしても、認められるまではしっかりせねばならない。
アムがあそこまで弱っていた理由の一端もそこにあったはずだ。
資金に余裕はない。初期投資が嵩んだので昨日の狩りだって赤字だ。
だが、スレイブに見窄らしい格好をさせるなど、マスターとしての沽券に関わる。僕の管理下にある以上、手抜きは認められない。アムが不安にならないように笑顔で頷くと、僕は大きく手を叩いた。
「悪くないな……でも、もう少し行ける。よし、予定を変更してまず買い物に行こう」
見た目は重要だ。人はまず見た目を見る。高い等級の探求者ならば見た目に惑わされず相手の能力を把握することもできるが、それだって見た目を全く見ていないというわけではない。粗末な装備に暗い目をしたアム・ナイトメアちゃんはどこから見ても失敗した探求者にしか見えない。
それにプラスで全生命体の敵対種となれば、まともに接してくれるのはギルド職員くらいだろう。
テーブルいっぱいに広げていた資料をまとめ新たに購入した背負鞄にしまい、目を丸くしているアムに差し出す。戸惑っているアムに笑顔で言った。
「アム、僕の代わりに荷物を持って。昨日は任せなかったけど、これもスレイブの仕事の一つだ。君は僕の手であり、足であり、武器でもある」
§
街を歩く。アムからすれば思う事があるだろうが、この街の悪性霊体種への対応はかなり良い。
アムが歩いていてもほとんど視線を向けてこない。アムがこれまで大きな問題を起こしていないというのもあるだろうが、無機生命種は悪性霊体種への偏見が少なくて助かる。偏見から虐げられている場合は誤解を解く必要があったし、僕の経験上、大抵それは――誤解ではなかったりするのである。
鞄を背負い、ついてくるアムは終始そわそわと落ち着かない様子だった。
「あの……フィルさん、私……お金、ないですし、その……まだ、昨日の換金が済んでいません」
「気にする必要はない。スレイブの装備を整えるのはマスターの仕事だ。プレゼントするよ」
最初に向かったのは衣類の店だった。ただの服飾店ではなく、探求者向けの装備を売る店だ。
中は清潔で空調が効いていて、王国にある貴族御用達の店と比べても遜色がなかった。
「あッ……」
まだ尻込みしているアムの手を握り、中を見て回る。
文化は品揃えに反映される。棚に並べられた装備は王国では余り見ない類の物だった。
まず、真っ先に目につくのは王国のこういう店では間違いなく売っている革装備がない点だ。
強力な幻獣や魔獣の革で造られた革装備は金属鎧を装備しない探求者にとって強い味方だ。種類にもよるが、軽く、魔法や呪いに耐性があり、強度もそれなりなので高等級の探求者にも愛用者も多い。
だが、この店にはそういう装備が一切並んでいなかった。材料の供給がないのだろう。
「金属布か……」
その代わりに並べられているのが金属布装備だ。
金属布装備とは布の鎧である。その名の通り、特殊な金属糸で作った布で造られた装備は金属鎧よりも軽く、そこそこの防刃能力を持つ。製造難度から滅多に見ないのだがここでは違うようだ。
アムの格好を確認する。金属布装備はそう簡単にほつれたりはせず、独特の肌触りがある。
「なんでアムの装備はただの布なの?」
「…………お、お金が、なかった、からです……」
顔を真っ赤にして俯くアム。本当に貧乏なんだな……。
金属布装備は材料のコストもあるので値段が高くなりがちだ。値札に書かれた金額は最低でも五十万――銅の剣しか持てない探求者には手が出ないだろう。すべすべした服を広げ観察する。
素晴らしい技術力だ。値段はそれなりだが、王国でこの類の装備を買おうとしたら、五倍はする。
だが――所詮は趣味品だ。
幾つか装備を確認し、僕は眉を顰めた。金属布装備は基本的に弱い。防刃能力の分ただの布よりはマシだが衝撃には無力だし、魔獣の素材を使って造られた特殊能力を持つ装備と比べて数歩劣る。
ほとんど隙間のない繊細な網目は美しかったが、ポーンアントの一撃を防げるとは思えなかった。
魔術による補強ができないのが致命的だ。大抵の金属は魔術による補強と相性が悪い。
この装備は費用対効果が悪い。そういう意味でアムがこの装備を買わなかったのは正解だ。
何故ならば、この装備を買ってもこの地で楽に狩れるようにはならないからだ。というか、アムには『透過』のスキルがあるので、等級の低い魔導機械相手ならば余り防御を考える必要がない。
数分悩み、結論を出すと、恐る恐る装備を確認しているアムに言った。
「アム、どれが欲しい?」
「え!? 私が、選んでいいんですか?」
「ああ。好きなのを選ぶといい、アムが着る物だ」
確かに、費用対効果は悪い。悪いが、今アムが着ているボロボロの布装備よりはマシだ。
夜魔は余り筋力が高い種族ではない。動きが鈍る可能性のある金属鎧は着せられない。
もともと強度などどうでもいいのだ。金属布装備ならば見た目を整える役目は果たせるし、何よりアムが装備に向ける目には淡い憧れが垣間見えた。これでアムの元気が出るのならば安い投資だ。
アムが選んだのは黒の袖の長い衣装だった。肌の露出は最低限に抑えられていて、どこか堅苦しい雰囲気がある。僕の予想通りだ。悪性霊体種は闇に溶け込めるような地味な衣装を好むし、これまで周りの目線を気にしていた者が露出の多い服装を選ぶわけがない。どこか軍服めいた印象がある。
僕は眼を細め、アムがその服を着ている姿を想像して言った。
「それはダメ」
「!? へ!? ダメ!? な、何でですか!?」
「そりゃもちろん……地味だからだよ」
「へ、えぇ!?」
僕はアムを変える。そして、変えたという事を喧伝し、レイブンシティに存在感をアピールする。
それにはその服は地味すぎる。僕は好きな物を選ぶように言ったが、それを買うとは言ってない。
「黒なのはまあ百歩譲っていいとして――足りないのは露出だ。アムは内向的すぎる。素材はいいんだから、ちゃんと自分をアピールすべく着飾るんだ。協力してもらうって言ったよね?」
最善を尽くす。当然、武器もちゃんとした物を揃えるし、食事も睡眠も良質なものを取らせる。今回は指輪を売ったので楽に揃えられるが、もしお金がなかったら借金をしてでも揃えていた。
「やり直しだ。下はスカートね。上ももっと腕を出して――どうせアムは寒さとか感じないだろ?」
「!? あああ、あ、あの! わ、私の物より先に、フィルさんの装備を揃えるべきじゃ――それ、戦闘用の服じゃ……ないですよね?」
アムが目を白黒させて、僕の服を指す。
確かに、僕の格好は探求者向けではない。ただの旅人用のものだ。動きは阻害しないが着心地重視で、アムの今着ているボロ布の方がまだ頑丈なくらいである。
だがそれは防具を揃えたところで僕の能力では無意味だから、無駄だから、その分の金でスレイブの装備を揃えた方が効率がいいから、高価な探求者向け装備は目を惹くから、あえて軽装でいるのだ。
それにこの服は……僕のスレイブが作ってくれたものなのだ。
「心配はいらない。マスターはスレイブを第一に考えるものだし、これは――お気に入りなんだよ」
スレイブを飾るのはマスターの本懐でもある。僕は唇をぺろりと舐めた。
さぁ、ファッションショーの続きといこうか。