建国
日本という国を建てたのは初代天皇の神武天皇で、約二千年前のこととされる。時期を断定できないのは日本が文字を使い始めたのは6世紀に入ってからで、当時、文字は存在せず、それゆえに“いつ”建国されたかという記録が残っていないため。それでも自分たちにとって大事な記憶は語り継ぐもので、神武天皇の物語は神話の世界に溶け込み、日本の神話をまとめた古事記に記載されたことでようやく文字となり、現在まで伝えられている。
ローマの建国者ロムルスを知らないローマ人はおらず、イギリスの建国者ウィリアム1世を知らない英国人などいるわけもないのに、日本人の大半は神武天皇のことを知らない。その理由は簡単で、日本が敗戦国だからだ。第二次世界大戦で敗れた日本はアメリカに占領された。アメリカは日本人に反日教育を施し、それは日本人の謙虚という体質も相まってすっかり日本に浸透した。反日教育とはすなわち、日本の君主である天皇を軽視し、世界大戦という悪を引き起こした日本をアメリカをはじめとする連合国が正義の鉄槌を下した、というもの。
対戦時、アメリカは日本の本土にまでやってきて、町を破壊し民間人も殺しまくり、勝者となったあとは敗者を悪と断定し、自らは正義を名乗って死体蹴り。意地汚く品位にかける卑怯な行いだが、たがだが建国三百年程度の歴史の浅い蛮族国家なのだから仕方ない。ちなみに私はアメリカが死ぬほど嫌いだ。あれに比べれば悪気があってやってる中国のほうがまだマシ。
閑話休題。
古事記によれば、神武天皇は宮崎の出身で、そこから瀬戸内海に出て北上し、九州北部、広島、岡山を拠点とする有力者とそれぞれ同盟を結び、和歌山の南端部に上陸。そこから北上しつつ紀伊半島を制し、大和(大阪から奈良にかけての地帯)を手にし、そこで王朝を開いた。これが日本のはじまりである。
古事記の物語は美しいが、歴史としてはあまりに物足りないので、当時の歴史背景などを補足しておく。
当時、日本は狩猟採集生活の縄文時代が終わり、定住し農耕をする弥生時代に入ったところだった。農耕をはじめたということは社会が安定し、土地に価値が生まれたということである。
社会の安定とはすなわち、指導者があらわれ、周囲の人々がそれに従うようになったということだ。指導者は王を名乗り、人々を支配した。この王と、それに支配される人の集団が国であり、王の支配が及ぶ領域が国土だ。当時、日本には百以上の王が乱立していた。こうなれば土地を巡って争うのは当然の成り行きで、日本は百以上の国が争う乱世となった。
そんな中、力をつけてきたのが出雲(現代の島根県)で、彼らは大陸と貿易を行い、大量の鉄剣を輸入した。鉄器がいかに強力かを示す話をひとつ。
かつて、ギリシアを中心とする一帯にはミケーネ文明が存在した。彼らは地中海をかけぬけ、トルコの街トロイを陥落させた。ヘラクレス、アキレスといった現代まで名の残る英雄はこのミケーネ文明の人である。
だが、紀元前1200年、彼らは突然歴史上から姿を消した。北方からやってきたドーリア人に滅ぼされたからだ。ドーリア人は鉄の剣を持っていたが、ヘラクレスが持っていたのは青銅の剣。こうして、ギリシアは以後400年続く暗黒の時代がはじまる。
鉄器を手にした出雲は無類の強さを誇っただろう。このままでは早晩、西日本一帯の王たちはすべて出雲に制服されてもおかしくない。古事記でも、天皇家が支配する前の日本列島を支配していたのは出雲神だと書かれている。
これが神武天皇の生きた時代。ここからは私の考えだが、神武天皇はこの状況を逆手にとったのだと思う。古事記では神の威光を負った神武天皇に各地の王は戦うこともなく次々と神武天皇に仕えることを約束するが、当然「私は神の子孫だ。だからお前らは俺の臣下になれ」などと言ったところで成功するわけがない。私が神武天皇ならこう言う。
「このままでは我々は早晩、出雲に制服される。この状況を脱するため、我々は力を合わせて一致団結し、出雲に抗おうではないか」と。
今風に言うなら、出雲を仮想敵国とした国際同盟を結んだ、というところである。
さらに神武天皇は西日本の地形を完璧に把握し、その上で戦略を立ていたと思えてならない。これも古事記の一説だが、神武天皇は大和へと向かう前、兄にこう言っている。「日本を収めるにはどうしたらいいでしょうか。東に行くとよいと思うのですが」
こう言って、彼は実際に東に向かい、各地の王たちと同盟を結んで大和で連合を結んだ王たちの上に立つ者、すなわち大王を称した。大王の一族はその後十代かけて関西の有力者たちと政略結婚を繰り返して権力基盤を盤石とし、十代大王の崇神天皇は各地に将軍を派遣して勢力圏を拡大。38代目の推古天皇の甥、聖徳太子は知謀策略で日本の大王は中国皇帝と同格だと認めさせ、大王は天皇と名を変える。そして40代天皇の天武天皇は当時最新の中国の支配体系は参考にしながらも日本独自のものは残しつつ国家基盤を整え、50代桓武天皇は京都に住まいを移す。以後、東京遷都までの千年間、京都は都であり続けた。
古代史を飛び出し明治までの歴史を語ったが、いかに大和という地がいかに長く天皇、すなわち日本の統治者が住んでいたかをわかって欲しかったからである。住まいを変えなかったということはそれで不都合なかったということであり、それだけこの地が日本の統治者の拠点として適していた、ということである。
二千年もの長命を保った国家は日本を置いて他にない。凡人の私は人類史上唯一の二千年国家を樹立した天才の脳に迫ることなどできない。私ができるのはせいぜい後知恵で結果から原因を推測するだけである。果たして神武天皇が1800年後の明治まで見据えていたのか、あるいはもっと先なのか、それとも私の推理などてんで的外れなのかはわからない。しかし、次のことなら確実に、かの天才も考えていたと思う。
それは大和と、彼の出身地である宮崎は瀬戸内海の両端にあり、彼の結んだ同盟下の国々も合わせれば完全に瀬戸内海を囲む形となり、出雲をも囲んでいる、ということである。これは戦争になれば出雲に不利に働いたし、戦いがなくとも、出雲への圧力になっていただろう。出雲にとどめをさしたのは12代天皇の子、倭建だとされている。
また、天皇家はかなり早期の段階から宗像氏と安曇氏という海洋部族と手を結んでいる。神武天皇が故郷宮崎から大和へと向かった事業を神武東征というが、神武東征も陸路ではなく海岸沿いを船で行った。出雲が海軍国家であった記述は見えないので、おそらくは陸軍を主体とする国だったのだろう、というか、人類は陸上生物なのでよほどの事情がない限り主体となるのは陸軍だ。神武天皇は考えたのだろう、陸で負けるなら海で勝負する、と。
さらに彼は瀬戸内海沿いの陸地を制することで、完全に瀬戸内海の支配圏を得た。内海の支配権を得たということはそこで交易ができるということであり、交易すれば金が手に入り、金があるところには権力も集まる。
瀬戸内海の掌握と対出雲、この二つが神武天皇に大和を選ばせた原因ではないかと思う。何はともあれ、大和を拠点とした天皇家は確固とした地盤を築き、1800年後にはさらに東の東京へ移り、去年、皇太子殿下が即位あそばされたことで126代目の天皇が誕生した。王朝など20代続けば長いほうというのに、その6倍。現在の皇室は継承者問題を抱えているが、これは26代目の継体天皇の時代にすでに克服したことである。最高の頭脳を結集した政庁の人間がこれに気づかないわけがないので、私はこの問題については、深く憂う必要はないと思っている。