第九話 『紺色言葉』
「何であいつなんかに、話したりしたんだろう……」
一人になった化学講義室で、菊池が一人呟いた。他の、適当に作った話でもよかったにもかかわらず。
「よりにもよって、何であの話……?」
一番知られたくない、一番自分が情けないと思う話。
彼女に答えを、求められているわけではなかった。だけど、何も答えを出さないまま、自分だけあやふやな感情を抱いたまま、卒業された。
学校からも、自分からも。
「どっちが大人かわかんないな」
彼女はきちんと、見切りをつけていた。この恋は、かなわない恋だときちんと分かっていたのだ。
『クラスの中で唯一、最後まで敬語だった私を、先生はどう思っているのでしょうか? ちゃんと理由があるんですけど、ここには書きません。びっくりするだろうから。』
手紙の一節が頭をめぐる。
『本来の目的を書いておきます。いまさらながら緊張している自分がいて、目の前に先生がいなくてよかった、と心から思っています。
私は先生のことが好きでした。
驚いてますか? それとも結構、バレバレだったかな? でもそれも最後です。先生、今まで本当にありがとうございました。』
彼女の告白は、『過去形』だった。もう、終わってしまった気持ちを書いていた。もう、何を言っても、無駄だということが分かってしまったから。
そして、何もできなかった自分に対し、お礼を言った彼女は最後まで、彼女らしかった。
この気持ちは、恋じゃない。まして、憧れでもない。
それは……名づけようもないくらい、淡くて、苦い感情。
深い悲しみさえもたたえていて、そして、その奥は窺い知ることができない。
紺色の言葉。
そのことをどうしたら、彼女に伝えられただろうか。
「無駄だって、知ってるっての」
誰にともなく呟いて、彼女のことを忘れるように、首を振った。もう、終わってしまった、伝えられない、言葉が消える。
「バカみたい」
急に教室から出た自分に向けた言葉。藍華は震える声で呟いた。
「バカみたい」
後悔はしていないのに、それは分かるのに、悲しそうな菊池の横顔。その横顔に向けた言葉。
「何で、あたしが出てるのよ」
今日は美術室に行く予定だったのに。夏休みに入っても、一人でいる美術室の感覚が忘れられない。だから、学校にも来ているのに。
なぜだか、今は菊池の顔が見たくなかった。なぜだか、今自分は泣きそうな顔をしている。
「バカみたい」
もう一度だけ、自分に向けて言った言葉。それはゆっくりと広がって、本来の感情を上書きする。
自分に言い聞かせる。これは同情だと。自分に言い聞かせる。あの話に感化されただけだと。自分が持っていた感情も、菊池が持っていただろう感情も、結局は名前のない感情だった。
すりこみではない、恋愛感情でもない。憧れでは軽すぎて、かといって愛情では重すぎる。
薄い、薄い色の感情。
普段は気づかないほど薄く、他の感情の影だと間違える。しかしふとした瞬間に存在に気がついてしまうと、なかったことにはできない。
見なかったことにはできないのだ。
でもいざその感情の正体を知ろうとすると、他の色にまぎれてしまう。だから、いくら探しても、正体を掴むことはできない。なのに、いつもいつも、存在はしっかりと感じている。
気がつけば、心の奥に染み付いて取れなくなる。
掴んだと思うのに、手を開くと中には何もない。するりと手の間から抜け出して、逃げていく。
そしていつかは、消えてなくなってしまう。それから気がつくのだ、あの感情も、かけがえがなかった感情なのだと。
だから。
「あたしは今、何も思ってない」
もう憧れまがいの恋はしないと、決めたから。
「あいちゃん? ご飯できたよ」
朔華が下の階から呼ぶのが聞こえる。料理はそこそこできるが、片付けの才能が皆無のため、家事は春華が担っている。
それでも時々こうして、朔華が料理をすることもあるのだ。その献立は、カレーか、シチューか、お鍋。今日はシチューだな、と勝手に予想してベッドから起き上がった。
「今行く」
ずっと横になっていたせいで、扉を開けると廊下の光がまぶしく感じた。
「藍華? 先食べちゃうよ?」
ひょこり、とダイニングルームから顔を覗かせた春華は、肩までの髪を揺らして言った。
「瑲さん、今日いないの?」
いつもこちらで夕食を食べている瑲也が見えず、春華に聞く。
春華は気まずそうに、『ケンカしてるの』と答えた。今回は春華が悪いのだろう、さもなければ『瑲が悪い!』の一点張りなのだから。
「瑲くん、すっごく、困った顔してたよ? どうして、ケンカなんてしたの?」
朔華が嗜めるように言うと、春華が小さく眉を寄せた。
「ちょっと」
春華は話したくないときに、よくこの言葉を使う。そして家族は、その『ちょっと』が出ると決まって追求しないようにしていた。
それは春華からの『話したくない』という意思の表れであるとともに、『話さない』という意志の表れでもあるからだ。
「そう。早く仲直りしてね? 私、寂しくなっちゃうから」
「うん、時間は少しかかるけど、よく話してみる」
そう言って、笑うとお腹がすいた、と呟いた。
「あたしも! 今日、シチューでしょ?」
「え、何で分かったの。あいちゃん、エスパー」
「いやいや、匂いで分かるから」
三人の姉妹が部屋に入ると、一気に騒がしくなった。
「ねぇ、藍華。化学の菊池先生って、どんな人? 来月から、化学が本格的に始まって、クラス編成が変わったんだけど、わたしその人知らないんだよね」
唐突に、思わぬところから、聞きたくなかった名前が出てきて一瞬固まる。しかし次の瞬間には笑顔を作り、聞き返していた。
「え? 受け持ってもらったことないの?」
「うん、私のクラス、化学はずっと桜井先生だったから」
いかにも文系そうな顔の、化学教師の顔を思い出しながら藍華は答える。そうか、今の二年生は桜井先生だったのか、と心の中で勝手に納得した。
「えっと、結構生徒から人気がある先生で、授業も分かりやすいって評判」
他人事のように観察していた自分がいることに、藍華自身が驚いた。
「それは、知ってる。私と同じ化学クラスの人は『ラッキー』って言ってたから。かっこいい、っていう友達もいたけど、そこらへんどう? 性格いいの?」
珍しく、姉が男性のことを話題に出したので、驚いた。
「瑲さんと、智さん以外の男の人の話をするなんて、どうしたの?」
そう言うと、春華はあっと、口を押さえた後、眉を顰めた。自分のうかつさを呪っているようだ。
「クラスの友人が、好きだって言うから……どういう人なのかと思って」
名前は出さずに、しかしはっきりと言ってしまう。元々隠し事が下手な次女のことだ、変に隠し事をしてしまうのが嫌なのだろう。
「分かった! それで瑲くん、ご機嫌斜めだったんだ」
ぽん、と手をたたく朔華に、藍華と春華は首をかしげた。朔華と春華にあまり似ていない藍華だったが、その仕草は驚くほどよく似ている。
「だからね? はるちゃんがあまりにも、菊池先生を気にするから焼もち焼いたのよ」
「あ、だから、しつこく聞いてたんだ」
「それではるちゃんのことだから『あんたには関係ないでしょ!』とか言ったのね?」
さすがは長女、図星だったように春華が目をそらせた。
「だって、その子、他には誰にも言わないで……って」
言ってたから仕方ないじゃない……、という声は小さくてよく聞こえなかった。
「それで、はるちゃんは協力するつもりなんだ」
「ううん、わたしは――今のところ反対だよ。聞く限り、その先生は生徒と恋愛するタイプじゃないよ。諦めろなんて言わないけど、表立って協力はしない」
その言葉に、ずきりと痛んだ心は見ないふりをする。いつかの菊池と同じように。
「先生がもてるって知らなかった」
「かっこいい先生は他にいるけど。菊池先生を好きになる子は、みんな本気らしいよ」
他の先生には、本当の恋をしないみたい。
「だって、その子たちは『○○先生、かっこいい』とかでしょ? でも、あの先生を好きになる子は、そのことを隠してる」
その子の目は、辛い恋をする子の目だったよ。
心の中の痛々しさを、罪悪感を、押し殺しているような表情の目。押し殺してさえ、外にもれ出る感情の止め方を知らず、戸惑う目。
「正直、『諦めて』って言いそうになった。あんな瞳見たくない」
「やれるだけ、やればいいよ。それでだめなら、彼女も切り替えられる。可能性は0じゃないならやってみるべきだよ。あとできっと後悔するから」
どうして味方したくなるのか分からなかった。
どうしてか、その感情は無駄ではないと言いたかった。
「知ってる。だけど、可能性は0に近いの。わたしは、お姉ちゃんのときもそうだけど、大切な人は、傷ついてほしくないよ。身勝手って、分かるけど。傷ついて、『もう恋なんてしない』って、言わせたくない。始めから、そんな恋に落ちないのが一番だけど。それがもう遅いなら、早く諦めてほしい」
春華の思いは、間違いもなく、その友人を思っての言葉だった。
「恋は、簡単にはやめられないって、朔ねえが言ってた」
「そうだね。やめられるんなら、わたしは――瑲が行ったときにやめてたよ」
春華に傷を負わせ、その自責の念を持った瑲也。そして引っ越した。自分を許さないために。
『春華といたら俺はきっと、自分を許すよ。春華が、俺を許すから』
『俺はあの後悔を忘れたくない、だから、引っ越したんだ』
それは、瑲也が引っ越したとき、春華が知らなかった気持ち。
『後悔を忘れず、それでも、春華を守りたいと思ったら、帰ってこれる気がした』
恋は、簡単にやめられない。
だけど、やめなくちゃいけないときもある。わたしは、瑲が帰ってきたとき、そう思った。
「多分、瑲がきちんと話さなかったら、泣きながらでも、その恋は諦めてた」
姉の声が、耳の奥にこだました。
「そういうことを、しなきゃいけない恋だって、きっとある。たまたま、わたしもお姉ちゃんも違っただけで」
「そうだね……」
結ばれる恋だけじゃないということを、知っている。だって、小さい頃に、何度も考えてきたことだから。まだ恋か憧れかも分からない、幼いときに。幾度も、幾度も考えたから。
「だから……、多分、春ねえには分からないね。諦める恋が、とても大切で、なくしたくないと思う気持ちなんて」
そのときの、春華の顔を、藍華は多分忘れないだろうと思った。
どこまでも儚く、優しげに笑ったのだ。いつだって、はっきりと口に出す姉の、何も言えない笑顔を見たのは初めてだった。
眉をそっと下げ、苦笑いの表情を作りつつも、それは笑顔だと分かる。口角を上げ、こちらを見る春華を見て、藍華は何も言えなかった。
「そうだよ。わたしは、分からない……。そんな気持ち、知らない」
ゆるゆると首を振って、春華は言った。
「ねぇ、藍華。藍華は、諦めなきゃいけない恋を、したことがあるんだね?」
それは、誰?