第八話 『淡色便箋』
暑い……。暑い、アツイ、あつい……。むしろ熱い……?
「先生、おわったぁ」
「はい、お疲れ」
あたしより遅く来た人が、あたしより先に終わるってどういうこと。
そう思いながら、藍華はシャーペンを握っている手に力を入れる。パキン、とシャーペンの芯が折れただけで、他には何も変わらない。
一番初めに来てもらったはずのプリントは、未だに四分の三しか終わっていない。『所要時間は十五分』と菊池に言われていたが、一時間は裕に過ぎていた。
「俺も」
「宿題忘れるなよ」
また一人、教室から生徒が消える。残るは藍華と少女が二人。
「違うって言ってるでしょ。ここはその公式を使うんじゃないの。あんた彼氏に何教わってんのよ」
長い髪をすっきりと結い上げ、制服も折り目正しく着用している少女。
少しきつそうな目をしていたが、それでも十分美人の範囲に入る少女だった。むしろ、その我の強そうな瞳が、その少女の意志の強さを映し出すような、そんな印象を与える。
その少女は、隣に座っている幼げな女の子のプリントを覗き込んでいた。
「帰っていい? 私、これから生徒会なんだけど」
その言葉でぼんやりと、少女が書記だったことを思い出した。そしてまたその隣にいる少女も、会計ではなかっただろうか。
「待って。真紀。あたしもだし。もうすぐだから」
「いや。あんたを待ってるだけで、私、補習組みじゃないもの」
真紀と呼ばれた少女は女の子の言葉に答え、席を立った。
「菊池先生。担任なんだから、佳奈美におまけしておいてください。そろそろ行かないと、会長がうるさいんで」
女の子――佳奈美は慌てて書き込み、『できた』とプリントを差し出す。
真紀はそのプリントをざっと見渡した。そしてその後、真紀はシャーペンで何事か書き込んで、菊池に渡した。多分入っていなかった欄の答えだろう。
「ああ、池平智な」
今年の生徒会長が長女の彼氏だと知り、どこまで自分は学校のことに鈍感なのだとあきれる。
春華がそんなことを言っていた気もしないでもないが、あまり聞いていなかった。
興味も無いので、別段意識していなかったが、少し外へ目を向けなければいけないかもしれない、と思う。
「まぁ、池田のことだから、こんなもんか。行っていいぞ」
最後の言葉だけ、少し、美術室の口調だった。
さっきまで優しかったのに。優しかったのに……。
「さて、どうして一番最初に来た平田はできてないのかな?」
にこっと、一見して邪気のない笑顔が妙に怖い。どうして、こんなに早く豹変するんだろうと、心のどこかで首をかしげた。いや、いつものことなので疑問に思っても仕方がないのだが。
「夏休みに、こんなことしたくないから、ですかね」
「素直だけど、化学ができないお前が悪い」
教卓から離れ、こつりとこちらに歩いてくる。藍華は先日のことを思いだし、体をこわばらせる。よく分からなくなっていた。
菊池と自分の正しい距離感が。
「化学式、違う」
「え?」
プリントを覗き込まれ、指摘される。
「どうやったら、こんなことになるんだ」
呆れ返られると、居心地が悪くなった。
「いいか、左側の酸素と右側の酸素の数がそもそも違うから……」
藍華の手から、シャーペンが取らる。藍華が書いた式の下に正しい式が書かれていく。サラサラと何の迷いもなく、書かれていく式を藍華は見つめた。
まったく持って、意味が分からないので大人しく成り行きを見守る。
「先生」
「は? 何」
返事をしつつも、手は止まらなかった。
「最近、思うんですけど。先生はあたしの弱味握りっぱなしですよね」
菊池が怪訝そうな顔をした。
「ずるいと思うんです。あたしばっかり、嫌なところ見られて。人に知られたくないとこ、見られて……不公平です」
拳を握り締め、藍華は力説する。しかし、菊池の反応はそっけなかった。
「俺は教師、お前は生徒。教師が生徒の相談にのるのは、当たり前だろ?」
ほら、とプリントを渡される。そこには正しい式と、導かれ方が書かれていた。それを不満げに見たあと、眉をひそめた。
「あたしが嫌なんです。だから、先生の失敗談を聞かせてくれたら、おあいこです」
そしたら、あたしも先生も誰にも秘密を言えないでしょう。
「お前、俺のタバコのこと知ってて、それを言うか」
「言いますよ。だって、あたしがもし、先生がタバコを吸っていたなんて言っても、信じる人いないじゃないですか」
『あの』さわやかで優しい菊池先生がですよ? 可笑しげに笑って見せると、藍華は言う。
「いいんですよ、嘘でも。とりあえずは、恥ずかしい過去を知っているっていう、あたしの心境が大切なんですから」
「嘘でもって」
「失恋話がいいなぁ」
菊池の話も聞かず、藍華は勝手に話を進めた。
「恋のような、恋じゃないような……。あたしがしたような感情は持ったことないんですか?」
何のためらいもなく、藍華は聞いた。その瞬間、一瞬だけ、菊池の顔が強張ったことを藍華は知らない。
「嘘なんですから、適当にしゃべってください」
菊池からいつの間にかシャーペンを取り返し、クルリと指の間を回す。
「あたしだけじゃないっていう、証明がほしいだけかもしれませんね」
あんな馬鹿な感情を持ったのは、あたしだけではないという。
「嘘でもいいのか……?」
「いいですよ。先生、振られたことなさそうな、顔してるし」
実際、振られたことがなさそうな顔なのだ。振ったことはたくさんありそうな顔だが。
「へぇ。じゃあ、昔話をしてやるよ」
嘘でも、まことでも……。それはただの失恋話。
実際起こったのかどうかなど、知るすべを藍華は持っていない。
だからそれが、どういうことを意味しているのか、藍華には分からない。
「最後まで気がつかなかった気持ちを、気づかされたときの話」
それが誰の、とも言わない。
それが本当の話、とも言わない。
ただ、それは――昔話。
数年前、タバコをすっているところを見つかった。目を丸くする女子生徒が面白くて、たまたま持っていた飴玉をやった。
そのときは、気まぐれで、別に告げ口をされたって乗り切る自信はあった。伊達に、いい子の顔をして教師をし続けていない。
『先生が、そういう人だとは思いませんでした』
苦く笑った少女は、いかにも真面目そうな優等生顔だった。ストレートの、真っ黒な髪。フレームの付いためがね。いまどき珍しいくらい、規則を守っている生徒だった。
『餌付けしたって、騙されませんから』
ただ、にっこり笑った化粧気のない顔が、いやに印象に残った。
特別美人というわけでもない、特別……何かが抜きん出ているわけではない。本当に、どこにでもいそうな、クラスでも地味な、少女だったのに。
「先生は、その女の子に、恋したんですか?」
遠慮という言葉を知らないのではないかと、菊池は一瞬思う。あまりにも、直球で聞かれて、返事に困った。
「いや、……恋じゃなかった」
お前みたいな感情だったのかもしれない。
だって、可愛いとも思わなかった。
キスしたいとも……なんとも思わなかった。
「ただ……、自分と違うあいつが、面白かった」
そう、思い続けていた。
「あたしも、そんな感情は持ったことないですね」
自分が、あの人と手を繋ぐ姿も、寄り添う姿も、想像できない。ありえなさ過ぎると、分かっているからかもしれないけど。
そういう関係は望んでいなかった。
ただ、ただ、あの混じりけのない視線が、いつまでも、たった一人に注がれている視線が、少しでもこちらに向けばいいと思うだけだった。
それは、恋を知らないあたしが、恋を知りたくて持った感情なのかもしれない。それでも、唐突に思うことがあるのだ。
「でも、もし……この視線があたしにだけ向けられたらいいのにって。春ねえじゃなくて、あたしだけだったらって」
だから、恋と間違える。それは確かに、恋とはかけ離れた感情だというのに、そのことを見失う。
それは、嫉妬の表れではないだろうかと。
それは、恋ではないだろうかと。
「それを、恋だと疑うこともなかった。そう考えることさえなかった」
それは、お前とは違う。だから余計、後悔したのかもしれない。
少女が時々、不意にこちらを見つめることも。
何か言いたげに、自分を見つめることも。
突然、泣き出しそうな顔をして、外を見つめることも。
全てに気がつかないふりをした。それは年上に抱く、憧れの感情だと気がついていたから。
「じゃあ先生は何で……」
どうして、辛そうな顔をして、あたしにそのことを話すの?
「どうして、失恋話をしてって、恋愛感情に似た感情を持ったときの話をしてって、そう言ったあたしに、その話をするの?」
「気がついたから」
あのとき、卒業式の後――何も言わずに手紙を渡されたとき。
「恋愛感情じゃなくても、あっちが憧れの感情を抱いていたとしても、俺はあいつを結構構ってたなって」
日直日誌を出しにきた少女をからかい、たった一年しか担任ではなかったのにいろいろな事情に踏み込み、少女に話しかけることを楽しんでいた。
「だから正直、動揺したよ。手紙を読んで」
手紙の中で、『先生が好きでした』と告白されて。
「『俺は教師で、君は生徒だ』とか、言う暇もないくらい、あっさりと俺の前を去ったから」
それは恋ではないと知っていたのに。 でも何も言えなくなるくらい、はっきりと告白されたから。
「それが先生の、失恋話?」
できた、と藍華が声を上げた。プリントにはきちんとした文字で解答が書かれている。多分、合ってると思うんですけどね、と笑った藍華はすばやく筆記用具を片付けて、かばんを持った。
「せっかくの夏休み、補習だけで終わるの嫌だから遊びます」
にこっと言い切った生徒は、早々と教室を抜け出した。それは、びっくりするくらい早い、行動だった。