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drop(改訂前)  作者: いつき
本編
8/43

第八話 『淡色便箋』

 暑い……。暑い、アツイ、あつい……。むしろ熱い……?

「先生、おわったぁ」

「はい、お疲れ」

 あたしより遅く来た人が、あたしより先に終わるってどういうこと。

 そう思いながら、藍華はシャーペンを握っている手に力を入れる。パキン、とシャーペンの芯が折れただけで、他には何も変わらない。

 一番初めに来てもらったはずのプリントは、未だに四分の三しか終わっていない。『所要時間は十五分』と菊池に言われていたが、一時間は裕に過ぎていた。

「俺も」

「宿題忘れるなよ」

 また一人、教室から生徒が消える。残るは藍華と少女が二人。

「違うって言ってるでしょ。ここはその公式を使うんじゃないの。あんた彼氏に何教わってんのよ」

 長い髪をすっきりと結い上げ、制服も折り目正しく着用している少女。

 少しきつそうな目をしていたが、それでも十分美人の範囲に入る少女だった。むしろ、その我の強そうな瞳が、その少女の意志の強さを映し出すような、そんな印象を与える。

 その少女は、隣に座っている幼げな女の子のプリントを覗き込んでいた。

「帰っていい? 私、これから生徒会なんだけど」

 その言葉でぼんやりと、少女が書記だったことを思い出した。そしてまたその隣にいる少女も、会計ではなかっただろうか。

「待って。真紀。あたしもだし。もうすぐだから」

「いや。あんたを待ってるだけで、私、補習組みじゃないもの」

 真紀と呼ばれた少女は女の子の言葉に答え、席を立った。

「菊池先生。担任なんだから、佳奈美におまけしておいてください。そろそろ行かないと、会長がうるさいんで」

 女の子――佳奈美は慌てて書き込み、『できた』とプリントを差し出す。

 真紀はそのプリントをざっと見渡した。そしてその後、真紀はシャーペンで何事か書き込んで、菊池に渡した。多分入っていなかった欄の答えだろう。

「ああ、池平智な」

 今年の生徒会長が長女の彼氏だと知り、どこまで自分は学校のことに鈍感なのだとあきれる。

 春華がそんなことを言っていた気もしないでもないが、あまり聞いていなかった。

 興味も無いので、別段意識していなかったが、少し外へ目を向けなければいけないかもしれない、と思う。

「まぁ、池田のことだから、こんなもんか。行っていいぞ」

 最後の言葉だけ、少し、美術室の口調だった。


 さっきまで優しかったのに。優しかったのに……。


「さて、どうして一番最初に来た平田はできてないのかな?」

 にこっと、一見して邪気のない笑顔が妙に怖い。どうして、こんなに早く豹変するんだろうと、心のどこかで首をかしげた。いや、いつものことなので疑問に思っても仕方がないのだが。

「夏休みに、こんなことしたくないから、ですかね」

「素直だけど、化学ができないお前が悪い」

教卓から離れ、こつりとこちらに歩いてくる。藍華は先日のことを思いだし、体をこわばらせる。よく分からなくなっていた。


菊池と自分の正しい距離感が。


「化学式、違う」

「え?」

プリントを覗き込まれ、指摘される。

「どうやったら、こんなことになるんだ」

呆れ返られると、居心地が悪くなった。

「いいか、左側の酸素と右側の酸素の数がそもそも違うから……」

 藍華の手から、シャーペンが取らる。藍華が書いた式の下に正しい式が書かれていく。サラサラと何の迷いもなく、書かれていく式を藍華は見つめた。

 まったく持って、意味が分からないので大人しく成り行きを見守る。

「先生」

「は? 何」

返事をしつつも、手は止まらなかった。

「最近、思うんですけど。先生はあたしの弱味握りっぱなしですよね」

菊池が怪訝そうな顔をした。

「ずるいと思うんです。あたしばっかり、嫌なところ見られて。人に知られたくないとこ、見られて……不公平です」

拳を握り締め、藍華は力説する。しかし、菊池の反応はそっけなかった。

「俺は教師、お前は生徒。教師が生徒の相談にのるのは、当たり前だろ?」

ほら、とプリントを渡される。そこには正しい式と、導かれ方が書かれていた。それを不満げに見たあと、眉をひそめた。

「あたしが嫌なんです。だから、先生の失敗談を聞かせてくれたら、おあいこです」

そしたら、あたしも先生も誰にも秘密を言えないでしょう。

「お前、俺のタバコのこと知ってて、それを言うか」

「言いますよ。だって、あたしがもし、先生がタバコを吸っていたなんて言っても、信じる人いないじゃないですか」

 『あの』さわやかで優しい菊池先生がですよ? 可笑しげに笑って見せると、藍華は言う。

「いいんですよ、嘘でも。とりあえずは、恥ずかしい過去を知っているっていう、あたしの心境が大切なんですから」

「嘘でもって」

「失恋話がいいなぁ」

 菊池の話も聞かず、藍華は勝手に話を進めた。

「恋のような、恋じゃないような……。あたしがしたような感情は持ったことないんですか?」

 何のためらいもなく、藍華は聞いた。その瞬間、一瞬だけ、菊池の顔が強張ったことを藍華は知らない。

「嘘なんですから、適当にしゃべってください」

 菊池からいつの間にかシャーペンを取り返し、クルリと指の間を回す。

「あたしだけじゃないっていう、証明がほしいだけかもしれませんね」

 あんな馬鹿な感情を持ったのは、あたしだけではないという。

「嘘でもいいのか……?」

「いいですよ。先生、振られたことなさそうな、顔してるし」

 実際、振られたことがなさそうな顔なのだ。振ったことはたくさんありそうな顔だが。

「へぇ。じゃあ、昔話をしてやるよ」


 嘘でも、まことでも……。それはただの失恋話。

 実際起こったのかどうかなど、知るすべを藍華は持っていない。

 だからそれが、どういうことを意味しているのか、藍華には分からない。


「最後まで気がつかなかった気持ちを、気づかされたときの話」

 それが誰の、とも言わない。

 それが本当の話、とも言わない。


 ただ、それは――昔話。




 数年前、タバコをすっているところを見つかった。目を丸くする女子生徒が面白くて、たまたま持っていた飴玉をやった。

 そのときは、気まぐれで、別に告げ口をされたって乗り切る自信はあった。伊達に、いい子の顔をして教師をし続けていない。

『先生が、そういう人だとは思いませんでした』

 苦く笑った少女は、いかにも真面目そうな優等生顔だった。ストレートの、真っ黒な髪。フレームの付いためがね。いまどき珍しいくらい、規則を守っている生徒だった。

『餌付けしたって、騙されませんから』

 ただ、にっこり笑った化粧気のない顔が、いやに印象に残った。

 特別美人というわけでもない、特別……何かが抜きん出ているわけではない。本当に、どこにでもいそうな、クラスでも地味な、少女だったのに。

「先生は、その女の子に、恋したんですか?」

 遠慮という言葉を知らないのではないかと、菊池は一瞬思う。あまりにも、直球で聞かれて、返事に困った。

「いや、……恋じゃなかった」

 お前みたいな感情だったのかもしれない。


 だって、可愛いとも思わなかった。

 キスしたいとも……なんとも思わなかった。


「ただ……、自分と違うあいつが、面白かった」

 そう、思い続けていた。

「あたしも、そんな感情は持ったことないですね」

 自分が、あの人と手を繋ぐ姿も、寄り添う姿も、想像できない。ありえなさ過ぎると、分かっているからかもしれないけど。

 そういう関係は望んでいなかった。

 ただ、ただ、あの混じりけのない視線が、いつまでも、たった一人に注がれている視線が、少しでもこちらに向けばいいと思うだけだった。

 それは、恋を知らないあたしが、恋を知りたくて持った感情なのかもしれない。それでも、唐突に思うことがあるのだ。

「でも、もし……この視線があたしにだけ向けられたらいいのにって。春ねえじゃなくて、あたしだけだったらって」

 だから、恋と間違える。それは確かに、恋とはかけ離れた感情だというのに、そのことを見失う。

 それは、嫉妬の表れではないだろうかと。

 それは、恋ではないだろうかと。

「それを、恋だと疑うこともなかった。そう考えることさえなかった」

 それは、お前とは違う。だから余計、後悔したのかもしれない。


 少女が時々、不意にこちらを見つめることも。

 何か言いたげに、自分を見つめることも。

 突然、泣き出しそうな顔をして、外を見つめることも。


 全てに気がつかないふりをした。それは年上に抱く、憧れの感情だと気がついていたから。

「じゃあ先生は何で……」

 どうして、辛そうな顔をして、あたしにそのことを話すの?

「どうして、失恋話をしてって、恋愛感情に似た感情を持ったときの話をしてって、そう言ったあたしに、その話をするの?」

「気がついたから」

 あのとき、卒業式の後――何も言わずに手紙を渡されたとき。

「恋愛感情じゃなくても、あっちが憧れの感情を抱いていたとしても、俺はあいつを結構構ってたなって」

 日直日誌を出しにきた少女をからかい、たった一年しか担任ではなかったのにいろいろな事情に踏み込み、少女に話しかけることを楽しんでいた。

「だから正直、動揺したよ。手紙を読んで」

 手紙の中で、『先生が好きでした』と告白されて。

「『俺は教師で、君は生徒だ』とか、言う暇もないくらい、あっさりと俺の前を去ったから」

 それは恋ではないと知っていたのに。 でも何も言えなくなるくらい、はっきりと告白されたから。

「それが先生の、失恋話?」

 できた、と藍華が声を上げた。プリントにはきちんとした文字で解答が書かれている。多分、合ってると思うんですけどね、と笑った藍華はすばやく筆記用具を片付けて、かばんを持った。

「せっかくの夏休み、補習だけで終わるの嫌だから遊びます」

 にこっと言い切った生徒は、早々と教室を抜け出した。それは、びっくりするくらい早い、行動だった。





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