第七話 『赤色答案』
「これから化学の解答を返す」
クラス中から『え〜』と言う声が聞こえるが、さほど嫌そうではない。これさえ終われば、受けたテストは全部返ってくる。そして、その後に待ち構えるのは夏休みだけだから。
「夏休みだからって浮かれて受けたやつ、夏休みは、『補習』な」
一旦切ってから、満面の笑みでそういう先生。その顔は、少しだけ美術室と重なる。
加虐趣味でもあるんじゃないだろうか……。気のせいということにしとくけど。
「平田」
理科は苦手だから、勉強したし。さすがに補習はないだろう。しかし、その考えは、菊池を見た瞬間に砕けた。
「平田、お前勉強した?」
口調はいつもどおり、だけど声はクラスモード。
「し、しましたよ、もちろん」
みんなに聞こえないようにか、声を潜めているのに、その声は耳につく。
「それで、この点か……」
がく、という効果音でも付くんじゃないかと、藍華が思うくらい肩が落ちる。
「どういう意味ですか」
そう問うと、菊池の手から解答用紙を受け取った。嘘でしょう?
……28点。
「……補習……」
言えない。二人の姉にも両親にも、言えるわけない。したことないし、これからするなんて思いもしなかった。
「ほら、藍華ちゃん。たまにはそんなことあるよ。化学以外は全部平均点以上だったし、国語と英語はよかったんでしょ?」
「化学よりはね……」
慰めてくれる友人の言葉も、入ってこない。
「どうしよう、補習、あたし一人とか」
「いいよ、菊池先生かっこいいし。人気だよ」
フォローにならない言葉をかけられても、元気が出るわけない。
「体育の有田先生とか、数学の森野先生とかには劣るけど、でも人気」
「へー、地味だから知らなかった」
つい本音が出るが、友人はその言葉に気がつかぬまま、話を続けた。
「でも先生、うまいの。告白に行く子は、みんな見つけられずに帰ってくる。放課後、何してるのかな?」
ほやん、と一番上の雰囲気に似た友人――詩織。何でも話したくなる雰囲気を持っているが、さすがに言えなかった。いつも美術室にいるなんて。
「理科準備室にいないの?」
「いないんだよね。どこに隠れるのかな?」
――でも、まぁ、やっぱり難しいのかなぁ。先生と生徒って。相手にしてくれなさそうだよね、菊池先生って。なんでもない言葉が、ちくりと刺さったことを、まだ感じていない。
感じるには少し、経験が少なかったのかもしれない。
「で、お前は試験期間ぎりぎりまで絵を描いて。試験終わった日にも絵を描いて。補習だって分かっても絵を描くのか」
あきれたような声を出され、少しだけ肩をすくめる。
「努力はしたんです。国語とかにかけた時間と比べたら、二倍ぐらいですよ。理科にかけた時間」
「何勉強してたんだ」
そんなに時間をかけて、何を勉強する? そう聞かれている気がして、言葉につまる。何って……基本的なことから。
「化学記号……とか」
「そこからか」
がくん、と肩を落とされた。
「お前さ、それ、中間だろ」
「ごもっともです」
ぐうの音もでず、ただうつむく。
「計算も全くできてなかったな」
努力はしていたらしく、何となくできている問題もあったが、壊滅的ではあった。
「意味分かんないんですもん」
唇を尖らせるように言うと、ふっと菊池が笑った。
「俺は国語とかができるほうが意味分かんないけどな」
「できなかったんですか?」
ぱっと顔を上げると、にやり、と人の悪そうな笑顔があった。
「いいや? 俺、結構優等生だったから。だけど、まぁ、理系に比べたら分かんなかったな。古典とかとにかく文法暗記だった。自分が何やってんのか分かんなかったし」
笑いながら言うが、そんなこと藍華にとっては慰めでもなんでもなかった。
「結局先生も、春ねえタイプだ」
机に突っ伏すと、涙が出そうになる。もちろん、自分の不甲斐なさに。
「あぁ、上の平田は賢そうだよな」
「理科は瑲さんが得意なんですよ」
小さい頃は教えてもらってました。笑った藍華を見れば、もう吹っ切れたのが分かった。
「吹っ切れたか?」
そう聞かれれば、藍華は不思議そうに首をかしげる。
「まだ、分かりません。見るたびに、うずく感情が何なのか。でも、前からなんですけど、――きゅっとなるような感情は、持ちません」
一つ一つの言葉を区切って言う藍華。自分の言葉にさえ自信がもてないようだった。
「元々、恋かどうかさえ、分からない感情でしたけど。……皆が言う恋を聞くと、少しあたしの持っていた感情は、違ったのかもしれません」
先生が言うように。
「本当に、ただのすり込みだったのかも」
自らに言い聞かせたのが無駄だったように。あれだけ悩んだのが、馬鹿だったのかもしれない。少しだけ、寂しそうに。少しだけ、嬉しそうに。藍華は言った。
「よく、分からないんです。だって、恋なんてしたことないから。でも、あれだけ考えて、でもあたしの持っていた感情が恋じゃないなら」
それなら、あの辛い気持ち以上に痛い経験をするくらいなら。
「あたしは、恋なんて、したくないです」
あれ以上酷い感情は、持ちたくない。何回、この人の前で泣いただろうと、思う。しかし泣き出してしまったのは一回だけだと、意外な気持ちで思い出した。何回も、何回も、この人の前では泣いた気がしたのに。
自分が泣くと、家族みんなが心配するのをしていた。だから泣きたくても、泣かなかった。強くなるんだ、と思っていた。
「恋は、したくなくてもするんだよ。そのうち」
菊池は、藍華のほうを見て笑った。いつものような、意地の悪い笑顔ではない。
クラスでする――さわやかな笑顔でもない。そして……この前『本物の恋』を聞いたときの微笑みでもなかった。
すごく、優しい笑顔だった。この人でもこんな顔をするのかと、そう思うほど、優しい笑み。
「あたしにも、そんなときがあるんでしょうか」
呟くように聞くと、菊池は少しだけ目を見開いて、笑った。今度はいつものような意地の悪そうな笑顔だったが。
「あるんじゃないですか? そんなときが」
そうかもしれないと、思わないわけではない。皆がするような、恋をしたいと思わないわけではない。ただするのなら、静かな恋がいい。
でも今は、もう少しだけは、恐れていてもいいんじゃないんだろうかと思う。
傷つきたくはないから。傷つくには少し、前の傷が痛むときを脱していないから。
だから今はまだ……。
何も知らないままでいさせて。