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drop(改訂前)  作者: いつき
本編
7/43

第七話 『赤色答案』

「これから化学の解答を返す」

 クラス中から『え〜』と言う声が聞こえるが、さほど嫌そうではない。これさえ終われば、受けたテストは全部返ってくる。そして、その後に待ち構えるのは夏休みだけだから。

「夏休みだからって浮かれて受けたやつ、夏休みは、『補習』な」

 一旦切ってから、満面の笑みでそういう先生。その顔は、少しだけ美術室と重なる。

 加虐趣味でもあるんじゃないだろうか……。気のせいということにしとくけど。

「平田」

 理科は苦手だから、勉強したし。さすがに補習はないだろう。しかし、その考えは、菊池を見た瞬間に砕けた。

「平田、お前勉強した?」

 口調はいつもどおり、だけど声はクラスモード。

「し、しましたよ、もちろん」

 みんなに聞こえないようにか、声を潜めているのに、その声は耳につく。

「それで、この点か……」

 がく、という効果音でも付くんじゃないかと、藍華が思うくらい肩が落ちる。

「どういう意味ですか」

 そう問うと、菊池の手から解答用紙を受け取った。嘘でしょう?

 ……28点。



「……補習……」

 言えない。二人の姉にも両親にも、言えるわけない。したことないし、これからするなんて思いもしなかった。

「ほら、藍華ちゃん。たまにはそんなことあるよ。化学以外は全部平均点以上だったし、国語と英語はよかったんでしょ?」

「化学よりはね……」

 慰めてくれる友人の言葉も、入ってこない。

「どうしよう、補習、あたし一人とか」

「いいよ、菊池先生かっこいいし。人気だよ」

 フォローにならない言葉をかけられても、元気が出るわけない。

「体育の有田先生とか、数学の森野先生とかには劣るけど、でも人気」

「へー、地味だから知らなかった」

 つい本音が出るが、友人はその言葉に気がつかぬまま、話を続けた。

「でも先生、うまいの。告白に行く子は、みんな見つけられずに帰ってくる。放課後、何してるのかな?」

 ほやん、と一番上の雰囲気に似た友人――詩織。何でも話したくなる雰囲気を持っているが、さすがに言えなかった。いつも美術室にいるなんて。

「理科準備室にいないの?」

「いないんだよね。どこに隠れるのかな?」

 ――でも、まぁ、やっぱり難しいのかなぁ。先生と生徒って。相手にしてくれなさそうだよね、菊池先生って。なんでもない言葉が、ちくりと刺さったことを、まだ感じていない。

 感じるには少し、経験が少なかったのかもしれない。




「で、お前は試験期間ぎりぎりまで絵を描いて。試験終わった日にも絵を描いて。補習だって分かっても絵を描くのか」

 あきれたような声を出され、少しだけ肩をすくめる。

「努力はしたんです。国語とかにかけた時間と比べたら、二倍ぐらいですよ。理科にかけた時間」

「何勉強してたんだ」

 そんなに時間をかけて、何を勉強する? そう聞かれている気がして、言葉につまる。何って……基本的なことから。

「化学記号……とか」

「そこからか」

 がくん、と肩を落とされた。

「お前さ、それ、中間だろ」

「ごもっともです」

 ぐうの音もでず、ただうつむく。

「計算も全くできてなかったな」

 努力はしていたらしく、何となくできている問題もあったが、壊滅的ではあった。

「意味分かんないんですもん」

 唇を尖らせるように言うと、ふっと菊池が笑った。

「俺は国語とかができるほうが意味分かんないけどな」

「できなかったんですか?」

 ぱっと顔を上げると、にやり、と人の悪そうな笑顔があった。

「いいや? 俺、結構優等生だったから。だけど、まぁ、理系に比べたら分かんなかったな。古典とかとにかく文法暗記だった。自分が何やってんのか分かんなかったし」

 笑いながら言うが、そんなこと藍華にとっては慰めでもなんでもなかった。

「結局先生も、春ねえタイプだ」

 机に突っ伏すと、涙が出そうになる。もちろん、自分の不甲斐なさに。

「あぁ、上の平田は賢そうだよな」

「理科は瑲さんが得意なんですよ」

 小さい頃は教えてもらってました。笑った藍華を見れば、もう吹っ切れたのが分かった。

「吹っ切れたか?」

 そう聞かれれば、藍華は不思議そうに首をかしげる。

「まだ、分かりません。見るたびに、うずく感情が何なのか。でも、前からなんですけど、――きゅっとなるような感情は、持ちません」

 一つ一つの言葉を区切って言う藍華。自分の言葉にさえ自信がもてないようだった。

「元々、恋かどうかさえ、分からない感情でしたけど。……皆が言う恋を聞くと、少しあたしの持っていた感情は、違ったのかもしれません」

 先生が言うように。

「本当に、ただのすり込みだったのかも」

 自らに言い聞かせたのが無駄だったように。あれだけ悩んだのが、馬鹿だったのかもしれない。少しだけ、寂しそうに。少しだけ、嬉しそうに。藍華は言った。

「よく、分からないんです。だって、恋なんてしたことないから。でも、あれだけ考えて、でもあたしの持っていた感情が恋じゃないなら」

 それなら、あの辛い気持ち以上に痛い経験をするくらいなら。

「あたしは、恋なんて、したくないです」

 あれ以上酷い感情は、持ちたくない。何回、この人の前で泣いただろうと、思う。しかし泣き出してしまったのは一回だけだと、意外な気持ちで思い出した。何回も、何回も、この人の前では泣いた気がしたのに。

 自分が泣くと、家族みんなが心配するのをしていた。だから泣きたくても、泣かなかった。強くなるんだ、と思っていた。

「恋は、したくなくてもするんだよ。そのうち」

 菊池は、藍華のほうを見て笑った。いつものような、意地の悪い笑顔ではない。

 クラスでする――さわやかな笑顔でもない。そして……この前『本物の恋』を聞いたときの微笑みでもなかった。

 すごく、優しい笑顔だった。この人でもこんな顔をするのかと、そう思うほど、優しい笑み。

「あたしにも、そんなときがあるんでしょうか」

 呟くように聞くと、菊池は少しだけ目を見開いて、笑った。今度はいつものような意地の悪そうな笑顔だったが。

「あるんじゃないですか? そんなときが」

 そうかもしれないと、思わないわけではない。皆がするような、恋をしたいと思わないわけではない。ただするのなら、静かな恋がいい。


 でも今は、もう少しだけは、恐れていてもいいんじゃないんだろうかと思う。

傷つきたくはないから。傷つくには少し、前の傷が痛むときを脱していないから。

 だから今はまだ……。


 何も知らないままでいさせて。


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