第六話 『ベージュ色絆創膏』
「お前、本当に絵を描くことが好きなんだな」
スケッチブックにあたりをつけながら、窓から見える風景を描いていく。黒と白で彩られている風景はそれでも、鮮やかに見えて不思議な感じがした。
自然の多くないこの町をよく見れば、とろこどころで意図的に植えられた木々に気づく。
「でも、風景画は、あんまり好きじゃないんですよ」
鉛筆の濃さを変えながら、今度は校舎を描き入れる。藍華は自分を不思議そうに見つめている菊池に向き直った。
「だって、変わらないように見えて、すぐに変わっちゃうんですから」
ページを変え、今度はすばやく窓際に置かれている石膏像をデッサンする。
「ほら、これはどうやったって形は一緒でしょ? あとは光の当たり具合。でも、風景はほとんど毎日違うから」
風とか、天気とか、成長とか……。大まかながらも、デッサンは正確で、その白い像にはない、薄い色さえ感じてしまいそうになる。
「美大でも受けるのか?」
菊池が問うと、一瞬ぼけっと首をかしげた後、笑った。
「まさか、あたしにそんな才能ないし。勉強し始めちゃうと、絵がきらいになりそうで」
自由に描いて、文句も何も言われないから絵を描くのが好きなのに。
好きなものを、好きなように描く。そこに上手、下手は存在しない。ただ描きたいから、描く。それがとても好きなのだから。
「それに芸術関係の大学って、授業料高いじゃないですか」
藍華は笑いながら、鉛筆を置いた。すっかり磨り減ってしまった鉛筆を削ろうと、筆箱からカッターナイフを出す。放課後、美術室にいることが多くなった菊池を見ながら、藍華は言葉を続ける。
「それより、そろそろ期末ですけど、いいんですか? 最近、ここにいる時間長くありません?」
仕事サボってることも秘密ですか? 笑いながら、そう言った。
「それはさすがにばれますよ。あたしは餌付けされちゃってますけど」
カッターナイフの刃を出して、鉛筆に当てた。 机の上にはさまざまな濃さの鉛筆が並ぶ。絵画に疎い菊池には2Bくらいしか身近でないので、触らずに眺めているだけだった。
シャッシャッと小刻みに聞こえる音は危なくない程度に軽快だ。
「サボってるっと年配の先生に嫌味言われるんじゃないんですか?」
菊池に話しかける藍華の視線は鉛筆のほうで、菊池の表情がどんなものか知りもしない。
「まぁ、俺、ここの副顧問だし」
「はぁ? って、っ――――」
かしゃん、とカッターナイフを落とす。左手の人差し指の付け根を押さえ、藍華は舌打ちした。痛みで眉をしかめ、それでも『先生が、副顧問?』と小さく問う。
「おい!」
ぐいっと手を引かれ、水道のところまで引きずられる。そして容赦なく水道水をかけられた。
「っ……」
声を出さないようにしながらも、傷にしみて涙まで出そうになった。
「馬鹿か、お前は! カッター扱いながら、よそ見する馬鹿がどこにいる!!」
怒鳴られて、びくりと肩をそびやかせば、菊池は慌てて言った。
「悪い。声が大きかった。でも、どうかしてる。カッター使いながらこっち向くとか。しかも指切るし。傷は深くないけど、これは保健室に行っといたほうがいいだろ」
「え、嫌です。絶対嫌。帰れって言われますもん。ならバンソーコ張りますからいいです」
引っ張られている左手を菊池の手から抜き取り、かばんを探る。小さなポーチからは絆創膏がいくつか出てきた。
しかしそれはぱっと取られ、取った人間に視線を向ければ苦い顔をした。
「早く行って来い。荷物置いたままでいいから」
「いやです」
「平田」
「こんな時間に帰りたくないんですってば!!」
苛ついたように出された言葉に、菊池は目を丸くした。
「何だって?」
聞きなおすと、藍華ははっと目を見開いた。その後に、自分が口に出したことを恥じるように、下を向く。
「だから……絵をもっと描きたいだけです」
「違うだろ」
怪我をしてない右手を掴めば、ぱっと振り払われた。
「こんな時間に帰ると……。やっと吹っ切れた思いが持ち上がりそうな気がして怖いんです!」
泣き叫ぶような声だった。
「まだ分からないんです。完全に吹っ切れたかどうか。お姉ちゃんが、春ねえが幸せになることは確かに願いました。でも、それが恋愛まで全部応援できるか、自信ないんです」
――怖いんです。
冷たい水のせいでとまっていた血は、あっけないほど早く流れ出した。
これと一緒なんだろうかと、藍華は傷口を見ながら思う。何度も何度も、『憧れ』だったと言い聞かせた。
何度も何度も、諦めたんだと思うようにした。
何度も何度も、忘れようとして涙を流した。
なのに……、結局、まだ諦め切れてないんじゃないかと思う。どこかに燻ってるんじゃないかと考えてしまう。
いつか、姉の幸せも願えないような。そんな自己中な人間になってしまうんじゃないだろうかと思う。
「あたしは、確かに、瑲さんに恋にも似た感情を抱きました。でも、春ねえに嫉妬するようにはなりたくないんです」
もう、嫉妬をする時期は過ぎたと思ったけれど。それが本当かどうかなんて、今は分からない。
「嫉妬、しないだろ。お前は」
「へ?」
「嫉妬しないって言ってんの。俺が」
血が流れ出した指を捕まえて、自分の手の高さまで引っ張りあげようとする。しかし身長差が大きいせいで、うまくいかず、菊池は自分が膝を折った。
そっと藍華の手を握り、藍華を見つめた。
「お前はもう吹っ切ってる。だから、あの絵をもう描かないんだろう?」
どこまでも、確信めいていて、自身ありげな目で藍華を見つめる。二人の会話でだけ通用する『あの絵』……。
「ただの、気分転換かもしれないじゃないですか」
「あ〜、そうかもな」
傷口を眺めていた菊池が、顔を左手に近づけるのを感じ、藍華は手を引いた。
「な、何でもう吹っ切ったって思うんですか?」
手を引いたものの、完全にとらわれたままの藍華は苦し紛れに会話を続ける。
「絆創膏、貸せ。貼るから」
藍華の言葉に答えず、絆創膏を受け取る。男にしては細くて、長い指が絆創膏をはがし、自分の指に貼り付けていく。どこかそれを他人事のように見つめながら、しかし我に返って、慌てる。
「質問に答えてください、菊池先生」
そう言うと、面白そうに口角を上げ、意地悪く笑った。
「実を言うと、お前はそいつに恋自体してないように思う。吹っ切れたとか以前の問題」
唐突だった。
「どう、してですか」
確かに恋というには、稚拙な感情だったかもしれないけれど。
「本当に恋してるやつは、嫉妬を嫉妬って気がつくまで結構時間がかかるんだよ」
当然のことのように言う。
「嫉妬じゃない、感じがする。ただぼんやりと、『いやだ』と思ったり、イライラしたりする」
それである日突然気がついて、自分の嫉妬深さに驚く。
「恋の自覚と一緒」
突然気がつく人もいる。それが『恋』なのだと。
気が付かない人もいる。他から何かない限り。
そして後悔する人がいる……あのとき、気がついていたら何か変わっていただろうかと。
「お前は、自分の嫉妬のせいで姉が傷つくんじゃないか、と心配した」
普通はしないんだよ、そんな先のこと考えるなんて。
「できないんだな。多分。そんな先のこと考えるなんて」
俺の考えてる恋は、そんなもんだけど?
最後は、半ばおどけるように言ってから、折っていた膝を伸ばす。
一気に広がる身長差を見つめながら、ぼんやりと言われた言葉を反芻していた。しかしよく理解できず、首をかしげる。すると『やっぱりお前は恋してないんだよ』と笑われた。
「先生って、意外にロマンチストですね」
笑われた意趣返しにそう口に出すと、菊池は苦笑いした後答えた。
「恋愛って、持つ感情の中で一番きれいなもんだろ?」
だからみんな、夢を持つんだよ。
「そんな、もんですか?」
「そんなもんです」
からかうようにそう言われて、理解できない自分の感情は何だったのだろうかと考えた。
自分は、子供だから理解できないんだろうか、とも思った。
ただの憧れだった?
少し幼い恋だった?
それとも、家族の情だった?
「ただいま」
「「「おかえり」」」
三つの声はいつも通り聞こえてきて、それがそんなに嫌ではなくなっている。
貼られた絆創膏を見て、触れられた左手がやけに熱く感じたのを思い出した。頭を慰めるようにたたかれたときには何も感じなかったのに。
教材置き場で耳元に声を感じたときも、体に別の体温が近づいたときも……。
何かを感じた気がした。
その気持ちの色は、まだ分からないまま。
何にでも染まりそうで、だけど何にも染まらない色。
一番静かで、綺麗で、優しくて、寛容な色。
そう、たとえるなら、いまだ見ぬ感情の色は、何色にでもなってしまう――だけど何色でもない透明。
そのココロに、色が来る日が来るのだろうか。