第五話 『無色感情』
昼休憩後の五時間目。満腹感と、六月下旬の少し暑い風でまぶたが下がりそうになった。授業も苦手な化学なので、教科書の文字はもはや未知の暗号と化している。
「だから、この塩酸との化学反応によりイオンが……」
塩酸? イオン? マイナスイオンしか知らない……。
「イオンをつくるには電子が最外殻に…………そして閉殻の形を作ることによって」
ぐにゃりと視界がゆがんで、頭が揺れている。揺れたら寝てる、と分かってしまうと思っているのに。
その意思に反して藍華の頭は揺れる。コン、と頭をたたかれ、あわてて頭を上げた。
「平田」
呼ばれて、声の方を見ると渋い顔をした菊池がいた。
「菊池、先生……?」
「寝ぼけてるな」
呆れたように言うと、クラス中が爆笑する。その笑い声によって完全に覚醒した藍華は顔を赤らめた。
「ね、寝てませんでした」
――嘘つけ、寝てただろ。
美術室のような声で言われて、びくりと体が震えた。見れば、顔のすぐ横に、少しだけ腰を折った菊池がいる。
耳より少し離れたところで出しているにもかかわらず、その声はやけに近くに感じる。
さわやか、と呼ばれる声ではなかった。優しいという口調でもなかった。今ではそれが普通になっている藍華にとってみても、その変容は著しい。一瞬のうちに変えてしまうのだから。
「ということで、居眠りした生徒は俺の準備室の片づけを手伝ってもらおうかな?」
そう言う菊池は『クラス』での菊池先生だった。
「で、何を手伝うんですか先生」
もう慣れっこになってしまったタバコ片手の菊池に聞く。
しっかりと結ばれていたはずのネクタイは緩められ、一番上のボタンは開いている。授業中にしているメガネを外せば、女生徒にもう少し人気が出ると思わせるような顔立ちだった。
今はもうコンタクトに変えているので、華やかではないが整っている顔が見える。
「そこのダンボールの中身の整理」
指差されたのはダンボールから零れ落ちた書類もそのままな、紙の山。何が書いてあるのかは、理科が苦手な藍華にはほとんど理解できなかった。
「これを、どうしろと……」
一冊十枚ほどの紙がまとめられている冊子。ダンボールは持ち上げられないくらい、詰まっている。
「内容ごとに分別して」
言われて、ぺらぺらとめくってみるが、何がどうなるのかさっぱりだ。
「えっと、無理です。日本語なのに、英語のほうが日本語に近い気さえしてきます」
事実、そうなのである。物理なのか化学なのか、あるいは生物なのか……。
「無理だよなぁ」
こちらを見て、にやり、と笑った。この笑い方をするときは悪い兆候だと、最近になるまで気がつかなかった自分を恨む。
机に右ひじを突き、手の上に顔を置いている。何がうれしいのか、その笑顔を崩さぬ今ままこちらを見ているので、ちょっと怖い。
「大丈夫。無理だって知ってたから。平田の場合」
その言い方が、とっても
『平田にはできないよな』
と言っているように聞こえたので、いらりとする。が、本当のことなので、言い返すこともできず何も言えなかった。
「タバコのこと、ばらしてやる」
苦し紛れに言い訳すると、より一層笑みを深くして席から立った。すぐさま身の危険を感じて、一歩下がる。
「平田」
藍華が一歩下がるたびに、菊池も一歩前に出る。追い詰めるさまを楽しんでいるかのようだった。そして藍華は今になって気がつくのだ。
低くて、落ち着いている声は……いつも聞いている男子の声より耳に心地よい。
あまつさえ、甘いとさえ感じてしまう声だった。
追い詰められてる。そう分かってはいるのに、どうすればいいかは分からない。
「えっと、先生……。嘘ですから」
「平田は嘘でそういうこと言うんだ」
笑いを含んでいる菊池の声が怖くなる。藍華はまた一歩、下がった。すぐ後ろは教材置き場だ。
めったに使わないような道具が所狭しと並べられてあって、かなり狭い部屋だったと思い出す。
「誰にも言いませんよ。黙認したあたしも怒られるし」
扉の取っ手に手をかける。急いで入って閉めてしまえばいいと思いついたのだ。
しかし。
「でも、逃げようとしてるのは何でかな?」
にこっと笑って、扉を押さえられた。タバコを持っていない左手が、扉を力強く押さえているのを横目で確認する。
「えっと、先生の笑顔が怖いからですね、多分」
「俺の授業を寝てたやつに、何で俺が優しくしなくちゃいけないんだ」
扉を押さえられ、逃げ場がない。
四面楚歌……。今日授業に出てきた単語が唐突に浮かんだ。
むしろ、周りを敵で囲まれているほうが、逃げ場があるかもしれないとさえ思ってしまう。と、そのときだった。
「菊池先生、って、いない」
ちょうど自分たちが立っている位置より扉側に、掃除道具入れがおいてあった。そのせいか、教材置き場の入り口の前は扉から死角になっている。なので呼びに来た先生には見えないのだ、と思うよりも早く、藍華は教材置き場の中にいた。
機械が乱雑に置かれてある部屋に二人が入ると、必然、距離は近い。声を出そうにも、耳元で
『静かにしてろよ』
と囁かれてしまえば、黙っている他なかった。
しばらくして、ガラガラと扉を閉める音が聞こえた。
「やばかった……」
タバコ片手の菊池は藍華を離し、教材置き場から出る。
「ばれるかと思った」
藍華は床にへたり込んだまま、ぼやいた。いきなり密着するし、耳元で囁かれるしで、心拍数が一気に上がる。
「悪い。ほかに隠れるところなくて」
そう言うと、菊池は藍華に手を差し出した。藍華はそれを見た後、自力で立ち上がる。パンパンと、スカートをはたいた後、深呼吸をして落ち着けようとした。
「先生のせいで、どうしてあたしまで隠れなきゃいけないんですか」
顔の赤みをごまかそうと、恨めしげに菊池を睨む。
「そりゃ、共犯者だからだろ」
菊池は嬉しそうに笑って、言った。
「やっぱいいわ。平田。また今度、手伝うことができたら呼ぶ」
一人で段ボールの中身を片付けながら、菊池は藍華を見やる。
「ならなんで呼んだんですか。帰ります!」
怒り半分、妙な気持ち半分扉へと向かった。失礼しますという言葉も出ずに、藍華は外へ出る。暑い風は頬を冷やしてくれはしなかった。
その気持ちは、いまだに無色。
名前が、つくこともない。