甘いものはいかが?
チョコレートとかマシュマロとか。甘いものはいかがですか?
<藍華の場合>
チョコレートというものは、甘いものだ。つまり、彼は好きではないと思う。
「思う、だけであって、別に嫌いって言われてないんでしょ?」
「いやっ。でもチョコレートだよ。好きなわけないというか、むしろバレンタインデーにはトラウマがあるというか」
彼を知って、二度目のバレンタインデーだ。去年のバレンタインデーは散々な目に遭ってしまい、あまりいい思い出がない。むしろ……少々忘れたい思い出しかない。
「あら? だって、藍華、去年まで我関せず~だったじゃない。トラウマになる思い出なんて――あー、その去年か」
姉が頭を抱えて言った。それから、『そうよねぇ、トラウマにもなるよね』と一人で納得するように頷いた。反論することもできずに、あやふやな笑顔に流した。
去年まで、それは自分には関係のないものだった。
甘い匂いも、可愛らしいラッピングも、あちらこちらで起こる色恋沙汰も、全てが遠い世界のものだった。自分には関係ないと、信じきっていた。
痛くなるくらい切ない、あの想いを自覚するまでは。
「藍華? えっと、大丈夫」
「大丈夫じゃ、ないかもしれない」
思い出すのは、篭った絵の具の匂いと、古い紙の匂い。それと、長い間動かされることのなかったキャンバスの匂い。気持ちのいい、すっきりとした匂いではなかったが、自分にとっては安心できるものだった。
それは今も変わらないが、それと共にある焦燥感が浮かぶ。
あの人を、彼を、取られてしまうんじゃないかという、いやな感覚。あの頃には思いもしなかった。手に入れたばかりの『自覚』に一杯一杯で、そのとき感じた焦燥感など目も向けなかった。
自分の中に育っていた『想い』は重すぎて、醜い心に気付く余裕もなかった。だから、今更になって思うのだ。彼を、誰かに持って行かれてしまうんじゃないかと。
手が震える。
あのときの女の人、の声を思い出して。彼を傷つける声を、思い出して。彼の震える声は、もう遠くの方で囁くだけだ。
あの頃何度も再生したその声は、今ではこちらをからかうような声に上書きされている。だから、今はっきりと思い出せるのは、苦しさを内包した女の人の声だけ。
痛々しいまでに鮮やかに、はっきりとした恋の欠片たちは、忘れるには余りにもキレイすぎた。今自分自身が持つ想いよりずっと綺麗で、穢れを知らない。
「藍華、あんた本当に大丈夫?」
大丈夫じゃないって、言ってるじゃない、と笑いながら絞り出す声が、苦しげな息に紛れる。こんな酷い顔、彼に見せることができないよ。
だって、今、絶対変な顔してる。泣きそうな、叫びそうな、そんな顔してる。
「チョコ、作るのやめる?」
やめない。
そう言い切れない自分が不甲斐ない。だけど苦しくて、悲しくて、ただ彼に見せられない顔をして、彼を求めた。
会いたいというよりも縋りたくて、助けてほしくて、無責任にも名前を呼んでしまいたかった。一年も前の記憶に怯えて、ありもしない腕を恐れた。彼を攫って行くかもしれないと思った女の腕。
「市販でいいじゃない。付き合って一年目なんだし、ほらちょっといいチョコとか買ってさ」
励ますように抱きしめてくれる姉の背に腕を回して、きゅっと力を込める。
「チョコじゃなくてもいいしね。ネクタイとか、明日一緒に見に行ってみる? 朔華ちゃんも誘って、久しぶりに三人でデート」
「……いいね、それ」
泣きたい、とかいうことじゃない。だけど一生付きまとうこの行事に、自覚しなくてもよかったのにと思う。だって、きっと毎年思うのだ。
彼を取られてしまう、と。彼が離れて行ってしまう、と。
毎年毎年、それは繰り返し。
「会いたいなぁ」
ただ、会えればまだ強がっていられる気がすると思った。
<優斗の場合>
「うわっ。うざっ」
「うるさい」
落ち込んでいるのは自分でも分かっている。情けないことではあるが、一ヶ月前のことを気に病んでいるのだ。そんなこと、目の前のやつには言えない。
「あのー、つかぬ事を伺いますが。……チョコじゃないことを気にしてる、とか?」
「うるさい、黒田。帰れ、俺は忙しいんだ」
可愛いとこがあるんですねぇ、と呆れたような声に続いて、ネクタイだったのが嫌だったんですか? と更なる問いかけをされた。
そういうことではないと、彼女なら分かっているだろうに。何て意地悪な質問なんだ。
「嫌とか、そういうんじゃなくって」
そういうことではなくて。
「藍華は、そういうことを気にする人間だと思ってたから」
前までの印象は、イベントに流されない人間。しかし今は、存外イベントごとに気を配る人間だということを知っている。それは姉達の影響もあるのだろうが。
「あー、あそこは色々楽しそうですもんね。家族単位というか、彼氏を巻き込んでの祭り状態というか」
納得するように頷いて、『それで』とにやりと笑った。綺麗なのかもしれない、だけど全く持ってそんな風に見えない笑顔。
人に嫌味を言い、弱みを突くことが何より楽しいと思っているんだと、疑わざるを得ない諸行の数々を思い出すと、自然と腰が引けてしまう。こいつを敵に回してはいけない、と本能が告げていた。
「それで、チョコレートを渡すという、日本でも指折りのイベントだったにも拘らず、ネクタイだったということについて悩んでいるのですか?
いいじゃないですか、毎日身につけるものですよ? 何の不満が??」
あんた甘いもの得意じゃないでしょうに、と呆れた呟き付だ。余計なお世話である。別に食べられないというわけでもないのだし。彼女にだって、嫌いではないと告げてある。
「何も言うつもりないぞ」
「結構ですよー、意地でも聞き出す。しゃべらざるを得ない状況を作ってやるわ」
頑なに抵抗の意思を見せると、彼女はまたネコのような笑みを浮かべて携帯を取り出した。何をするのか、分かった気がする。
「黒田っ」
「藍華に電話しようかなぁ。先生が、チョコレートについて悩んでるよって」
それともあれか、ネクタイが気に入らないらしい、とか?
「おまっ。止めろよ。それで泣くのは藍華だぞ」
「先生が大人しく言えば済む話です。で? やっぱりチョコレートでないから?」
そうなのか、そうじゃないのか、分からなくて口を紡ぐ。ただ気になっているだけかもしれない。一週間前にあれだけ元気だった声が、ネクタイを渡すときは僅かに沈んでいた。
その理由を聞こうとして、失敗した。何と声をかけていいのか分からなかった。
「怖いの? ようやく手に入れたモノを失うことが?」
「お前、容赦ないな」
「容赦なんて、する必要がありますか? あれだけ彼女を振り回して、傷つけて、今もまた不安にさせてるかもしれないあなたに」
手厳しい言葉は、逆に目を覚ましてくれるかもしれない。
「不安に、させていると思うか?」
「あなたの過去の行動一つ一つが」
キッパリと答えた彼女に、お前なぁと呟くと、笑われた。
「でもその不安を消すのだって先生のお仕事でしょう? 違うんですか?」
そして、先生の不安を消すのは藍華の仕事です。わたしの仕事じゃない。
「愚痴る暇があれば、そのケーキ持って行けばいいと思いますけど。わたしも、佳奈美にケーキ持っていくんで」
ちょうど同じ時間、同じ店に居合わせた元担任に言う言葉ではないだろうと思いつつも、ケーキの箱を持って車に戻ろうとする。
「先生ー?」
「あ?」
「言葉でちゃんと言わなくちゃ、不安になることだってあると思いますよ。まして彼女は長らく、『片想い』だったわけですし」
揶揄するような『片想い』はこちらの意気地のなさを責められているような気がして、そっと肩を竦めた。そんなつもりはなかったんだが。
「女の子から告白したんですから、自分ほど相手は自分のことを好きじゃないのかもしれない、なんて思ってるかもしれないですよ」
「……やつがそれを言うか」
「だって、先生はあまり認めないから」
惚れた腫れたなんて。
「俺、付き合い始めたら結構のめり込むぞ」
「知ってますけど」
「しかも、気になったきっかけだけなら俺のほうが先だぞ」
「それは知りませんが。藍華がそれを自覚しているかどうかは別じゃないですか」
確かに、と思うと同時に、心の中で相手に向かって叫んだ。
『俺はお前が思っているほど無関心なわけでもないし、のめり込んでないわけじゃないんだぞ』
と。
もう一つ叫ぶとしたら。
「俺は、予想以上に藍華に溺れてるよ」
「それは知ってます」
これを彼女に伝えるのが難しいのだ。
二人が会わないうちに終わるって言うね。ただ久しぶりに悩んでいただきたかった。
バレンタインデー辺りの話を読み始めて、文章の書き方が違いすぎて泣きたくなった。読み返すものじゃないね。恥ずかしい。
真紀ちゃん好きです。あの子はティアより使命感に燃えず、三姉妹より強い。そしてただのイタズラ好き。時々弱い。