第四話 『茜色虚言』
少しだだけ暑さを含んだ風は肩にもつかない髪を揺らした。
日が長くなりつつあるため、六時でも十分明るい。なんの気なしに空を見上げると、雲が茜色に染まっていた。
茜色は嫌いだ。
いつもいつも遊んでくれるのは春華と瑲也で、でも結局二人は真剣になってしまうのだ。だから茜色は相手にしてもらえずに、一人見上げていた空の色。
茜色は孤独な色。寂しい色、悲しい色。
失ってしまった、恋とも呼べない幼い憧れの色。
「憧れ、ね」
呟いて、馬鹿らしいと思った。
「あたしは、それしかしたことないんだから、それが『本物の恋』でしょ?」
憧れでも、何でも、それしかしたことがない。それ以外の、恋と呼べる感情なんて持ったこともない。
「あいちゃん?」
そのとき、藍華は誰かに呼びかけられて振り向いた。もっとも、『あいちゃん』と自分のことを呼ぶ人は限られていたから、すぐに誰かはわかってしまった。
「朔ねえ」
少し小さめの花束を持って現れたのは、朔華だった。
「今帰り?」
その花束に視線を移すと、『うん』とうれしそうな答えが返ってくる。優しくて、のほほんとしていて。
それでいて姉妹一頑固者の長女。
「で、それ智さんにもらったの?」
朔華の彼氏はいかにも女遊びしていそうな花屋さん(失礼)だったのを思い出す。
「そうだよ。きれいでしょ?」
頷いた姉の長い髪がふわん、と浮かんで沈んだ。
それを見ると、唐突に疑問が浮かんできた。藍華自身も気がつかず、その問いは口からこぼれた。
「朔ねえ、何で、智さんなの?」
少し前まで、春華が言っていた言葉だった。春華の同級生で、絶対に近づいてほしくないと言ったのだ。
『どうして、あんな遊びそうな男なの?! 男ならほかにいるでしょ? あいつじゃなくたって、お姉ちゃんを好きになってくれる人はきっといるよ』
それに対して、朔華は少しだけ笑っただけだった。どこまでも柔らかく、頑固者の笑顔。
「だって、好きなんだもん。それにあいちゃんやはるちゃんたちが言うほど遊んでないよ? 智君」
花屋の息子で、年下で、妹の同級生。
「それに、いくら私を好きでいてくれても、私が好きじゃないとだめでしょ?」
幼子に言い聞かせるような、諭すような言葉だった。
「それは、あいちゃんだって分かってるでしょ? 好きになろうとして、好きになるんじゃないんだよ」
びくりと肩が揺れるのにも気がつかず、藍華は朔華をかえりみた。
「朔、ねえ?」
声が震えるのにもかまわず、藍華は朔華を見る。
「どういう、こと? それ、どういう……」
言葉が、切れた。
「あいちゃんは、瑲くんが好きだって、知ってたよ」
ひどくきっぱりと、朔華は言った。
「ずっと、知ってた」
朔華は寂しげに言う。
「どうにかしてあげたくても、私じゃ、どうにもならなかった」
何もかもを、知っている顔で語る。
「あいちゃんの気持ちを瑲くんに言うのは簡単だよ?」
でもそれは、はるちゃんを傷つける。それを、あいちゃんは望んでいないでしょ。
傷つけてまで、手に入れたかったの? その恋は。
違うでしょ? あいちゃんはそう思わないよね。知ってるよ。知ってたよ。
「あいちゃんも、はるちゃんも、幸せになってほしいって言うのは、お姉ちゃんのエゴだね」
藍華の頭をそっと撫でながら、朔華は言う。
「どっちかを、とらなくちゃ……」
「やめてよ!」
藍華が叫ぶ。
胸の奥にふつふつと湧き上がってきたのが、怒りなのか苦しみなのか分からないまま、外へ出す。
「どうせ、どうせ分かってるもん」
下を向いて、でも朔華の手は振り払えず。どうしていいのか分からず、泣いているのかと思うくらい、悲痛な声を出している自分に気がついた。
「朔ねえだって、分かってたはずだよ。どっちか、じゃないって」
どっちか、なんてあいまいなものじゃなかった。
想像できない結末ではなかった。
誰が見たって、分かる結末だった。
「あたしじゃないって、分かってたよ……」
そんなこと、小さい頃から分かりきってた。
だから、二人が付き合うと分かったとき、藍華は何も感じなかった。一抹の寂しさは、どちらかと言えば、大好きな姉を奪われる気分だった。
「だから、あれは恋じゃなかったんだよ」
すると朔華は少しだけ首をかしげてたずねる。
「辛い? 悔しい? 悲しい?」
「どれでも、ないよ」
二人に、そんな感情を持つ時期は、もうとっくに過ぎていたから。
「そう? 本当に、そう思ってる?」
そう思ってないことを知りつつ、『思ってない』とは言えなかった。
言葉にできない感情が何か分からないと思ったとき、一番最初に浮かんだ言葉は『嫉妬』 だった。それは嫉妬なのだろうか、自分は嫉妬しているんだろうか。
嫉妬とはこういうことを言うんだろうか。
激しい火のようなものではない。少しだけ、針でついたような、小さな、小さな痛みだった。
「ただの、憧れだったよ。すりこみだったんだよ。きっと。絶対いなくならない、優しいお兄さんに憧れただけなんだ」
菊池が言った言葉を思い出し、答えた。そう、あれはただの『すりこみ』。
愚かなほどに、恋だと信じて疑わなかった小さい頃ではない。
自分の感情を恋なのかと疑って苦しんだ、数年前ではない。
「そっか。なら、これから初恋をするんだね」
当たり前のように、朔華が言った。優しく微笑んで、藍華のほほを撫でて、それから手を繋いで歩き始めた。
「初、恋……」
繰り返すようにそう言うと、朔華は振り返る。藍華を引っ張っていた右手で二回慰めるように藍華の手を叩いた。
「そう。だって、瑲くんへの気持ちは『憧れ』でしょう? なら、まだ初恋じゃないよ」
初恋は、『憧れ』じゃないよ。照れるように、まるで自分を思い出すように朔華は言った。
「少なくとも、私も、はるちゃんも、憧れなんかで言い表せない気持ちを知ったよ」
そう言って、自分が左手に持っている花束を見つめた。その視線は、いとおしむようだった。
「憧れ、じゃない気持ち」
一つ一つの言葉を、噛みしめるように呟く。
「そう。憧れなんて……きれいなものじゃないんだよ」
どこかおどけるように言ってから、朔華は再び歩き出す。
その視線はもう茜色の空へ向かっていた。切なそうに見えたのは一瞬で、次の瞬間にはいつもどおりの姉だった。
「帰ろっか。今日はお父さんもお母さんも早く帰るって」
任される仕事が増えたらしく、最近めっきり会わなくなった二人を思い出す。
「え、帰ってくるの? 何日ぶりだろ」
「仕事が好きだからね。あの二人は」
「春ねえ、はりきってるでしょ? 今日の夕ご飯」
「うん、何かやる気に満ち溢れてた」
二人は笑いながら影を踏むように歩いた。
玄関では春華が一人、外で待っていた。
心配そうに携帯をちらちらと見ている。心配で仕方がなく、じっとしていられないらしかった。
「お帰り。……藍華も、一緒だったの?」
少しだけ驚いたように聞く。
「帰りに会ったの」
繋いでいた手を上げながら、朔華は言った。
「そっか。なかなか帰ってこないから、『プティ』に行こうかと思ってたの」
『Le petit fleuriste』(ル プティ フルリスト)
フランス語の店名で、日本語訳は『小さな花屋』
それが朔華の行きつけの店であり、彼氏の家でもある。小さいながらきちんと掃除の行き届いた部屋は落ち着くたたずまいで、おしゃれで町で有名なお花屋さん。
花を選び、包むのもうまい女主人は明るく好感が持てた……と春華はそっと思う。
あいつさえ、いなければの話だが。
「池平がね……、何かしでかしたんじゃないかと思って!」
目下智を敵視する春華らしい言い方だった。
「智くんが何かしでかす? 何かって、何?」
きょとん、と首をかしげる朔華を見て、春華はバツの悪そうな顔をした。少しだけ眉をひそめて、苦虫を噛み潰したような顔をする。
どう言って聞かそうか迷うように視線をさまよわせた。そしてやがてあきらめたように息を吐く。
何を言っても、無駄だと悟ったらしい。
「うん、そこまで無防備だと、池平も手が出せない気がしてきた。なんかガードがゆるそうに見えて、一番固そうだよね」
言ってから自分の言葉に納得したらしく、うんうんと頷いてから家へ入る。
「早く作っちゃわないと、父さんと母さん帰ってくるよ」
玄関へ入る直前、にこりと笑った春華を見て藍華は何かがストンと落ちた気がした。
その笑顔を、曇らせなかったのが正解だという、確かな感触を感じた。
『大丈夫。もう、大丈夫だよ』
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も唱える。
簡単には、しこりは取れてくれない。それはここ数年でいやというほど知っていた。
だが、ずっとこの気持ちがわだかまるだけだとも思わなくなった。それは確かにいい方へ向かっている証拠。
この気持ちは、いつかは思い出になっていくのだろうかと、ぼんやりと思い、玄関へ入った。