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drop(改訂前)  作者: いつき
番外編
36/43

初恋印象

久々に『drop』更新。他のヒーローと違って、一人称が難しい。

 ねぇ、教えて。どうして、名前を知ってたの? どうして、名前を呼んだの? 覚えてたの?

 ねぇ、教えて。




「優斗さん」

「んー」

 彼女が自分のことをこうやって呼ぶのは、たいていめったに聞かないお願いをするときだと知っている。それに気付いたのはもう随分前だったが、今でもそれは彼女に知らせていない。

 知られたら、もうこんな甘い声で自分の名を呼ぶことはないだろうから。

「知りたいことがあるんですけど」

 彼女が聞くなら、何でも話そうと思う。……それがたとえ、昔のいたーい失恋話だろうとも。

「どうして」

 彼女が小首をかしげる。

 柔らかそうな、色素の薄めな髪が肩から零れ落ちる様は、彼女の描く絵のようだと思った。光を吸い込んだ髪は天使の輪を作り、毛先がくるんとカールを作る。

 それに指を絡めると、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。

「どうして、あたしを知ってたか、聞いてもいい? ほら、初めて会ったとき」

 彼女が思う、『初めてあったとき』は二年生の春。あぁ、自分はタバコを吸っていたところを目撃されたのか、そう言えば。

「あのとき、優斗さん、あたしのこと名前で呼んだでしょ? まだ……授業担当でもなかったのに」

 化学準備室を開けた一人の少女、ノートを持って、こちらをびっくりしたような顔をして見つめていた。大人びた顔立ちだったのに、随分と幼い表情だった。

 それを思い出し、クツリと喉を鳴らす。

 すると彼女は気分を害したように、眉を寄せた。そして流れている髪の毛を耳にかける。そういう仕草はやけに大人びて見えて、今度はこちらが眉を寄せた。

 ……ったく、こっちの気も知らないで。

「名簿見て、覚えてた、じゃ通用しないか?」

「通用しない。優斗さん、なかなか生徒の名前覚えてなかったじゃない」

 そうだった。どうも興味のない人間の名前を覚えるのは苦手で、生徒の半数は一ヶ月以上経って覚えたんだ。

 もっとも、彼女の顔と名前は、一目見たときから覚えてたけど。

「あー、それはな。まぁ、色々あるんだよ。俺にも」

「それを、聞いてるんだけどなー。答えられない?」

 いつの間に、そうやって自分を惑わせることができるようになったんだろう。小首をかしげ、髪を耳にかけて、にっこりとこちらへ笑いかける。

 ぐらぐらと、堅いはずの口が軽くなりそうになる。大体、俺はいったい、何をそんなに隠そうとしてるんだ。

「答えられない、こともない」

「なら教えて。お願い、優斗さん」

 彼女の罠に嵌ったふりをするのもいい。

 耳元で甘く囁いているつもりの、俺を陥落しようと一生懸命な彼女の、精一杯に乗ってみるのもいいだろう。可愛い彼女の罠に嵌っているふりをして、罠に嵌めてみるのもいいだろう。

「分かった。来いよ、藍華」

 どちらが、罠に嵌ったのか。そんなことは分からない。





 それはまだ桜の咲いている日だった。

 春休み課題の提出率はすこぶる悪く、『出しすぎだろ、あのおっさん』と先輩教員の悪口を呟く。その先輩教員は『悪い、今日妻の誕生日なんだ』と笑い、さっさと帰ったのだ。

 その際、『多分、放課後になって持ってくる奴いると思うから、ここで待っててくれる?』と言った。……あのおっさん!!

 ちっと舌打ちをして、懐からタバコを出す。イライラしていたせいか、単に注意散漫だったせいか、タバコに火をつけた。

 あー、喫煙室は確か四階だったな、なんて今更気付いても仕方ないことを思い出した。

 そのときだ。

「失礼しま……」

 ぴたり、と言葉が止まった。タバコに添えていた指が動く。驚いた顔の少女がいて、こちらも『ばれたな』とタバコから口を離す。

「「あ……」」

 と、見事にハモる声が準備室へ響いて、瞠目した。

 どうして今日に限って生徒が来るんだ。どうして今日に限って、準備室に入ってすぐ見えるところに座っているのか……どうして、あのおっさんは今日ココへいないのか。

 そんなことが頭をめぐった。

 そして目の前の少女に見覚えがあって、目を見開く。そしてそのまま呼びかけた。頭の中に残っている記憶と、照合させるように。

 「平田」と。

 振り向いた彼女は怪訝そうな顔をしている。

 それはそうだろう。去年自分は彼女のクラスを受け持っていなかったし、まして去年も今年も彼女の担任ではない。

 とっさに自分の名を呼ばれるなんて、夢にも思っていなかっただろう。確かに、自分でもそう思った。たった一度、名前を確認した生徒の名前がとっさに出てくるなんて思いもしなかった。






「さて、どうしてだと思う?」

「えっ。何で急にやめるのっ! 楽しみに聞いてたのに」

 彼女が不満そうに声を上げる。

 ……や、まぁ、彼女の言う『初めての出会い』を語ったわけだけど、肝心なのはこの前の話だった。そう、俺の言う本当のところの『初めての出会い』を。

 彼女が覚えてもいない、何気ない出会いを。

「聞いても仕方ないだろ?」

「仕方なくない! どうしてか、すごく気になるっ」

 むーと頬を膨らましてこちらを見る彼女は、いつもどおりまだ幼かった。





 それは彼女がまだ一年生だったとき。

 夏の補習のときだ。自分は早々にプリントを配り終え、暑い教室から逃げ帰ってきていた。

 何気なく、窓の外を見れば同じように補習のプリントを配っている化学教師が一人。

 どこのクラスも一緒だな、と思いつつ、机においてあるコーヒーを一口含んだ。それからため息を一つ。どうして補習に来るような点数を取るんだろうか。

 このくそ暑い中教室でプリント学習をするくらいなら、自分は期末前に勉強する。

 それができないから、ここに来てるんだという事実も忘れて、今教室でブツブツ言っているであろう生徒たちに悪態をついた。

 お前らだけじゃなくって、俺も嫌だ。こんな暑い中、お前らに付き合ってプリント採点とか。

 まぁ、幸い化学準備室には扇風機があり(職員室は冷暖房完備)、今はもう一人の化学教師もいないので、それを独り占めしているわけだが。

「職員室に行こうかな」

 そう呟いてすぐ、生徒に『プリント終わったら、化学準備室な』と言ったことを思い出した。

「くそっ」

 職員室と言っておけばよかった、と思いタバコに火をつける。先輩教師はそれを見ると眉をひそめるわけだが、(曰く、『妻が嫌いなんだ、タバコ』)今はいないし。

 ふわり、とタバコの煙が教室へ広がる。

 健康に悪い、と言われても、税金が上がろうともなかなか止められるものではないのだ。特に生徒の相手をしていると、ストレスがたまる。

「何で俺、教師になったんだ……今更だけど」

 もう新人と言われる年齢でもなくなった。それでも未だに時々思おう。

 何のために自分はこの仕事に就いたんだろうと。特別子供が好きなわけでもない。人へ教えるのがそんなに上手いわけでもない。

 やりがいを、全く感じないわけじゃないが、教師じゃないといけないという理由は見当たらない。

 そう思いつつ、ぼやいているとタバコを吸うのも面倒になってきた。じりっと揉み消して、扇風機の風を強める。

 髪がなびいて、汗ばんだ首筋に張り付いていた髪が取れる。

 不快感も少し軽減され、前にかかる髪を掻き揚げてネクタイを締めなおした。早いヤツはそろそろ来るだろう。




「菊池さん、ちょっといいかな」

「はい? 何ですか」

 先輩教師はその人の良さそうな顔をほころばせて、こちらを見る。

 ……嫌な予感を感じるのは俺だけだろうか。いや、そんなことはないはずだ。何かすごい不穏な空気。絶対面倒ごとを押し付けられる。

「頼みがあるんだけど、あのさ。もう一人来るんだけど、そいつのプリント受け取ってもらえない? 採点はするからさ」

 『俺、これからちょっと妻とデート』と言いつつ、いそいそと帰る準備をしているおっさんこと先輩教師は、こちらを見て再びにこっと笑った。

「あの、もう二時間ほどたってるんですけど。まだ来てないやつがいるんですか? ってか、それ、もう帰ってるんじゃ」

 プリントといったってA4のサイズで、補習の人間用なんだから教科書を駆使すれば一時間もかからない内容のものだ。

 二時間って言うことは、もうサボって帰ってるんじゃないだろうか。

「いや~。それはないな。そいつは帰る人間じゃない。まぁ、さすがに二時間かかるとは思ってなかったけど」

「誰ですか、それは……」

「んー、ああ、菊池さんは知ってるんじゃないか? ほら、平田 春華の妹だよ。今二年生の、なかなか優秀な」

 あぁ、と生返事をする。

 名前は分かるが、顔がいまいち思い出せない。が、なかなか優秀だったのは認めよう。しかし、その優秀な人間の妹がどうしてそうなんだ。姉さんに教えてもらえばいいだろうに。

「出来が悪いんですね」

「いや、理科全般がダメなだけで、他は姉同様なかなかだぞ。ま、姉には劣るが、どうしようもないくらいバカというわけじゃない。

理科がてんでダメなわけだけど。サボるようなヤツじゃあない。

美術部員で、いい絵を書くことでも有名だったはずだ。ほら、あの坂田先生が認めるくらいだから。平田 藍華、面白い子だと思うけど」

 真面目だからねぇ、と苦く笑い、じゃっ、よろしく、と言い置き颯爽と帰って行った。

「あのー」

 呼びかけてみてももう遅い。

 ルンルンと音が聞こえてきそうな足取りの彼は、もうこちらを気にしている余裕もないらしい。まったく、何がそんなに嬉しいんだか、と言ってみると、なんだか僻みにしか聞こえなくてやめた。

 それからその理科だけダメな、少女のことを考えてみる。

「平田、藍華ねぇ」

 不思議なことに、その名前は妙に頭へ残って、染み付いた。

「失礼しまー……す。あれ、あの」

「あぁ、聞いてる。プリント、机においとけばいいから」

「は、い。失礼しました」

 平田、藍華。

 それが、彼女の名前。




「なんだかあたし、結構ヒドイ評価だったんですね」

「ま、そうだな。今から思えば、全く過大評価ではなかったわけだけど」

 おっさん……の言うとおり、理科全般は全くダメだったわけだ。

「ひどい。あのときだって、ちゃんと勉強してから受けたのに。テスト」

「あぁ、お前の担当してんだから分かってるよ。真面目にしても、補習に引っかかる頭なんだって」

「優斗さんっ!!」

 怒る彼女の手を引き、腕の中へ閉じ込める。さて、罠に嵌ったのはどっちだったんだろう。

「教えてやったんだ。今度はこっちの質問」

「えっ。な、何?」

 ひくっと彼女の喉がなる。緊張しているのか、体がこわばる。それにニヤリとしてしまう自分は、ヒドイ人間なのかもしれないけれど、仕方ない彼女が可愛いから。

 彼女の髪に指を絡ませ、そっと近づけて抱きしめる力を強める。

「なぁ、藍華」

 彼女が名前で呼ばれることに弱いことは知っている。

 耳元で囁くと、赤くなって口をパクパクと閉じたり開いたりすることも知っている。それがとても……可愛らしいことを、よく知っている。

「お前はいつ、俺を好きだって自覚した?」

 ピクン、と体がはねる。

「そっ。そんなの優斗さんはいつなんですか」

 それでも気丈に聞き返してくる彼女が楽しくて、ついつい耳元に寄せた唇を首筋へ移動させた。

「俺? そうだなー、いつかな」

 自覚をしたのは、彼女とよく話すようになった随分と後。

 その前から、予感のようなものはあったけれど、まさか自分が生徒に恋するはずがないと思い込んでいたから、自覚に結構時間がかかったのを覚えている。

 それでも、今から思い起こせば、彼女の名前が一瞬で頭に入ってきたときから、『もしかしたら』はあったのかもしれない。

 運命というには、随分と陳腐で頼りないことではあったけれど。

 それでももし、そう呼ぶことを許されるのなら、自分はそれを『運命』と呼びたい。

「優斗さんが言ってくれたら、あたしも言う」

「ん~? そんなこと、言うようになったんだ。藍華は」

 ちゅっと音を立てて、彼女の首にキスを一つ。

 シャツからのぞく、鎖骨から背中から、うなじから目に入るところ全てへキスをする。それでも花はつけない。赤い花はよく目立つし、見つかったが最後彼女が外出禁止になるかもしれないから。

 ……何せ敵はあの、妹大好きな姉二人だ。油断は出来ない。

「ほら、早く言わないとこのままだぞ」

「~~~っ。バッ、バレンタインデーっ!!」

 大声で言って、彼女はくるりと体を反転させて、胸へ顔をうずめた。耳まで真っ赤に染めて、随分と恥ずかしかったらしい。シャツを握る手の力は強く、下へ引っ張られる。

「バレンタインデーに、先生に告白した子がいて……それで、自覚しました。彼女の絵を描いて、自覚したんです。先生が、好きだな、って」

 いつの間にか、名前は『先生』に戻っていて、敬語になっていて、あの頃へ帰ったようだなと思った。

「とても、悲しくて、辛くて、でも諦め切れなくて、瑲さんのときのほうが、どんなによかっただろうって」

「お前の初恋は俺だろ? 藤本は関係ない」

 自分は、大人気ない。

 たった一言、彼女が他の男の事を言い出すだけで、その男への想いが『初恋だった』というだけで、何とも言い難い不快感に襲われる。

 彼女の恋心は、自分へ向けられる分だけでいいと。

「そうだけど、やっぱり」

 やっぱり、憧れなのかどうかなんて、今も分からないままだ。

 もう消えてしまった想いを、確かめる術はもうない。今ならば、恋がどういうものか分かった今ならば、それがどういう意味を持つ感情なのか分かるのに。

 そう言って、彼女は笑った。

「それが、どういう感情か分かったら、いいのかもしれないですね。先生」

 先生呼びはそのまま、敬語もそのまま、それがどうにも寂しくて、彼女を再び抱きしめた。

「俺の自覚も、それぐらいだよ。きっと」

 恋心は、多分ずっとずっと前にあったはずだけど。彼女を大切だと想う気持は、ずっとずっと心の中にあったはずだけど。

「お前よりは、早かったかもな。恋に落ちる瞬間」

「えー! そんなことはない。絶対にない」

 あたしだって、恋に落ちたのは自覚するずっと前だよ!! 優斗さんよりは、絶対に早かった。

「本当か?」

「本当」

「なら、いつ?」

 うっと詰まって、彼女は視線をさまよわせる、そしてきっとこちらを睨んでから、口を開いた。

「餌付けされたときから!!」

 それなら、きっと勝てる。自分が恋に落ちたのは多分、初めてあったその瞬間。

 もしかしたら……名前を聞いたその瞬間かもしれないから。それでも何も言わず、『あたしのほうが早いでしょ?』と言う彼女へ、キスを一つ、贈った。

 それは自分だけの秘密。自分のほうが、恋に落ちるのは早かった。

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