第三十一話 『闇色着信』
一ヶ月ぶりくらいですか。お久しぶりです。ラスト一話を残して、UPです。やっと、やっとここまで来たー。
あとは最終話を甘く書き上げるだけです。最後までお付き合いください。
ぐるりとベッドの上で寝返りを打ってから、携帯に手を伸ばす。
ベッドにおきっぱなしの携帯を手にとって時間を確認した。現在、三月三十一日、午後十一時五十分。もう少しで四月一日だと自覚したとたん、携帯を投げ出した。
卒業式から約一ヶ月が経とうとしている。
彼が口にした『四月一日』がもう目の前に迫っているのだと思うと、知らず布団を握り締めた。『怖い』と意識しないで思った自分がいて、少々驚いた。
彼に追いかけられたとき、それはそれで怖かった。何を言われるのか、という意識が心を支配し、随分と情けない様を見せてしまったような気もする。
が、あのときの怖さとは比にならない。あれから考える時間があっただけ、その怖さは増大した。
彼の言葉はまるで暗号で、それでも色濃くあたしの中に残った。
どんな色よりも鮮やかに、どんな風景より綺麗にあたしの心を占めてやまない。あれから繰り返し、繰り返し、彼の言葉を繰り返した。
「予約って、何?」
からかわれた、のかもしれない。先生のあの顔が、頭にこびりついて離れなかった。
もともと悪いほうに考えるたちではないと思っていた。でも、今回のことで自分は存外臆病で、マイナス思考の人間なのかもしれないと思い始めた。普通の女の子なら、もう少し夢のある想像をするんじゃないだろうか。
たとえば『先生もあたしのこと好きなのかも』とか。
……ありえなさすぎて、笑えるが。
「菊池先生」
あなたは、何がしたかったんですか。ただあなた自身が、傷つきたくないから、ああいう方法で断ろうと思ったんですか?
だって、四月一日に何か連絡がなくても、あたしはあなたにかかわろうとは思えないから。
ただ。
「ただ、断るだけならなんでっ」
何で、あんなことしたの。
唇を指でなぞる。それからぎゅっと手を握り締めた。そしてまた時計を確認する。あぁ、あと五分で四月一日だ。あれからずっと考えていた。四月一日、という日付を。
「四月一日」
そして一つだけ、心当たりがあった。
あたしはまだ、高校生なのだ。あと五分間だけ。正確に言えば、三月三十一日までは。それをすぎれば、あたしは『高校生』ではなくなる。
あの学校から、先生の心から、完全に切り離されて、新しい位置に収まる。
つまりは『大学生』という身分に。『高校生』とは少し違う、大人まであと少しの位置。それが……何を示すのかはわからないけれど。
高校生、でなくなったから、どうするというのだろう。
高校生でないから、遠慮も何もなく、断れるという意味だろうか。それなら、あのキスは何なのだろう。分からないことが多すぎて、くらりと寝そべっているはずなのに立ちくらみのような感覚を味わう。
蛍光塗料の塗られた時計の針が、淡く緑色の光を発する。
そのふたつが少しずつ、少しずつ重なろうとしている現実に気がつき目をそらした。怖い、怖い、怖い。
「こわい」
漏れる声は震えていて、布団を掴む手は強張っていた。
緊張するなというほうが無理なのは百も承知だが、緊張するのは着信があってからでもいいんじゃなかろうかと自分に言い聞かせた。
そのとき、聞きなれた着信が響いた。
慌てて携帯を掴み、ボタンを押して耳に押し付ける。ついでに目を閉じて、一気にまくし立てた。画面を確かめようなどと、思いもしなかった。だって、怖いし。
「せっ、先生っ。四月一」
「あ、ごめん。私、真紀です。期待させたみたいだね。着信あったら、名前出ると思ってたんだけど」
携帯から出た声は、友人の声だった。一ヶ月前聞いた、あのときのままの声。
「真紀っ。び、びっくりするから、お願いだから、こういうことしないでよ」
最後のほうはもはや涙声だ。この緊張感を、あともう一回はしなくてはいけないのかと思うと、電源を落としたくなる。
「ごめんねー。心配になって電話したんだけど。まぁ、意地悪もかねて?? 今十一時五十九分だし」
ぱっと時計を見る。針はほぼ重なっている。それが何を示すのかすぐに分かって、脱力した。
そうだ。こういう人なんだ。彼女って。もう何度目かにもなるその認識を毎回しているはずなのに、肝心なときに忘れるのでその認識がタメになったことはない。
「三月一日のあと、学校行ったのよ。謝りに」
あのあと、あたしは一番に彼女に連絡して、先生が来たことを伝えた。
すると彼女は『あぁ、行ったんだ。腰抜けが』とだけ答え、電話を切ったのだ。
彼女が高校一年生のときの担任だったはずの『先生』に、どうしたらそんな態度が取れるのかと、ただひたすら不思議だったが、今回もその理由を教えてくれそうにない。
「一応、約束だし。もう一発くらい殴っとこうかな、と思って」
「なっ。真紀、また殴ったの?! 先生を? 平手でっ?!」
携帯を両手で握る。生徒ではもはやないにしろ、彼女はそれで大丈夫なのだろうか。先生殴るのって。いつの間にか激しい動悸は治まって、代わりに何とも言えない嫌な予感が胸を占めた。
「いや、平手で殴るわけないでしょ。謝りに行ったのに。思ってたんだよ」
「そ、うだよね。殴るわけないよね。わざわざ謝りに行ったのに、謝る理由増やすわけないよね。思っただけだよね」
どちらかといえば、確認というよりもむしろ願いだ。彼女があれ以上の暴挙に出るなんて考えたくもない。
「殴ってないとは言ってない。グーで殴ってきた」
「なんでっ!!」
「何でって、
『女の子泣かせて、苦しめて、それで何? 四月一日に連絡するって、いったい、どういう了見なの? 顔が少しいいからって、からかってんの??』
って、過去にとらわれてばかりのお馬鹿さんに言ってやりたかったから」
ぐらぐらとめまいがする。そのとき、時計が目に入って、十二時を過ぎたことを知った。
「真紀ーー」
どういう意味よ、と問うと、彼女は笑って、『菊池先生にでも聞いてみれば?』とわざとらしく言う。それがまた憎らしくて、簡単に携帯の向こうの彼女の顔が想像できて、『意地悪っ』と返した。
「菊池『先生』がね、大っ嫌いな理由、教えてあげるよ」
真紀が笑いながら答えた。少しだけ大人びた声で、こちらをからかうように少しだけ甘く。
まるで大切な秘密を、たった一人だけに伝えるように。思わず耳を済ませると、ふふっと小さな笑いを漏らした。
「私に、似てるの。すっごく。私が、似てるのかもしれないけどね。とりあえず、似てるのよ。私と、菊池は。もう、自分でも嫌いなのに、目の前にもう一人の自分がいるみたいですごく嫌だった。
過去にとらわれてるって言うか、執着して、頑なに他人の侵入とか阻んじゃって。ときどき、自分は『加害者です』みたいな、罪を背負っているような顔なんかしちゃって」
大っっ嫌い、と彼女は笑い混じりに言ってから、ほうっと息をついた。
それから声を落ち着けて、再度語りだす。今度こそ、秘密を漏らすかのような、ささやかな声だった。
「だから……ううん、『でも』かな。彼が走っていったときは、心底ほっとしたよ」
あたしと別れた彼女は、その足で美術室へ行き、先生の頬を張ったらしい。
そして彼があたしに話したせりふを言った。どういう意味なのかは、二人とも教えてくれなかったけれど、彼女なりの声援だったのではないかと思っている。
「まぁ、ちょっと、仲間が減って悲しいけどね。結局、腰抜けは私だけになっちゃったわけだし」
彼女の言う『腰抜け』がはっきりと分からないけれど、彼女が腰抜けなら、この世の中の人皆腰抜けなんじゃないだろうかと思う。
「真紀が腰抜け?」
「そう。腰抜け。過去に執着して、いつまでも過去の中で生活がしたい、ただの腰抜け。
亮との関係も、何もかもを、昔のまま保っていたいと思う。何も変化なんて訪れないで、ひたすらに甘くてぬるい平凡さを求めてる」
変化なんていらない、とそう言ったくせに、彼女は今日本にはいない。高校を辞めて、何を求めるのかと思ったけれど、少なくとも『変化』ではなかったらしい。
平穏を求めるために、仕方なく変化を甘んじて受けた、ということだろうか。
「理解しなくていいよ。きっと藍華には分かんないだろうから」
「子ども扱いしてる?」
「してないよ。ただ、藍華には絶対分からないと思うよ。私と違って、素直で、賢くて、しっかり者だからね」
からかわれているような感覚になるが、彼女がそういう類の冗談を好かないことを知っているので、黙って聞いていた。
「さて、そろそろ切りますか。菊池のやつもイライラしながら待ってるだろうし?」
「えぇっ!! もう切るの? もう少し話してようよ。一ヶ月ぶりなんだし。もう少し、いいでしょ??」
『菊池』の名を聞き、及び腰になるあたしを感じてか、真紀は携帯の向こう側で『何言ってんのよ』と小さく笑った。
「四月一日はもう訪れてるのよ。まぁ、私のところにはまだだけど。日本はもう、過ぎてるでしょう? 十二時。菊池の出した、答えが聞けるよ? 聞きたくないの? 『模範解答』」
「きっ、聞きたくないよ……」
何で、わざわざ振られるようなこと、待ち望まなくちゃいけないのよ。
そう返すと、すぐには真紀は返事をしてこなかった。しばらくして、はぁーと長いため息をつかれ、こちらは少しだけ困惑してしまう。今のため息、どういう意味だろうか。
「ねぇ、もしかして『振られる』なんて思ってないでしょうね」
「振られなかったら、どうなるって言うのよ」
まさか、先生があたしを好きな分けないでしょうに、首を横に振りながら言い返す。
そのあきれたような口調、どうにかなりませんか。真紀さん。不快感が増してきてるんですけど。
「キスされて、予約って言われて、四月一日にヒントが『キス』の模範解答をもらうのに、どこに振られる要素があるのか、私に説明してよっ!!
どこをどう間違えれば、そこまでされて『A.振られる』なんて答え出てくんの??」
「むしろあたしは聞き返したいよ。絵を描くのが好きな、幼い女子高校生を、どうやってあの『菊池先生』は好きになるの?? ってか、どうしてキッ、キスとかっ、予約とか知ってるのっ!!」
まくし立てるあたしの顔はもはや真っ赤になっているんじゃなかろうか。
キスとか、予約とか一切語っていないのに、どうして彼女は知っているのだろう。ただ『先生は追いかけてきてくれたよ』と言っただけなのに。
「ん? 秘密。女の子は秘密があってこそ、なんだから」
『真紀、電話が入りましたよ。菊池さん、という方かららしいのですが』
電話の向こうで、もう一つの声がした。『菊池』に反応してしまう自分がつくづく憎らしい。
「あー、無言で切って。いや、いい。こっちにちょうだい。藍華、ちょっと待って。すぐ戻る」
真紀の声と気配が遠くなる。しかし、その声は凛としているので、よく響いて、遠くで語っている内容は携帯を通してこちらにまで来た。
『もしもし?』と外行きの声が流れ込む。猫の仮面をかぶった雌豹とでも表現するのだろうか、この場合。
『分かってますって、すぐ切りますよ。うるさいですね。あんたが悪いんだから、このくらい当然でしょ? 一回、思いっきり振られたほうがいいんじゃないんですか?
人間、一回挫折を味わわないと、成長しないんですよ。せんせ』
びくん、と肩が震える。『せんせ』と真紀が言ったということは、真紀の電話相手は間違いなく『菊池先生』なのだ。
「藍華ー。ごめん。やっぱり、切るわ。うるさいやつがはやく電話切れ、ってうるさいから。まったく、もう。藍華は自分のもんだとでも思ってんのか、あの元腰抜けヤロー」
最後に悔しげな声が聞こえ、唐突に携帯は切られた。
パタン、と携帯を閉じると、すぐに携帯が再び音を奏でる。登録して以来、一度としてくることのなかった着信が、一度として映すことのなかった名前が液晶画面に映る。
思わず電源を落としかけて、やめた。
いつまでも逃げてるなんて、自分らしくないだろう。少なくとも、困難からずっと目をそむけることはよくないはずだ。それならいっそ、出てはっきりさせたほうがいい。
そうして、真紀に『振られたよ』と言えば、真紀も納得するだろう。
とりあえず、先生があたしのことを好きだという意味のない、妄想を止めてくれるはずだ。誤解だってきちんと解けるだろう。
「はい、もしもし。平田です」
「遅い」
開口一番、一言目がそれ。
先生らしすぎて、笑ってしまう。本当に、この人はあたしが緊張して電話に出た人だろうか。この人と話すのは、そんなに緊張することだっただろうか。
「あー、菊池です。一ヶ月ぶり。ったく、黒田のやつ、やっと電話切ったか」
苛立ったような声に肩が震えるが、自分の中にある勇気を最大限引き出して、あごを引いた。負けるな、下を向くな。いつか自分に言い聞かせたことを再びつぶやく。
「どうして、真紀の電話……」
「あぁ?? 池田に聞いた。連絡名簿って、意外に役に立つな」
佳奈美に聞いたのか、と納得しつつ、こんな時間に連絡したのか、と小さく不安になる。……常識ないですね、先生。
「――昼間。電話かけたの。もしものときのために、保険。今お前、完全に俺のこと、『常識がない』って思ってたろ」
思ったより、緊張してない。むしろいつもどおりの会話に、ほっとしていた。
何一つ変わらない、生徒と先生の関係。二人とも、境界を越えようとしていないのだから、きっと大丈夫。何を言われても、電話口で涙を流さないようには出来る。
「まさか、深夜に電話がかかってくるなんて思いませんでした」
ウソ。あなたなら、そういうことをするかもしれないと、そう思っていた。
四月一日になってすぐ、電話してくるんじゃないだろうかと、薄々感じていた。約束は守る人だし、何より、一回口に出してからその主張を簡単に引っ込めるような人じゃない。
「夜分遅くに」
「いえっ。あたしも振られるんなら、早いほうがいいと思ってましたから」
謝ろうとしているのが分かり、言葉をさえぎる。
早口になっているのが分かるのに、直そうとも思えなかった。準備が出来ているとは言いがたい。だけど準備なんて、振られる用意なんて、きっといくら時間があったとしてもできないんだろう。
それならば、一刻も早く、少しでも早く、そう言ってほしかった。
「お前さ、やっぱり振られること前提なの?」
「他にどんな前提があるのか、あたしは聞きたいです」
携帯を耳に押し付け、息を吐き、やっとのことで言葉を押し出す。
『早く、早く』とこんなにも願っているのに、まだそのときはやってこない。まだ、引き延ばすというの? この苦しい時間を。
「もし俺が、高校生には手を出せないから、この日まで待ってた、って言ったら。お前はどうする?」
それは、何を意味するの? からかってるの? あたしの反応は、そんなに面白い?
「…………」
「沈黙はどう受け取ればいいんだ。平田」
お願いだから、そんな声で呼ばないで。
甘く囁かないで。
期待させないで。
諦めようと、ちゃんと決めたと伝えたはずなのに。この人はあたしに諦めさせてはくれないのか。
いつも意地悪そうに、何か企んでいるかのような声を出すのに、ときどきドキリとするくらい甘い声で囁かれる。
そうされるたびに、甘く呼ばれるたびに『好きなんだ』と言いそうになっていた。伝えたいと、唐突に思ってしまうのだ。
『あなたが、大好きなんです』と声を大にして。この心にある気持ちを全て、色にして出してしまえたらいいのにと思うくらい。
「先生は、恋をしない人だと、聞きました」
ウソじゃない。『恋を、しなさそうな人だよね』といつか言われた。
「誰に」
「春ねえと、真紀に」
「あの二人か。また」
平田その二と黒田がそろいもそろって、と苦くつぶやかれる。
『平田その二』の言い方が、あんまりな言い方だったので、思わず噴出した。緊張もこれと一緒に流れてくれればいいのに。
「迷ったんだよ。平田 春華にも、黒田 真紀にも言われた。『傷つけるくらいなら、始めから何もしないで』って」
二人はどこまでも、あたしを中心に行動してくれていたらしい。少し、恥ずかしいけれど。
「『大人だから、我慢できるでしょ』って、お前の姉さんに言われて、『自分が臆病者だと、まだ気付いていない愚か者が、誰かを幸せに出来るんですか?』って、黒田にも言われた」
だけど、と先生は続ける。
「どんなことを言われても、お前を忘れられなかった。からかったり、変にかまったりすることを止められなかった。手紙をくれた生徒に重ねてたわけじゃない。
確かに、境遇は似てたけど、俺はお前とあいつを同一視するほど器用じゃない」
静かな声が、胸に響いて、ちょっとずつ、あたしの思考回路をとめていく。深く考えることが出来ないように、回路を一つ一つ、丁寧に閉じていかれるような感じを味わった。
「『傷つけるくらいなら、近づくな』か。……正論だな。まったく。恨めしいくらいに」
あなたはまた、一人傷ついているんですか?
どうしようもなく、痛々しい顔をして、あたしに電話をかけているんですか?
あたしは、そんなことのために、あの絵を描いたはずではないのに。
傷でもいいと、いいながら、やっぱり先生に傷ついてほしくなかった。あたしなんか、残ってほしくなかったのかもしれない。
「『それでももし、本当に触れたいと思うなら。もし本当に、手に入れたいと思うなら。そのときは、はっきりと目に見える形で落とし前をつけて見せて』だとよ。黒田のやつ」
男前だよ、真紀。腰抜けだなんて、誰も思わないし、思えない。ありえないから。ここまでの発言を言う人が腰抜けなはずがない。
「そう言われて、やっと、自分が犯しそうになっていた二度目の失敗に気がついた。また、おんなじことを繰り返すところだった」
あぁ、俺はお前を気に入ってたなと。
逃がしたくないと。
できれば捕まえておきたい、と。
「絵を見て、触れて、お前の目にはこんなふうに映ってるのかと思うと、どうしようもなく、引止めに行きたくなった」
「先っ」
「とりあえず聞けよ。自分の過去話と失敗話は、かなり語るのに勇気がいるんだぞ」
ぎゅっと布団を握り締めて『はい』と返事を返す。携帯の向こうの彼は満足そうに息をついて、それからそっと話し始めた。
「何もせずに、ただ後悔するのは一度で十分なんだ」
知りたくないんです。実は。あなたの昔の恋なんて。
あなたが辛そうにすればするほど、それほど深く、誰かを想っていたのかと考えてしまうから。自分では敵わないと、実感してしまうから。
「だから行動を起こした。でも言っておく。前のは恋じゃないから。初恋はやれないけど、手紙をくれた生徒に恋はしてなかったから。あと」
お前の初恋は藤田じゃない。
「なっ、先生にそんなこと、何で言われなきゃいけないんですか」
「まだ分かんないのか」
先生が少しだけ笑った。物分りの悪い生徒に教えるときのような声にどきりとする。化学を教えるときの先生の声だ。
「お前の初恋の相手は俺」
んでもって、最後の恋の相手も俺。
「分かったか」
「……」
「返事は」
「……はい」
嬉しいのか、混乱しているのか、何なのか。
分からない感情が胸を締め付ける。それでも前のような、ドロドロした真っ黒い感情じゃなくって、どちらかといえば暖かい暖色だった。
「まだ、言ってなかったよな」
先生が息を小さく吸い込んだ。何を言われるのか、本当はもう、分かっているのかもしれない。
「言いたいけど、まだ言ってやらない。携帯越しの告白なんて、惜しいだろ? 最初で最後だしな。お前にとって」
勝手に決めないで、と言ってやりたいのに、思考回路は麻痺して何も言えなかった。
「だからそうだな。とりあえず」
お前が何を想って、この絵を描いたのか知りたい。
「学校に来いよ、明日……じゃなくて、もう今日だな」
欲しいのは、そんな言葉じゃない。だけど、それでもいいかな、と思ってしまうあたしは、あなたに溺れてるんだと思う。
だから願わくは、明日、言葉をください。
できればあたしが贈った『過去形でない』言葉のようなものを。まだ少し、あなたを疑ってしまっているあたしが、信じてしまえるほどの言葉を。
「先生」
「ん?」
何といって伝えればいいのだろう。この気持ちを。この心にあふれている色を。
「色がたくさんありすぎて、なんて言ったらいいか分かりません」
大丈夫、伝わってるよ。
「お前が言いたいことは、絵で伝わるから。どんな色でも、ちゃんと伝わる」
この前まで、絵なんて分からなかったくせに。
イーゼルなんてものがあることさえ、キャンバスにサイズがあることさえ、知らなかったくせに。木炭を見て、『有機物を完全燃焼させると……』とか言ってたくせに。
それでも、自分の絵を見るときの瞳はひどく真剣だった。その絵に向けられる瞳がこちらを向かないかと、少しだけ期待していた。
「もう、切る。夜遅くに電話して悪かった。おやすみ、藍華」
ぷつん、と通話が切られて、プーという電子音だけがあたしの耳に響いた。
急に呼ばれた名前を反芻し、やっと自分の名前だと自覚する。それと同時に、ふつふつと体内の温度が上がってきて、ベッドに転がり込んだ。
「あっつ」
体中が火照って、体温のともっていない枕に顔を押し付ける。そうしなければ、叫びだしそうになっている自分がいた。
甘い甘い声から、逃げ出すことなど不可能なのだ、そう思いつつ、目を閉じた。
朝起きて、携帯を確認して、それで彼からの着信がちゃんとあったのを確認したら、学校に行こうと思った。