第三話 『黒色秘密』
それからだ。
度々菊池に藍華が遭うようになったのは。会う、というよりは、本当に『遭う』と表現したほうが正しい。遭遇したくないものに、遭ってしまうのだから、その表現も当然だろう。
それは部活をし始めてすぐだったり、美術室を閉めに来るだけだったり。しかし毎回変わらなかったのは、アメを一つくれること。
『口止め料』 それが決まり文句のように毎回言われた。
「先生、ここ禁煙ですよ。……学校全体が禁煙ですけどね」
「いいんだよ。口止めしてんだから」
「あたしまで共犯だと思われたらどうするんですか?」
「え、共犯、でないと言い張るのか? 平田」
ムリだろ、それは。
菊池が笑う。授業中にするような、優しい笑顔ではない。どちらかというと、悪人の笑みだと藍華は思うようになっていた。
「先生。下の名前は何ですか?」
「優斗。優しいに北斗七星の『と』」
「先生の名前は嘘つきですね」
「何が言いたい、平田」
ゆったりとした空気だった。めったに来るはずのない部員たちは、コンテストに出すようなものを描くわけでもない。
幽霊部員で構成されているといってもおかしくないほど、活動はない。顧問が顧問なだけに、生徒もやる気がないのだ。
活動しているかさえ怪しく、部活勧誘も美術部だけはやけに消極的だった。
「よし。できた。入学して三枚目」
トン、と机に立てかけると、少し離れて自分の絵を見る。そして納得したように一回頷くと、その絵を風通しのよさそうな机の上に置いた。少し乾かせば完全に完成する。
「なぁ」
「何ですか?」
「これ、誰と誰を描いてんの?」
その言葉に、藍華の表情が固まった。
「少女と少年ですよ。名前もない」
「名前もない、ね」
確かめるような口調ではなかった。
どこか確信めいている、それでいて藍華の嘘に付き合おうとしているようだった。
「先生は、誰と誰だと思うんですか?」
小さな声で、藍華が問う。
何かを、恐れているような声だ。真実を、知られたくない。だけど本当のことを誰かに気づいてほしい。
きゅっとスカートの裾を握り締めて、藍華はまっすぐと菊池を見た。
「知らないけど、でもモデルはいると思う。ネクタイが二年の色だし」
再び藍華の肩が揺れた。何かを恐れるように、下を向く。そしてしばらく視線をさまよわせた後、唇をかみ締めた。
「愚痴になりますよ」
「生徒の愚痴を聞くのも、教師の役目だって校長が言ってたよ」
冗談めかしのその言葉に藍華は笑う。
「その校長先生ですよ? 校内前面禁煙にしたの」
無理矢理に笑顔を作ると、イスに座った。そしてふっと息を吐くと、思い切ったように顔を上げた。
「その二人は、あたしの姉とその恋人ですよ」
菊池は何も言わず、眉を少しだけ上げた。そして視線を絵に向ける。この人は、授業中はメガネだ、と藍華はふとそんなことを思った。
「姉の恋人は、あたしの初恋の人……なんです」
だから、その絵には青がたくさん使われてて、哀しいものになっちゃうんです。
もともと、初恋って呼べないくらいのものなんですけど。
苦々しく笑い、藍華は言った。
「前の二枚も、同じ二人ですよ」
口角だけを上げて、藍華は笑った。
まるで、自分をあざ笑うかのような笑い方だ。
「その男の人のモデル……藤田 瑲也さんって言うんですけど。あたしたちの幼なじみなんです」
藍華はそっと机の上の絵に指を滑らせた。
「小さい頃から、お姉ちゃんしか見えてなくて。年下のあたしが見ても、好きなんだなぁって分かった」
泣き出しそうな笑顔を作り、菊池と向かい合う。
「でも、お姉ちゃんの足に傷を作ったんです。……瑲さんのせいじゃないんですけど、瑲さんは自分のせいだと思ってるみたいでした」
それで、そのまま引っ越しちゃったんです。お姉ちゃんにだけ、引っ越すことを言わないまま。
少女の足についた傷を撫でると、くすりと笑った。
「そのとき、一瞬思ったんです。このまま、二人がもう出会わなければいいのにって」
嫉妬って、言えないぐらい、幼い考えです。
藍華が笑ったまま、涙をひとつ流した。まるで、幼かった自分を笑うかのように、まるで、愚かだった自分を後悔するように。
「そうすれば――もしかしたら、瑲さんの心は変わるかもしれない。あたしに向かなくても、春ねえ以外の人に向くかもしれない、って。浅ましいですね」
自分が思ったことが許せなかった。嫉妬とも名づけられないくらい幼稚で、誰のためにもならない考え。
姉の手に入らなくなると同時に、自分の手にも入らなくなるということさえ知らずに。大好きな姉と、大好きな人の幸せを祈れない自分が悔しくていけなかった。
「でも、春ねえの悲しそうな顔を見るのは耐えられなかった。無理矢理作る笑顔も見たくなかった」
どうしてあんな人に、あんな感情を持ったんだろうと、笑う。笑わなければ、自分が壊れてしまうとでも言うように。
「だから二人が再会して、付き合うようになって。仲良くしてるのを見ると……少し嬉しいんです」
今度は優しく微笑んだ。
本当に、そのことが嬉しいんだと分かるような、笑顔だった。あるいは、自分の罪が少し薄れたと感じたからかもしれない。
「嫉妬なんて……。もうとっくに感じなくなってたんだって、そのときに分かりました。むしろ、あの感情は、嫉妬じゃなくって。ただの姉を取られそうになった妹が感じた、拗ねるような感情じゃなかったのかって」
だから、少しだけ悲しくても、祝福はできた。二人が寄り添っているのを、見るのは嫌いじゃなかった。
「何で……描くんだ?」
唐突に菊池が口を開く。今まで黙っていたので、藍華は驚いて菊池を見た。
「自分の心が、憧れだって、確かめるためです」
あの二人のような恋がしたかったという憧れなんだと、そう自分に言い聞かせるように。
「瑲さんへの気持ちも、すべては憧れだったんだって」
だから絵を描く。
「でもさ。お前としては、まだ吹っ切れてないんだろ」
どこから出してきたのか、以前の二枚の絵も加え、三枚を並べる。
「どれも、この二人目を合わせてない」
どれも二人はどこか違うところを見ていた。触れているのは体の一部で、手を繋いでいることもなかった。
恋人同士だと分かる雰囲気なのに、恋人同士だと思えない触れ合い方をする。ただただ、隣にいるだけ、寄り添うだけ。
そんな二人しか、いなかった。
「二人の関係は、そんなものですから」
目を合わせなくても、体の一部しか触れ合っていなくても。
「二人が……二人でいることが当たり前で、自然すぎるんです」
そう言って、もう一度だけ、きれいに笑った。
「お前さ」
菊池が口を開く。
「泣くぐらい辛いんなら、本物の恋してみろ」
ぽんぽんと藍華の頭をたたいた。
必死に抑えていたことを見破られた気がして、顔が熱くなった。
「もしかしたら、一番最初に見た同世代の少年だから、そいつのことが好きだと思ってるかもしれないし」
懐からタバコを出し、ライターで火をつけた。伏し目がちにタバコに火をつける菊池の顔が、ライターの火によって陰影がつけられる。
するとそこそこ整っているように見えた容貌がより一層きれいに見える。
「鳥のすりこみですか……」
「そんなもん」
またにやりといつもの顔で笑う。タバコの煙が藍華のほうへ向かないように、よそを向き、ゆっくりと吐き出した。
「ほかのやつ好きになれば、『好き』ってことが分かるんじゃない?」
「先生が、先生らしいこと言ってます」
「俺、一応教師だから」
つっこみつつ、ポケットから包み紙に包まれたアメを出す。
「ほれ、口止め料」
ぽんと手の上に乗せられて、藍華は苦笑する。
「すっかり餌付けされました」
帰れ、もう閉めるぞ、と言われ、三枚の絵を片付けた。そこでふと藍華は頭に浮かんだ質問を口に出す。
「先生、つかぬ事をお伺いしますが……」
言っていいのかな? という疑問が浮かぶが、気にせず口に出す。
「先生は、したことあるんですか? その……『本物の恋』??」
菊池は驚いたように目を見開き、そして肯定とも否定とも取れぬ笑顔を向けた。
授業中に向けるような笑顔とも、藍華に向ける笑顔とも違う、不思議な笑顔だった。
「下校時間だ。さっさと帰れ。門閉まるぞ」
肩に手を乗せられ、扉まで向けられる。
さっきの質問の答えは、得られないままだった。
「先生」
「本当に門閉まるぞ」
質問をさえぎるように言われたので、藍華はおとなしく部屋から出た。がちゃりと背後で鍵をかけられるのを確認してから向き直る。
「えっと、ありがとうございました? 愚痴聞いてもらって」
そしてそれだけ言うと、藍華は階段を下りていった。
少しだけ、軽くなった?
それとも、なおのこと重くなった?
気持ちの重さは量れないから、いつもいつも、気分によって重さが変わる。
「重くは、ない」
それが本当かどうかなんて知らない。その気持ちの、その他を知らないから。
その他の感情と比べようがない。
どうだろう、だけど聞く人もいないから、相談だってできないから。
だから、また、気持ちはたまっていくだけ。