第二十九話 『群青色煙』
このシリーズも後数話です(修正待ちですが)。
……キャンバスとイーゼルの存在を始めて知ったきっかけ。キャンバスにサイズがあるなんて、これを書くまで知りませんでした。
描くのは大好きな人。
いつの間にか好きになっていて、今ではもう忘れられなくなっている人。ずるいな、と思うくらいときどき優しくなって、あきらめようと思うたびに無理だと思い知らされる。
絶対に手が届かなくって、それを自覚しているのに手を伸ばすことをあきらめられない。部屋にあるキャンバスをさらりと撫でる。本格的に受験勉強を始めようと心に決める前に描いたものだ。
正確に言えば、これを描きあげてから、勉強しようと心に決めていた。
せめて自分の中で決着をつけてから取り掛かろうと決めていたのだ。それでもどうしてだろう、あれだけ決着をつけたつもりなのに、今でも思い出せば心のどこかがうずく。
「明日はもう、卒業式だよ」
絵に問いかけてみても、何も返ってはこない。
絵の中の先生はこちらを向いてはくれない。微動だにもせずただひたすら、自分が描いたままの格好でいるだけだ。
そっと指でなぞっても、その絵からは何も感じれなかった。
恋心なんて籠っていないように見えてしまう。描いているときは、あれだけこめていたのに。どうか届きますようにと、どうか一欠片でもいいから伝わりますようにと。
それなのに……。
「もしかしたら、初めからないのかもしれない」
こんなに心狂わせる想いも、泣きたくなるくらいいたい気持ちも、何もかも初めから自分は持ち合わせていなかったのかもしれない。
それほど絵からはなにも伝わらないように見えた。絵にこめてしまえば、そこまで薄くなってしまった。
絵へ指を滑らせる。ずいぶん前に筆を滑らせたそれへ、今度は自分自身の指を当てる。筆の後をなぞるように動かせば、あの頃と何も変わらずにいる自分がいた。
「せ、ん――」
ぼろぼろと涙があふれた。
あれほど安定していた心があっけなく崩れていく。どれほど強がっても、やはり自分は弱くて、どうしようもない人間なんだ。考えただけでこんなに涙が出るんだから。
「せっ、せい」
涙があふれて、どうしようもなくなって、絵に涙がつかないように絵から離れた。
ベッドに倒れこみ、涙を止めようとして息を止めた。それでも次から次へと出てくる涙と嗚咽にたまらなくなり、ベッドに顔を押し付ける。
「明日はっ」
明日はもう、卒業式なのに。
卒業してしまったら、もう二人の間には何の関係もなくなってしまうのに。ただの他人になってしまうのに。
「あきらめ、られる……?」
涙を流しながら、それでも絵のほうへ視線を向けつつ問いかける。
あの人が纏うのは、タバコの少しだけ煙たい匂い。
あたしには似合わない、大人びた匂い。初めは絵が痛むし、健康に悪いしで大嫌いな臭いだった。その原因を作る先生も、少しだけ苦手だった。
なのにいつの間にか、少しでも香ると安心した。近くに来ればすぐ分かると、そう気づいたときから少しずつ好きになっていった。
わずかに香るだけでどきりとして、想いを自覚させられて、離してくれない匂いはあの人がこちらを見ているような気分にさせられる。
今では少しだけ好きだ。あの人がそばにいる気がする。
そう思いつつ手を伸ばした。絵のほうへ、届かないと知っていながら手を伸ばす。
目を閉じれば、描いたときのことが昨日のように思い出すことができる。まだ少し暑さを含んだ、それでも秋の気配を感じさせる季節だった。
あの人に似合う色はなんだろう。
そんなことを考えながら下書きをしていた。いつもみたいに手は勝手に動いてくれないから、何かを確かめるように慎重にペンを滑らせた。
初めて出会った化学準備室の様子を脳裏に思い描き、一つ一つ画面においていく。
あの人自身を描くとき、手が震えてしまったことはあの人には絶対に話せない。
髪を描けば、体育祭で走っていたことを思い出す。白衣を描いていれば、あのポケットから出てくるあめを思い出す。
手を描けば、授業中にチョークを持ったときや、ときどき頭に触れられた感触を思い出す。
何をしていても思い出してしまって、『自分はなんて溺れているんだろう』と思ったのだ。
自分は彼に思い出されるようなことを何一つしていないのに、自分は絵を描いてさえいても、彼のことを思い出す。
あの人に似合う色は、黒色。
秘密の色、触れてはいけない先生の色、彼の裏の気持ちの色、深い深い彼の本音の色。
青色。
外側の顔の色。さわやかな笑顔の色。体育祭で見せた、運動が大好きだという笑顔。クールで誰にも惑わされない色。
濃い紫――竜胆の色。
あのにやりとした、何かをたくらんでいるような顔。ときどき見せる、大人の笑顔。あたしを捕まえて離さない、彼の魅力。
どれも落ち着いた色合いを画面に置いたのだ。彼を思い出して選べば、必然的にそういう色ばかりになってしまった。深い、さわやかな青色には程遠い群青色を彼の周りに置いた。
群青の色がタバコの煙を混ざり合って、彼の周りをたゆう。あの人を捕まえて離さない、思い出の色。
「ねぇ、そろそろ」
そろそろ離してくれませんか?
「あなたのせいで、先生はあたし自身を見てくれないんですよ」
あたしを見ているようで、いつもいつも先生は傷つけてしまったあなたを見ているんですよ。
まるで罪滅ぼしのように、ときどきとても優しくなるんですよ。とても、つらいんです。代わりにさせられると。
せめてあの人が、一時でもいいからその思い出を忘れてしまえればいいのに。
そうすれば、もしかしたら、こちらを見てくれるかもしれない。そんな願いを込めて、あの人の足元へ飴玉を降らせた。
あの人が一歩を踏み出すことを邪魔しつつ、それでも思い出から逃げてほしくて一面に飴をおいた。甘い色、優しい色、少しだけ切なくて、それでもあきらめたくない色。
これはあたしとの思い出の色――桃色。
「藍華ーー。あんた午後から卒業式の練習でしょ? そろそろ出ないでいいのーー?」
階段下から春ねえの声が聞こえて慌てて時計を見る。そういえば制服に着替えたから、こんなことを考えてしまったのだ。そう言い訳しつつ、キャンバスを持って立ち上がった。
いつもより少しだけ小さめなのにして助かった。
「今から行くとこー」
「早くしなさい」
どたどたと慌しく階段を降り、ダイニングルームへ続く扉を開けてそこから顔をのぞかせた。
「春ねえ、と瑲さん」
「早くしなさい。遅れたらどうするの?」
「卒業式に寝坊しかけた俺らが言っても、説得力ないだろうなぁ」
姉とその彼氏がマグカップを持ちつつこちらを向いた。
瑲さんの発言を聞き、姉は眉を吊り上げるが、瑲さんはあくまで余裕の表情を崩すことはない。そんな仲睦まじい二人を見ているとうらやましくなった。
「瑲さん」
「ん? 藍華ちゃんが俺に用事なんて、珍しいな」
「どうしたの? 藍華」
ここで覚悟を決められたら、あたしはあの人をあきらめる第一歩を踏み出せるかもしれない。
「あのね」
それでも、こういうことがいいことなのか悪いことなのか分からず躊躇する。気分を害してしまわないだろうか。
「あたしの、初恋は、瑲さんだから!!」
瑲さんの驚いた顔が目に入る。ついで姉に視線を向けると、こちらも驚いたような顔をしていた。
「な、どうした? 急に」
「びっくりした……」
二人が同時に口に出すので、小さく笑いが出た。それから言い訳のように口を開く。
「初恋はかなわないから、願掛けみたいな」
それでも望みを捨てられない自分がいるんだ。もしかしたら、と思ってしまう自分がいるんだ。
「あ、そう」
「何言われるのかと思ってびっくりしたよ」
「ううん、勝手に言いたかっただけだから。言ったらすっきりすると思って」
そういうと、姉が笑って席を立った。
そしてこちらへ向かってきて、ぎゅっとあたしを抱きしめる。まるで何かを分け与えようとするかのような抱擁に、油断していた自分は涙が出そうになった。
「瑲を初恋にして、あんたは誰を手に入れたいのよっ」
それでも姉に比べたらまだましで、姉はすでに泣いていた。
あたしよりちょっとだけ小さいその体を抱きしめ返して、笑う。大丈夫だよというには、信用が少し足りないから。
「あたしの諦めが悪いだけだよ」
姉がこちらを向いて、それからくっと目に力を入れた。
「明日、わたしも、朔華ちゃんも一緒だからね! 自分が思うとおりにやるんだよ」
「思うとおりにって言ったって……」
「最終的に、それがいいかどうかなんて、十年後くらいに分かるんだから」
姉の言っていることがいまいち分からなかったが、とりあえず頷いておく。そうすると姉は満足したように『よし』といい、あたしの背中を押して玄関までついてきた。
「瑲さんっ。混乱させてたらごめんなさい」
最後にこれだけは言わなくてはいけないと思い、後ろを向いて言った。
「別にいいよ。ちょっと照れたけど」
「そうよねー。わたしより可愛くって性格もよくって、女の子らしい藍華に告白されたほうが、気分いいわよねー」
姉の言葉に『からかうなよ』と返す瑲さんを見ても、もう何も思わなかった。
ただただ、二人がこのまま幸せであればいいと思う。二人が出会って、離れて、再会して……。それをすべて『幸せ』と呼ぶにはまだ早いと知っているけれど。
「あたし、ずーっと二人が大好きだよ」
「ありがと」
姉が本当にうれしそうに笑うから、瑲さんもやわらかくこちらに微笑むから、ほんの少しだけ気分が軽くなって、玄関から出た。
まだ三月に入ったばかり。ようやく暖かくなり始めたけれど、それでもまだまだ上着を着ようか迷ってしまうくらい寒い。
そんな時期だけど、昼間近くなので暖かいので、元気よく外へ出た。太陽がまぶしくて目を細める。
世界はこんなに色づいて、綺麗で、いとおしい。
恋をすれば世界は変わるというけれど、それは案外本当なのかもしれない。
前も十分色鮮やかだった世界が、恋をしてより一層艶が出た。自分の見ている世界が特別綺麗だと思ったことはないが、それでも綺麗だと思う。
誰もが、綺麗になったと感じると思った。
『お前の見る世界は、多分、俺が見てる世界より綺麗なんだろうな』
そう言われたとき、心の底から嬉しかったと、あなたは知っていますか?
ちょっと文章少な目です。
ただ、次話=卒業式の文章は長くなります。完結に見せかけて、続くのであと二、三話お付き合いくださいませ。