第二十八話 『心配色お守り』
ちょっと不安を煽ってしまう内容かもしれないので、センター前の方は回れ右。センター終わってから見てください。……とか言いつつ、書いてるとちょっと胃が痛くなる学年のいつきです。
「お姉ちゃん、どうしよう。明日だよ、明日」
「知ってるわよ。明日でしょ。センター」
金曜日。
怖くて怖くてたまらない。なのに机に向かっていても、何一つ頭に入ってこない。もうすぐなのに、明日なのに。勉強しなくちゃいけないのに。どうしよう、何もできなくなりそうで怖くなる。
「どうしよう……」
「どうもしなくてよろしい。自分のできることをしなさい。大丈夫よ。まぁ――ちょっと、いや、かなり疲れるけど」
姉がげっそりとした顔をした。秀才で通っていた姉にそこまで言わせるセンター。
長いのは知ってるし、模試とかでもやってるけど、やっぱり違うものなのだろうか、本番。どうしよう、いきなり問題分からなくなったら。
特に化学!! あたしの行きたい大学は理科二教科受けなければいけないのだ。
「失敗したらどうしよーー」
「すぐに菊池先生に連絡して、志望校変更、かな。うち、浪人させてあげられるほど、裕福じゃないし?」
「まぁまぁ、春ちゃん。藍ちゃんを脅さなくてもいいでしょ。春ちゃん、大丈夫だよー。お姉ちゃんたちが一緒に行ってあげる」
春ねえの言葉が妙に真剣だったので、思わず顔から血の気が引く。そのあたしの顔を見て、朔ねえが慌てて間に割って入った。隣で『妹脅すなよ』と瑲さんの声も入ってくる。
「どっちにしろ、やらなきゃいけないんだから。勉強できないくらい緊張してるんなら、散歩してきなさい。神社、行ってくれば?
気分転換にはなるし、合格祈願できるし、ちょうどいいでしょう。一時間くらい歩いてきなさいよ。ただし、風邪引いたら元も子もないんだから、マスクして、暖かくしなさい。カイロももって」
てきぱきと用意してくれる姉は本当に真ん中っ子なのだろうか。長女に見えて仕方がない。むしろお母さんの域だと思う。『私もー』とパタパタその後ろを付いていく長女を見ればなおさらだ。
「瑲さん」
「ん?」
「緊張、しました? 去年」
恐る恐る、聞いてみる。経験者がたくさんいるのだ。聞いてみる価値はあるだろう。
「あー」
瑲さんが、頭に手をやりながら、こちらを見てにこりと笑った。さわやかだが、何かを誤魔化そうとしているのが丸分かりだ。
「よく覚えてない」
「どうしてですか」
追い討ちをかけるように聞くと、瑲さんはまた照れたような笑顔を見せる。確かに可愛いが、こちらは真剣なのだ。
「春華と、喧嘩したまんま受けたから、実はそれどころじゃなかった」
「ノロケなら他でやってもらえませんか。あたし、真剣なんですけど」
無理やり聞いた自分を恨む。むしろ勘付けなかった自分の鈍感さに腹が立った。
この人たちはこういう人だった。そういえば去年、真っ青な顔をした瑲さんと妙にすっきりした顔をした姉がいたことを思い出す。
「まぁ、いろんな意味で疲れたよ」
「姉と喧嘩して試験なんてどうでもよくなったって、素直に言ってくださってもかまいませんよ。それで有名な学校に行っちゃう瑲さんだって、あたし知ってるし」
少し、意地悪な言い方をしてしまったが、こんな頭のあたしと違い、姉もこの人も優秀なのだ。それが恨めしくなって、ふいっとそっぽを向いてしまう。
それに気付き、瑲さんは慌てたように春ねえからマフラーを受け取った。
「藍華ちゃん。風邪引かないように、気をつけて」
ふわっと首に巻かれる。オレンジ色の少し派手めなマフラーに顔をうずめた。
少しだけ、心が高鳴ったのは事実だ。だけど明らかにあの人に感じるものとは違った。あぁ、これはもう恋ではないんだと思うと、素直に『ありがとう』と瑲さんに言えた。
「いってきます」
「「「いってらっしゃい」」」
この空間が気持ちいい。この空気が肌になじむ。
だから無理をして恋とか、愛とか言わなくてもいい気がする。別に、先生のことだって諦めてもいいと、一瞬だけ弱い自分が思った。
ふられても、自分には家族がいるんだ。保険をかけるような考えに嫌気が差しつつ、姉たちはきっと何も言わずに話を聞いてくれるだろうと思った。
まぁ、春ねえ限定で先生への報復が恐ろしいが。
「長い……」
階段を上りつつ、そう思った。
初詣ももうとっくに過ぎた今日、ここにいるのはあたしだけ。明日センターだから、あたしのような人がいるんではないだろうかと思っていたのに、期待外れだ。まぁ、多くいても人に酔うだけだからいいんだけど。
近所の小さい神社、初詣に訪れる人もそんなに多くはいないだろう。少し遠くに大きくて、有名な神社があるから、初詣にはそちらへいく人が多いのだ。
もちろん、うちも例に漏れず、先々週そっちへ行った。
「こんなに小さいのに、ちゃんとお守りとかあるんだよね」
絵馬やおみくじがたくさん目に入る。
鈴から垂れ下がっている紐を左右に揺らすと、重い音がガラガラと鳴った。思いっきり振らないと、なかなか音が出ず結局先にこちらが音をあげてそれを離した。
それからお賽銭を入れて……二十円入れておいた。
去年は十円を入れて、姉たちから『遠縁(十円)になったらどうするの?!』と言われてしまったからだ。意外だが、姉たちはそういうことに詳しい。
それから二礼してから手を合わせる。右を少しずらしてから打つなんて、去年初めて知った。それから『とりあえずいい結果が出ますように』と神様からしたら、あやふやなことこの上ない願いを心の中で呟き、最後にまた一礼。
それから慌てて思い出し『平田 藍華です』と名前を付け足した。
名前を言うと、願いが聞きとげられやすくなるらしい。去年姉が言っていた。(案外日本の神様って人間っぽいな、と思ったのは秘密だ)
しばらくそうしてからやっと顔を上げる。冷たい空気を肺一杯に吸い込むと、胸が痛んだが気にせず深呼吸を繰り返す。ちょっとだけ落ち着いた気がして帰ろうと振り返った。
「「あっ」」
声が重なるのと同時に、ああ、半年くらい前におんなじことをしたと思い出す。
あのときも互いに驚いたように見つめあったのだ。相手は煙草を吸っている現場を見つけられて。あたしは、教師の立場にある人が煙草を吸っている現場を見て。
お互い『まずい』と思ったのは事実だろう。
まさかこんな想いを抱えるようになろうとは、あのときのあたしは想像もしていなかったに違いない。いや、これから一年、関係が続くとも思っていなかった。
「菊池先生」
「平田……」
互いの名を呼ぶが、こちらの声は存外に小さかった。
きゅうっと喉が絞まったように声が出ない。苦しくなって、賽銭箱に手を付いた。それに比べ先生はただ単純に驚いているようだ。夕方の冷たい風にも負けない声がはっきりと響いた。
「どうした?」
「先生こそ、こんな人気のない神社に何のようですか」
神様、怒らないでください。これは売り言葉に買い言葉というやつです。
そう言い訳しつつ、こちらから近づこうとは思わない。ただ逃げ出すことも叶わず、その場に貼り付けられたように足が動かなかった。
「俺は、生徒たちの成功を祈ってお守りを買いに」
「――初詣、行くの面倒だから?」
「まぁ、人ごみが嫌いだから」
言い訳のようにそういって、くるりとお守りについている紐に指をとおり一回転させた。
どことなく信用してなさそうなので、飾りだろうと思う。それでも、生徒のためにそういうことをする彼は少し珍しく、『先生』だと思わせる。
「先生でも、こういうことをするんですね」
「一応、『先生』だからな」
苦笑いしつつそういう彼は、本当に本物の『先生』だ。自分とは違うものだと再度確認する。今更確認したって、何が変わるというわけでもないのに、そう思いつつ手を握った。
「平田は?」
「あたしは……」
一歩、足を踏み出す。が、思いの外緊張していたせいか、夕方で足元がはっきりしなかったせいか、つるりと足が滑る。そしてそのままその場へどすんと転がった。びっくりしすぎて声も出ない。
「平田っ?!」
先生の声が響き、やっと自分が転んだんだと分かった。肘とお尻が痛い。強かに打ったらしい。それよりも気になるのは。
「お前、大丈夫か。その、受験生が」
「転んだ、滑った、落ちた……。明日センターなのに」
あたしはもともと信心深い人間ではない。かと言って、占いその他もろもろを全く信じないわけではないのだ。むしろ『そうかも』と知らず知らずのうちに思ってしまう人間だ。
つまり、今回のも信じているわけで。
「しっ。失敗したらどうしよう……」
座り込んだままそう漏らす。
あたしらしくないと思いつつ、やはり不安に押しつぶされそうになった。こんなこと迷信だと、いつものあたしならわけもなく言い切れるだろうに、今回に限ってそんな言葉は口から出てこなかった。
「お前も、信じるんだな。そういうの」
「だっ、て。怖いじゃないですか!!」
すっと手を差し出される。先生の顔を見つめると、早く手を取れ、と顎を少し上げた。
大人しく手を取ると、危なげもなく引っ張りあげられる。腰を抜かすという暴挙はなく、ほっと息をついた。
「大丈夫だって。と、言っても安心しないんだよなぁ」
「当たり前です。人生決まっちゃいそうで怖いです」
先生が笑う。そして何かを思い出したように、自分の持っているお守りを差し出した。
「やろうか?」
「いいです。初詣のとき、買ったから」
違う神様のところのお守りを持つと、喧嘩してしまうらしい。ご利益がなくなっては大変だと、鞄につけられていたお守りを見せた。
お姉ちゃん二人が選んでくれた、真っ白くて小さなお守り。花が刺繍されていて、可愛らしかった。
「あー。そうか。なら、こっちだな」
先生がポケットを探る。よくよく見るとまだスーツだった。
いつも身につけているはずの白衣がないから、てっきり別の服だと思っていた。そしてそのポケットから手を出す。握ったままこちらに差し出すので、両手を上向きに出した。
ぽん、といつもどおりカラフルな包み紙が手に乗る。
「お守り」
「え?」
いつもと何も変わらない、何の変哲もないただのアメ。
それを差し出して、彼はにやりと笑った。いつもどおりの『菊池先生』の笑顔でこちらを向く。急にここは学校ではなく、二人っきりだという事実を思い出した。
思い出さなくてもいい事実を思い出し、少しだけ決まりが悪くなる。それでも、散歩に出かけてよかったと思ってしまうのも事実なのだ。まったく安上がりで、現金なたちだと思った。
「ご利益あるぞ」
「何でですか」
きゅっとアメを握る。融けてしまうんじゃないかと思うくらい、ぎゅっとぎゅっと強く握る。
「俺は優秀だったから」
「理由になってません」
それでも、笑えるのだ。彼のおかげで。少しだけ、不安から解放されてしまうのだ。馬鹿なくらい。
「大丈夫? 藍華」
「藍ちゃん、大丈夫だよ。頑張ってるんだから、大丈夫」
真っ青な二人の姉を目の前に、やはり自分も緊張しているんだと自覚する。
それでも鞄につけられたお守りを握り、にっこりと笑って見せた。昨日、先生にしたように頑張って笑顔を作る。
随分不恰好な出来だとは思うけど、自分にできるのはこれくらいしかないのだ。
「行って来ます」
「頑張って!」
「藍ちゃん、ファイト!!」
そしてお守りから手を離し、ポケットに手を入れる。
誰にも分からないように、その中にあるものを握った。頼りたくは、ない。彼に頼ってしまえばまた、あの重く苦しい想いに捕らわれてしまいそうになるから。
「食べちゃお」
ぴりっと少しだけ融けてしまって、包み紙から離れにくいアメをどうにか剥がし、口に放り込む。ゆっくり口の中で液体になっていくそれはいつもどおり甘くて、小さく笑ってしまった。
「大丈夫」
昨日、帰り際言われた言葉を思い出した。ひどくまじめに、彼はこちらを向いていったのだ。
『平田なら、大丈夫だ』と。優しく笑って、それからちょっとだけ眉を寄せて。でもこっちはその意味を図りかねた。
「あたしは、大丈夫」
だけど最後に、頼らせて。
やっぱり、不安に押しつぶされそうになるから。せめてこのアメが溶けるまで、あなたとの記憶に頼らせてください。
そうすれば、弱くなりそうで、実はほんの少しだけ強くなれそうな気がするから。
少なくとも化学は、あなたの声を思い出して勇気が出るから。だからどうか、苦しいけど、辛いけど、あなたの声と黒板を滑っていく、実は優しい指先で描かれた式たちを思い出させて。
苦くなっていく口の中に涙が出そうになったが、両手を頬に打ち付けて正気に戻した。
「よし」
がりっとアメを噛んで、嚥下する。口の中に味が少し残ったが、気にしないまま歩き出す。空を見上げて、そこでようやく今日がよく晴れている日だと知った。
あと、四話……??
これ、本当にそんなもんで完結しそうですか。少し不安になってきた。