第二十七話 『潤色警告』
「気、変わった?」
「何の?」
今日も、昨日のように、明日も、今日のように、こんな不毛な会話をするのだろうか。
知らないふりをして、気付かぬふりをして。見なかったふりをして、平気なふりをして。馬鹿らしくて、どうしようもない。
「俺と付き合う?」
「付き合わない」
振られちゃった、と彼は笑った。その顔の中に、隠しきれないわずかな悲しみが浮かぶ。
あ、傷つけてる。そう思うのに、取り繕う言葉が見つからなかった。自分でも、どう言えばいいのか分からない。
先生も、こんな気持ちだったのだろうか。
自分ではどうしようもない、だけど確かに人を傷つけるこの行為に、嫌気が差してしまったのだろうか。面倒だと、割り切ってしまうくらいに痛い思いをしたのだろうか。
「藍華が傷つくなんて、見たくないよ」
「あたしは」
負けるな、怖気づくな、下を向くな。
「あたしは……っ」
泣くな、縋るな、弱くなるな。
「菊池先生が、好き」
好きだ。好き。どうしても、諦めきれないくらい。どうしようもないくらい。
「だから?」
「先生が、こっちを……」
言いかけた言葉を止められた。目の前に大きなキャンバスが出される。行成くんが見えなくなる。急に不安になって、キャンバスをどかそうと手をかけた。
どうして、止めたりなんかしたの。少しでも口にすれば、この心にたまる想いを吐き出せると思ったのに。
「これ、見て」
行成くんがキャンバスにかけていた白い布を取る。一枚の絵が現われた。
今まで風景しか描かなかった彼が、初めてあたしに見せてくれたのは一人の少女の絵だった。重そうなスケッチブックを抱え、画面のほうを向いて微笑む彼女。
風の吹く中、一人でいる少女は、乱れている髪をもう一方の手でそれを押さえている。
画面の方向に誰がいるのか、と思うほど、その少女は柔らかく笑っていた。どこかはにかみつつ、それでも嬉しそうに目を細めるのだ。
その顔は……。よく見る自分の顔。
「初恋の人。藍華だよ」
そっけなく、彼は答えた。見つめられて一歩下がる。その瞳はいつも苦手だった。何も恐れない強さがある。
――真実を、恐れない人間の瞳だ。そこに何があろうと、受け止める目だ。
「画面の方向に、誰がいると思う?」
分かっている。彼が言いたいことなんて。一歩、また少年から離れた。
「先輩、分かる?」
「いつもみたいに、呼ばないんだね」
何かの言い訳のように話を変える。彼はそれに気付きつつも、その話に乗ってきたのだ。
「藍華だって、『先生』っていう記号でしか呼ばないから」
そういう代名詞で呼べば、少しは気持ちが抑えられるのかなって思って。
「でもダメ。何も変わらない」
そんなの、当たり前だよ。そういいたい自分を押さえつける。そんなことで、何か変わるなら、あたしはとっくに『先生』とも呼ばなかっただろう。
「藍華、名前、呼んでよ」
ポツリ、外で雨が降り出した。その雨音は一体、どちらの心を表しているのかひどく激しく、悲しかった。窓に当たるその音が大きくなり、どんな声を出したって外には漏れない気がした。
「行、成くん」
「うん」
彼がこちらへ手を伸ばす。それは今まで感じたものとは少し違う。いつものように、からかうような感じではない。そこに恋愛感情は含まれていないことを感じ、そのまま彼を抱きとめるように手を伸ばす。
しがみつくように、彼が力を入れた。すがり付いてくるような腕を、あたしは振り払えなかった。迷惑だとも、もう思えなくなっている。
ただ、同情と、恐怖と悲しみと……全てが入り混じって真っ黒になった感情が支配する。
「好きだ」
だけど、その口から出てくるのは、愛を告げる言葉。
「藍華が好きなんだ」
自分でも、どうしてか分からないけど、どうしようもなく、藍華が好きなんだ。切なく、痛々しく、彼はあたしに告げた。あたしは目を逸らさない。それが唯一できることなのだ。
「ありがとう」
「でも、この『好き』が届かないって知ってる」
だから一回だけ。
「弟みたいでもいい、後輩としてでもいい。……同情でもいい。カッコ悪いって知ってる。だけどっ。『大切だ』って言って。藍華、お願いだから」
それで諦められるから。藍華の好きな人が振り返らないように、藍かも俺を振り返らないって知ってるから。ちゃんと、自覚だけはしてるんだ。と、彼は笑っていった。
あたしよりずっと大人びた笑顔で、あたしよりずっと、痛々しいだろう笑顔だった。
「お願い」
「行成くん」
からからに渇いた喉が痛い。ここまで想ってくれる人の気持ちが痛い。だけど自分は、あの人じゃなきゃダメなんだと、改めて思った。
そしてあの人にもこれから、もしかしたらこんな思いをさせるのかもしれないと思った。
「行成くんは、大切な人だよ」
大好きな人だよ。
「こんなっ」
涙がこぼれて、今度はあたしが行成くんにしがみつく。
痛い、痛い、痛い。何もかもが痛くて、でもどこが痛いのかなんて明白には分からなくて、だからどこをどうすればいいのかも分からない。
ただ抱きしめて、抱きしめられていれば、少しでもそれが緩和できるんじゃないかと思った。これは恋じゃない。だけど、どうしようもなく、痛い気持ちではあった。
「こんなあたしをっ……きって。好きって言ってくれて、嬉しかった!」
だけど違うの。同じ大切じゃないの。同じ『好き』じゃないの。
「痛いの。辛いの。何度もイヤだって思う。だけど数分経つと、馬鹿みたいに全部忘れてまた好きになっちゃう。どんどんどんどん、止められなくなっちゃうの」
どうにもならないくらい、あの人が好きです。
「どうしてかな」
彼は笑った。静かに、優しく、穏やかにこちらを見て笑って見せた。どうにもならない悲しみなんか忘れてしまうくらい、にっこりと笑った。
こんな風に笑えれば、先生にも誤魔化しが利くんだろうか、と思ってしまう。
行成くんは涙の跡を拭うようにあたしの頬へ触れ、体を離した。どうしてこうややこしいのかな、と彼がまた笑う。
「どうして好きなだけなのに」
ただその人が好きで、仕草一つ一つで無闇に動揺して、馬鹿なくらい泣くんだろう。その人のことを考えるだけで、痛くなって無性に声が聞きたくなって、目でその人を探すんだろう。
「馬鹿らしいな。こんな感情」
なくなって、しまえばいいのに。
「そうだね」
消えたら、この涙は何に変わるのだろう。もしかしたら、行成くんが描いてくれたような、はにかむような笑顔に変わるだろうか。自分でも驚くくらい優しい笑顔になるんだろうか。
「藍華だって、そのうち泣くんだから」
「うん」
覚悟はできてる、なんて大人な台詞は言えない。きっととても泣くだろう。人目もはばからずに涙を流して、声を上げるだろう。耐えられなくなって、友人に泣きつくかもしれない。
「振り向いて、もらえなくてもいいんだよ」
うん、うん、そうだね。そうやって、彼は相槌を打つ。彼の感情もそういう類だった。叶えばいい。だけど、叶わないことは十分知ってるから、せめて自分の決心がつくまで想い続けたい。
「ただあと、数ヶ月好きでいたい」
せめて、卒業まで。それまでは。
「先生がこっちを見なくても、面倒だって思っても、せめてしっかり見ていようと思うよ」
それしかできないから。そう言ってしまえば簡単で、自己満足でしかないんだけど。先生にしてみれば、いい迷惑以外の何物でもないんだけど。
「この気持ちにだけは、嘘をつかないように。揺るがないようにすることは、あたしにもできるから。あと数ヶ月、この痛みに耐えられるくらい、できる気がするから」
「そっか」
なら、大丈夫だな。
「大丈夫だよ」
「じゃぁ、帰る。この絵、気に入ってるから次のコンクールに出すんだ。いい線行くと思わない?」
行成くんはなんでもないように言って、キャンバスへ白い布をかける。そしてもとあったのだろう位置へ戻し、またこちらを向いた。ゆっくりと近づいて、あたしの頭を一度、二度軽く叩いた。
「慰めるくらい、してあげるけど? 後輩として」
「すっごい、泣くかもね」
笑って、そして別れた。美術室に一人、取り残された。これ以上泣かない、と唇を引き結ぶ。そのとき後ろで扉が開く。行成くんが帰ってきたのかと振り向いた。
そして扉から入ってきた人と目が合う。くるりと、その人はこの教室の鍵を指で回してこちらを見た。鋭い瞳はそのままに、どこか楽しむような口元が目に入る。
「せん、せい」
「辛気臭い顔してんな、平田」
あぁ、この人には、多分わかってるんだな。だからこんなにわざとらしく、こちらへ話しかけるのだ。最近少し気遣うような話しかけたかだったのに。バレバレだよ、と小さく口の中でもらした。
「余計なお世話です。いつもどおりですー」
「そうか?」
「そうですよー」
でも少しだけ軽くなった気がする。でも少しだけ、重くなった気がする。それはどうしようもないことだけど。もう半分、諦めていることだけど。
「絵、描けたか?」
「まだまだです。まだ下書き段階ですよ」
少し、あれから少し、考えた。この人に渡す、絵の内容を。何を描いたら、この人は喜んでくれるんだろう、と。だけど結局そんなことは思いつかなくて、鉛筆を持ったまま考え込んでしまった。
「何かいて欲しいんですか? 大体」
「何でも」
「何でもじゃ、分かりません!」
そして一つだけ、案を思い出した。自分にしては随分と性格の悪い案だと思いつつ、現在その内容で下書きを進めていた。どうせこの人に聞いたって、答えは『何でも』に決まっているんだ。
「お前の絵が欲しいんだから、内容はいいんだよ。お前が書くんだから、何かしら意味はあるんだろうし。そういうことは、素人が口出しするもんじゃないだろう?」
「そんな、ことは」
こんなに信用している人に上げる絵。なのにあたしは、一番残酷な方法でこの気持ちを伝えようとしている。それが分かったが、今更止めようなどとも思えなかった。
先生に渡す絵。それは先生自身を描いた絵。
昔の、恋とも憧れとも、つかぬ感情にがんじがらめにされて動けぬ彼を。
いつまでも、そうやって自分の中に閉じこもっている彼を。恋は面倒だと、生徒なんて関係ないと割り切ってしまっている彼を。
「楽しみにしててください」
傷つけることを許して。だけど、それには決して恨みなんてこもってないから。ただこの気持ちを、ありったけの恋を、その絵に写し取るだけだから。
あなたが、大好きです。それを、伝えたいだけだから。卑怯で、幼い恋しかできないあたしを許してください。
もう、長々とすみません。あとグダグダで申し訳ない。今、一話目から書き直す準備をしておりますので、もう少しお待ちください。
残りあと五話になってきました。
あと五話でこんな悲恋チックなモノがはたして、ハッピーエンドで終わるのか。……私が知りたいです。
でも、先生目線をあんまり書いてないので、先生がどこら辺で藍華を見る目が変わるのか分かりませんね。
書き直しを行う際、その辺も考慮に入れようと思いますので、もしよかったら『何話目、先生どう思ってたのー』と聞いていただけると嬉しいです。
あと数ヶ月(もう決定)お付き合いください。