第二十六話 『曙色帰路』
「藍華ってさ、好きな人いるの?」
それは唐突な質問だった。
藍華は一瞬その意味することを図り取れずぽかんと口をあけ、それからかっと頬を熱くさせる。しかし藍華はそれを気にせず、行成に食ってかかった。
もちろん、頬は赤いまま。
「なっ、せめて先輩ってつけなさいっ。あとくだらないこと言わない。そんな暇があるなら描く」
いつの間にか後輩から名前で呼ばれている。
それさえももう、違和感の対象ではなくなっていた。それくらい、毎日会って、話して、笑っているということ。
……それだけ、あの人のことを考えずにいられるということ。それは楽だけれど、その後のことを考えると、楽だとばかり言っていられない。
考えないのは楽。だけど、その後はその前より菊池のことを考える。今日は来てなかった、明日はどうだろう、その次はどうだろう。そんな、くだらない考えばかり浮かぶ。
「だってさー。坂野先生が帰ってきたあたりから変だし」
ちょうど、菊池がお役ごめんになってここへ来ることが少なくなったときのことだ。
「そんなことない」
「そうかな」
「そうだよ」
敬語のつかない会話が続き、藍華はため息を吐く。先輩の威厳はどこへやら、同級生とでも話しているような感覚だ。
自分が幼いせいか、相手が無駄に大人びているせいか分からないが、全くもっておかしく感じない。
顔に出ないうちに、と思ってスケッチブックを持って立ち上がる。もうすぐ顧問がここへ来る時間だった。
六時をいくらか過ぎた頃、外はもうとっぷりと日が暮れていて冬が近いことを示していた。曙色ももうちらりとしか見えない。
誤魔化したつもりだった、のに腕をつかまれる。
「思ったこと、言っていい?」
「……どうぞ?」
真剣な瞳に気圧される。拒否を許さない瞳に恐れをなして、腕を引いた。しかし力が強くて引き抜くことはできない。
「藍華は、好きな人、いるよね」
「そんなっ」
「だから、未だに何も出してないよね、今年。完成作品。俺思うんだけど――」
藍華の好きな人って。
「菊池先生?」
「っ!!」
表情が、勝手に変わった。先ほどとは比にならないくらいの紅さが藍華を染め上げる。体の心から何かに犯されたように、赤く、赤く染め上げていく。
誤魔化せばよかったのだ、とやってしまった後で気づく。
それでももう、どうしようもなくて、そこから逃げ出したくなった。ここまで顕著に反応しては、もう何を言ったって手遅れだと藍華自身分かっていた。
「やっぱり、ね。藍華は先生が好きだから、絵を描かない。違う? 他のものを描きたくならないんだ。あの人が、描きたくてたまらない」
でも覚えておいたほうがいい、そう言って、行成は笑う。
同情したような、慰めるような、愛おしささえ含んだ、そんな笑顔だった。笑ったまま、行成は言葉を紡ぐ。ゆっくりと、はっきりとその言葉を発した。
「あの人は絶対に振り向かない。何より面倒ごとが嫌いで、恋愛もしない」
どうやったってあの人の心は手に入らない。
「それくらい、分かってるんだろ? 藍華」
「分かって、る」
ずっと前から。
「じゃあさ。俺にしとかない?」
まるでなんでもないように提案してきた。慌てて視点をあわすとにっこりと笑われる。中性的な顔が、今は何故か『男の子』の顔だと思った。
「俺、藍華に憧れて絵を描き始めて、藍華に会いたくてこの学校に入ってきたんだ」
びくりと肩が震える。
再び手を引っ張るとあっけなく手を離された。藍華はその手を自分の胸へと引き寄せる。掴まれていた手首だけが、異様に熱い気がしていた。
「考えといて。忘れることはできないかもしれないけど、失恋の傷は舐めあえるんじゃない?」
俺は既に藍華に失恋してるんだし。
「変なこと、言わないでよ」
「俺は藍華の絵を見たときから、ずっと藍華のことを考えてたよ」
二年前からずっと。
「よく、考えてよ。藍華。事実、俺といたら、少し忘れてたでしょ」
はっきりと、言われた。核心を突かれた。
一番、言われたくないと思っていたことを、いとも簡単に見破られて、指摘された。自分の甘さを突きつけられて、『あんたの気持ちなんて、こんなもんだろう』と言われた気がした。
「そんなのっ」
「いいんじゃない、辛いことを忘れたいと思うのはごく自然の心理でしょ。誰も責めてないよ」
優しく、人を駄目にするような笑顔。甘やかして、ドロドロにするような笑顔。その笑顔から、逃げ出した。
「後輩からいきなり告白ねぇ。やるわね。その藍華と会って、数ヶ月後に呼び捨てし始めた後輩くん」
「笑い事じゃないし。他人事だと思って」
電話向こうで相手が笑う。
国を超えた電話だったが、今回は相手が電話代を持ってくれるらしい。『他に使い道ないから、お小遣い』と笑いながら電話をかけてきた友人の声はいつもどおり凛と響いた。
「他人事だもの」
「真紀―」
全くもって同情のかけらも無い声に、不満の声を上げる。
するとまた真紀はからからと笑った。一度気配が遠のいて近づいたので、受話器をどちらかの耳に移したのだと分かる。
「いいじゃない、言わせておけば。百回でも、二百回でも。それで藍華の気持ちが変わるわけでもないし」
「だけど」
「痛いところ突かれたからって、揺れてる?」
笑いを含みつつ、確実に今一番相談したいところを突かれた。
今日はよく核心を突いてくる人間と話す、と空を仰ぎそうになった。藍華は一度ため息を飲み込み、それから会話へと戻る。
「そうじゃないけどっ。多分、あたし自身が同情してるんだと思う。行成くんに。叶わないのは、あたしも同じで、思い続けてるのも、一緒だから」
真紀はふぅん、と意味深に相槌を打った。
あの美麗な顔が少しだけ歪んでいるのだろうと、簡単に想像がつく。いつだってこちらの想いや、苦しみを感じ取って、それでも決して簡単に答えをくれない。
そういう人だと思う。
「傷を舐めあって、少しでも救われたいのなら……、菊池先生を少しだけでも忘れていたいのなら、それもありだと思うわ。
あんたは菊池を忘れられる。あっちは好きな人が手に入る。悪い話じゃないわね」
わざとらしい、突き放し方だった。
「違うよ」
甘えたいという思いは、いつだってある。救われたいと、いつだって望んでいる。
だけどそれは叶ってしまえば多分、凄まじい喪失感に襲われるのだろうとも、また分かっているのだ。
だから諦められない、忘れ続けることなんてできない。藍華は小さく唇をかんだ後、自分に言い聞かせるように言った。
「あたしは、菊池先生が好きなの。だから、それを諦めてまで、救われたいと思わない。楽になりたいとか、思わない」
「そうね。菊池の気持ちはさておき、藍華の気持ちは確認しとかなくちゃね」
それがきっと、指針になるのよ。迷ったとき、そこに帰ればいつだって、行く道はおのずから見えてくるものだと、真紀は笑いながら語った。
何もかも知っているような話し方に少しだけ意趣返ししたくなる。
「真紀の方こそ、気持ちは指針になってるの?」
そっと向こうから苦笑いの含んだ薄笑いが返ってきた。
「私は、そうねぇ。指針、になってるといいわね。亮を想うこの気持ちが、少しでも自分の進む道にあれば、いいね。
でも反対にこうも思うのよ。――この想いは間違っていて、それに従って行く道を決めてしまった私は、間違った道に進んでいるんじゃないかって」
今更、この道を変えようなんて思えないけど。
指針はいつだって心にあるのよ、と笑う声が聞こえた。そしてそれに従って振り返る。少しだけ懐かしい、あの人が立っていた。
「平田、久しぶりだな」
「ですよね。坂野先生帰ってきてから、先生とあまりお会いしませんし」
普通に会話をして、普通に笑っている。
そこに恋愛感情を挟む余地などないとでも言うように。それに少しだけ胸を痛めて、それでもこの距離で話せることを嬉しいと感じる。
藍華は苦笑いを含んだ笑顔を引っ込め、教科書を握る手の力を強くした。教科書の厚さに指の付け根がチリリと焼けるように痛くなる。それが藍華の思いを自制させていた。
「あー、役目なくなったしな。鍵かけるの坂野先生だろ」
「はい。先生が帰ってこられたおかげで、一年生もよく出てます」
一瞬、脳裏に浮かんだ像を振り切る。今考えるべきなのはそれではないと言い聞かせた。
「西崗、お前が好きだからなぁ」
「あたしの人徳がなせる業ですね」
ふざけたような笑い合いが妙に痛くなった。
先生、『好き』って、それ本当なんですよ。彼、本当にあたしにそう言ったんですよ、そう言いたくなる気持ちを飲み込む。
「いやいや、人徳ある人間が名前、呼び捨てされないだろ。二つも年下に」
「フレンドリーなんですよ」
本音を悟られないように、ひたすら嘘の笑顔で話していた。
このことに、菊池は気づいていないだろうと、嘘の笑顔でまた思う。気付いて欲しいわけではない。それについて、問いただして欲しいわけではない。
何をしてほしいかなんて、自分でも分からない。分からないけど、何かを確実に求めていた。
「平田」
「はい?」
「何かあったか?」
「え……」
泣きたくなったのは、どうしてか、それさえも分からない。
「何で、ですか? 何かあったように見えます?」
「いや、ただ、なんつーか。今日の笑顔はいつものとは違うと思って」
「そうですかー?」
そんな微妙な変化に気付くぐらいなら、あたしの気持ちに気付いてよ。
それで迷惑だって、突き放して。それで先生自身も傷ついて。あたしが泣いた分だけ、先生も悩んで。
そうしたらきっと、あたしは泣いてあなたを嫌えるだろう。もしかしたら、泣いて縋るかもしれないけれど。それでも、今の状態よりはずっといい気がしてならなかった。
気付いて。気付かないで。
突き放して、突き放さないで。
迷惑だって言って 分かったって苦笑いで答えて。
こんなワガママ、どうやったらなくなるの。自分勝手なこの願いは、いったいどこへしまえば消えたように思えるの。
消えないことは分かってる。ならせめて、隠す方法くらい知っていたい。
もし気付いたら、先生はあたしにどんな顔を見せてくれる?
「いつもどおりですよ。今日も絵、描きますし」
「俺にくれる絵は?」
「何でそんなにほしいんですかー」
「記念に。有名になったら売ろうかと」
「最低だ」
「嘘だって。大切にする」
ならその絵に精一杯の恋心を込めて。
本編、あと六話……。頑張って書いたあとには、もれなく加筆修正が待っています。
しかも半端なく直す予定です。加筆修正というより、むしろ書き直しに近い気がしてきました。
と、いうことで、まだまだとろとろと進んでいきます。