第二十五話 『焦色追跡』
お待たせいたしました。あと十話くらいで、本編完結です。……先が見えない。
「こんにちは」
キャンパスに向かって座り、ぼーっと窓の外を見ていると後ろから声をかけられた。
はっとして慌てて振り向く。
つい最近、ここへ来たあの少年だった。藍華はばっと、席から立ち上がり、口を開く。
「あ、なた……」
「西崗 行成、よろしく。平田先輩」
にこり、と邪気のなさそうな笑顔が向けられた。
あまりに眩しくて、『はぁ、こちらこそ』としか返せない。”君、ここの新入部員?“とこの前聞けなかったことを聞こうと思ったのに。
「え、あたしの、名前……」
藍華がどこで、と聞こうとしたとき、再びドアが開き、もう一人人物が入ってきた。
「平田。こいつ、新入部員な。よろしく」
菊池が男の子を指し示すと、にしおか、と名乗ったその子は藍華にぺこりと一礼した。その動きに従い、真っ黒で艶やかそうな髪がさらりと揺れる。
「えっと。にしおか、くん。平田 藍華です。三年生で、一応部長やってます。よろしく」
そういえば、と藍華は呟いた。
自分以外の人間はみな幽霊部員なので、自分が一応部長をやっているのだった。そういう自覚がないので、部長と名乗るのには少々抵抗がある。
「で、坂野先生が顧問で、ここにいる菊池先生が副顧問。用具は適当に使っていいし、相当奇抜なものじゃなかったら、何描いてもいいよ。
あとは年に数回、何らかのコンクールに出すと、部活動としては認められてるから」
質問は、と振り向くと、またもや素敵な笑顔を向けられる。ぱっと見れば随分幼げな顔をしていると思ったが、よくよく見れば作りが少し中性的なだけだった。
笑顔のよく似合う、しかし多分、無表情であっても人目を引く顔立ちだ。その顔が藍華のほうを見て、口を開く。
「俺、去年のコンクールで先輩の絵を見て、それでここに入学したんで」
そのところ、よろしく。藍華先輩。
「えっ。それってどういう、って、名前で呼んでいいって誰が言ったの?!」
可愛らしい??
藍華は始めに思い浮かんでいた思いを打ち消した。
「え、ダメ?」
可愛いよね、先輩って。
その言葉を聞き、藍華は眩暈を覚えた。
このテンションには覚えがあった。長女の……朔華の彼氏殿のテンションだ。ありえないほど女慣れしていて、そして自分に自信がある。
自分の言葉で、女の子はみんなイチコロとか考えてるんなら、一発殴ってやる、と心のどこかが笑った。もちろん、これは智の第一印象であったりするのだが。
そしてそれを実行したのは藍華ではなく、春華であったのだが。そういえば、春ねえ、智さん殴ったんだっけ、とぐらぐらする頭で思う。
現実逃避に思えていけなかった。
「えっと。お世辞はいいから、とりあえず絵、描いてみたら? 中学生のころ、どこかに出展したりしたかな?」
とりあえず、さらりと聞き流すのが得策だと思った藍華は、話を変えつつ菊池を見た。
さすがに面を食らったらしく、ついで藍華に同情の視線を送ってくる。藍華はそれもさらりと見なかったように振舞った。
助けてくれなかったのは、どうしてですか、と聞く気にもならなかった。
この場合、傷つくのは明らかにこちらだと分かっているからだ。わざわざ分かっていることを、証明する必要はない。
「何度か応募した。見たことない? 『西崗 行成』。こういう字、書くんだけど」
そう言って、置いてある藍華のペンを持つと、机に書き付けた。柔らかそうな、達筆の字で『西崗 行成』と書かれる。その字に藍華は見覚えがあった。
と、いうよりも、よく覚えている名前だった。
「『西崗 行成』って星光中のっ?! あのっ。『星の屑』の?!」
「有名なのか?」
藍華の歓声に、菊池が不審そうな顔をした。
藍華は、自分の顔が知らず明るくなっていくのが分かる。字だけを見ていたために、今まであの名と、この後輩の名が一致していなかった。
その名を知らないなんて、と思いつつ、藍華は菊池に向かって話しはじめる。興奮していたのが、自分でも分かった。
「去年の、アレ。何て言ったっけ、すっごく大きなコンクールで審査員特別賞とったんですよ!! あたし、最優秀賞より好きだったんです」
「『南が丘 星空の呟き』っていうコンクールですよ。
あの絵は自分でも気に入ってるんです。俺はアレが好きですよ。『夕暮れは黄色』 二人の表情が見えないのに、仲がよさそうで……」
あんな色使いが出来るんなら、どんな絵を描いても楽しいだろうなぁ、と思って。
その笑顔がまた眩しくて、そして思いもかけず自分の絵が褒められて照れた。藍華は『ありがとう』と慣れない称賛に答えて、キャンパスに再び向かった。
「でも、先輩失格なことに、今現在、何も描けないんだよね」
「どうして?」
「どうしてって、どうしてか分からないけど」
ふぅん、と少しだけ興味がなさそうに行成は頷き、次いで藍華のほうを見てにやりと笑った。
「まぁ、俺は絵が好きで藍華先輩のいるここへ来たけど、これからは先輩自身も見たいから」
よろしく、っていうよりも、覚悟してて。
どきりとした、なんて、きっと勘違いだろうと思う。その笑顔が随分と魅力的で、びっくりしただけだ。こんな表情を出す人が描きたいなと、本当に久しぶりに思った。
そして心の中で笑う。理由は分かっていた。菊池に、似ているのだ。不敵そうな笑顔とか、人を翻弄させる言葉とか、そして何より接し方が。
西崗くんの方が、少し馴れ馴れしいかなと思いながら。
それからだ。
一人でやっていた部活動が、一人でやる部活動でなくなった。大抵の場合、一年生の方は授業するが少ないので、行成に越されている。
よくて同時、いつもは迎えられる。
そんななれない関係が続いた。
「あぁー。また」
「こんにちは、先輩」
SHRが終わると同時に走ってきたのに、そこにはもう彼がいた。既にクロッキー帳を出し、なにやら描き込んでいる。鞄も机に置かれていて、長い間そうしているのが分かった。
「いつ、来たの?」
「今日は五時間目まででしたから、一時間くらい前ですかね」
がくり、と扉を開けた瞬間肩を落とした藍華を見て、行成は小さく笑う。勝ち誇ったような顔は生意気そうで、思わずその頬を横へ思いっきり伸ばしたくなった。
「可愛くない」
「ご勝手に」
しかも口調も可愛くない、と藍華は行成を睨んだ。
「藍華先輩」
「んー??」
自分の鞄をいつもの定位置――前から二番目の一番窓側――へ置き、藍華は部室からスケッチブックを取り出した。
自分にはクロッキーなどというものは似合わない、と藍華は思う。
そもそも早く描くのが嫌なのだ。的確に、素早く、そんなことは時間をかけて描く自分にはできないのだ。
「藍華先輩―」
「何」
いつの間にか、名前で呼ぶことも許している。と、いうよりも、注意しても直さないので、放置しているといったほうが正しい。いちいち言うのが面倒になっただけだ。
藍華はスケッチブックのページをめくり、何も描かれていない白い画面を見つめる。
相変わらず、きちんと描くことはできない。しかしスケッチ程度ならできるようになった。描きたいものではなく、目に付いたものを描くように心がけている。
たとえば空。たとえばグラウンドの生徒、窓から見える町の風景、校舎、部室の備品。それから目の端に止まるアメの包み紙。
「先輩はさー。何で絵を描こうと思ったの?」
「お姉ちゃんたちに持ち上げられて、誤解したまま育ったから」
「はぁ?」
自分から聞いておいたくせに、と藍華はスケッチブックから顔を上げて行成を見た。
びっくりしたような顔をして、行成は藍華の方を見る。思わず噴出しかけて止めておいた。
「小さい頃に絵を描いて、お姉ちゃん二人にめちゃくちゃ褒められて、『あたしってうまいんだ』って勘違いして、今に至る、と」
なんでもないように言ってから、小さく自嘲気味に笑った。今思えば馬鹿らしいが、それが始まりだった。
「行成くんは?」
「俺? 俺は、人の絵を見て、こんな色使えるんなら、描いてみたいなって思って描き始めた。
だから、そうだな。その人は俺の存在意義みたいになってる。描くっていう行為自体、その人への憧れだから」
ちょっとロマンチックじゃない?
そういう目の前の少年を、藍華は眩しそうに見つめた。そんな始まり方が羨ましい。自分はそんなことなかったから。そう思いつつ、再びスケッチブックに目を移す。
そういえば、菊池に絵を描いてほしいと頼まれたな、と思い出した。
思い出すと、口の中が少しだけ甘くなる。
いつももらうアメの味を思い出した。砂糖の塊のような、甘いだけの味。自分を甘やかしてしまいそうになる味だと、いつだったか思った。
どんな絵を描こうか、今はそう思うだけで満足だった。構成も何も考えていない。しかし今は春だし、卒業までまだある。じっくり考えようと自分に言い聞かせた。
どんな色を使おうか。
どんなものを描こうか。
どんな思いを込めようか。
少しでも、この心を混ぜてしまったらばれるだろうか。いらないと、言われてしまうだろうか。
あの人は鋭いから。何でも見通してしまうから。
「その人ね、って――先輩聞いてないでしょ」
「え、あ、ごめん。何か描こうか迷ってた」
嘘を、ついたのかもしれない。絵ではなく、考えていたのはあの人のこと。あの人の心のこと。どうすれば、いいのかということを、ぐるぐると考えていた。答えなど出るはずがないのに。
「先輩って絵のことしか考えてないの? この前は描けないとかいってたくせに」
「スランプもどきだったの。今は少しだけ描けるようになった。悪かったね、絵のことしか考えてなくて」
不満げにいうと、行成はにこりと笑う。少しだけ幼く見えて、もしかしたら菊池の学生時代はこんなふうだったのかもしれないと、見れないその時代を思い浮かべた。
「でも、好きだよ。そういう人。一つのことを一生懸命にやってる人は尊敬する」
「そう? お世辞として受け取っておくから。まぁ、嬉しいけど」
「嬉しいなら、それだけ言えばいいのに」
「余計なお世話」
少しだけ、軽くなるのだ。彼と話していると。
少しだけ、忘れていられるのだ。自分が誰に恋しているのかということを。自分がどれだけ、無謀なことをしているのかということを。
絵を描けるようになったのも、行成くんのおかげだ、と口の中で呟いた。菊池がいなくて、行成しかいないときなら、何かを描ける。息が吐けると言ったほうがいいかもしれない。
緊張もしない。何を描いても笑われない。その絵に何をこめようが、ただ小さく笑うだけだ。
「また考えてるでしょ。絵のこと」
「うん?」
「まぁ、絵のことだけじゃないのかもしれないけどね」
笑いを含みつつ言われたその言葉を、いつもどおり聞き流した。
もしかしたら、聞き流してはいけなかったのかもしれないと、後になって思う。そのときになって思い出す。ああ、あのときの言葉は、ここに繋がっていたのかと。
「そろそろ帰れよ、お前ら」
「わ、先生」
「えー、もうすですか」
それでも、このときは何も思わず、何も気づかず、仮初のような空間に身を任せていた。息が吐けると、ただそれだけで無邪気に喜んでいた。