第二十一話 『涙色告白』
「だから俺は、お前たちが嫌いなんだよ……」
途方にくれたような声が続いた。
「自己満足で、他人を傷つけて、それで被害者面してる」
「そんなっ」
少女が言い返そうと口を開き、それからその言葉は止まった。
「いいえ、そうです。私は自分が傷ついた分、あなたにも傷を残そうとしてます。そうしなくちゃ、先生の心には残らないって知ってるから」
寂しそうな声は、それだけで心を突いた。
「先生の心に、残りたいと思ったんです。想いが受け入れられないなら、せめて私の言葉が少しでも傷になればいい」
一生消えない、傷になればいい。そう言って、少女は静かに涙を流すのだろうか。
「最低だな」
「最低です」
何の言い訳もせず、少女は淡く笑ったようだった。顔を見たこともないのに、きれいな泣き笑いの表情がとっさに浮かんでしまう。藍華はそれをかき消すように頭を振った。
頭から追い出すように、耳を塞いだ。
「キレイに、失恋くらいさせてください」
けれど入ってきてしまったその声は、懇願するような声ではなかった。痛々しいほど弱いものでもなかった。どこか、きっぱりと同情はいらないとでも言っているかのような声だった。
「お前と、どうこうなるつもりもない。俺は教師だ」
だからこそ菊池も、最後は優しく言ったのだろう。最後の情けだとでも言うのだろうか。……それで少女が納得するはずもないのに。むしろそのことで少女は傷つくのに。
「先生、ありがとう」
初めて……少女は敬語を外した。少女は静かに、それ以上何も語らず、教室を出た。
菊池の顔が、見たくないと思ってしまった。それに気付き、藍華はうなだれる。――もう、あれだけ言い聞かせた言葉が無駄だと悟ってしまった。
『これは、恋じゃない』
そう言った言葉が、無駄だと。
「悪い……」
「いえ」
へたり込んだまま、帰ってこない藍華を心配してか菊池は画材置き場の扉を開けた。そこにいた少女は小さく肩を揺らし、菊池の言葉に返しただけ、それっきり何も行動をとろうとしない。
「平田?」
手を差し出すも、手を取ろうとしない。それどころか、菊池を見ることもなかった。そっと肩に手を乗せると、大げさなくらい肩が震える。それからゆっくりと顔を上げた。
「平田……」
もう一度名前を呼ぶ。涙で濡れた藍華の顔は、何年か前の生徒と重なった。彼女は決して泣かなかったのに、なのにその少女の泣き顔と藍華の顔が重なった。
「あっ――」
小さく、声が漏れる。何かに気がついたかのように目を見開き、そして再び涙を流した。一筋、涙がまた流れて、顎から一滴床に落ちた。
床に落ちた水滴はすっと広がり、そして小さな水溜りを作る。
「ごめっ、なさい」
ひくり、と小さくのどが動いた。搾り出すような、そんな声だった。
「お前が、謝ることじゃないだろ」
菊池の声を聞くたびに、藍華は肩を震わせる。そしてまた涙を流すのだ。痛々しく、弱々しい姿を見たのは、初めてだった。
何かにおびえるように、その何かから必死に自分を守るように、藍華は体を小さくしていた。
「平田……だい」
「大丈夫です」
菊池の話を遮るように、藍華は言った。そして涙をぬぐい立ち上がる。
「同情、しただけですよ」
言い訳するように、藍華はそう言っただけだった。その他は何も語らず、菊池を見て優しく微笑むだけだった。そしてカバンを手に取り、教室から出ようとした。
「今日は、帰ります」
菊池の方を見ずにそう言い、ドアに手をかけ横にスライドさせた。早くここから出て行ってしまいたかった。なのに。
「平田」
強い力で呼ばれた。それだけで、藍華の足は止まってしまう。まるで糸が切れたように、ピクリとも動きはしなかった。まるでさきほどの画材置き場の中のように、何もできなかった。
「どうした」
優しく聞かれる。ついさっき、冷たかった声が今はとても温かくて、それだけで涙が出そうになった。
この人は優しい人だ、と藍華は思う。いくらどんなふうに言おうと、結局は自分が傷ついている。
それでも、この人は――傷ついていないふりをする。
「痛かったです」
ぽつりと言葉が零れた。それから口火を切ったように次々と言葉が零れた。
「どうして、泣いているのか分からないんです。だけど、痛くて」
彼女の気持ちを全て理解したわけじゃない。そんな厚かましいこと言えない。だけどその片鱗を見て、妙に心が痛くなった。自覚した感情があふれて、涙になった。
「『恋』は……。受け止められない想いは、迷惑なだけですか?」
それならば、それは、その想いは。
なんて悲しいんだろう。
「先生にとってさっきの生徒は、迷惑なだけなんですか?」
彼女の思いも、純粋な気持ちの欠片も、まっすぐな視線も全て。
「迷惑だよ」
応えられない想いなんて、面倒以外の何物でもない。
菊池の声が、妙に心に突き刺さった。突き刺さって、取れなくなって、藍華の気持ちが毒に侵されたように弱っていく。
それが分かり、藍華は眉を寄せた。泣き出す寸前のようだった。やっと止まった涙が、また溢れ出してしまいそうだった。
『恋ってそんなもんだろう?』
随分と前に、そう言った菊池がいたのに。『初恋』だという自分に対して、『初恋はこれからするもんだ』とそう言った菊池がいたのに。それがとても遠くなった気がした。
『恋愛って、持つ感情の中で一番きれいなもんだろ?』
そう言ったあなたは、嘘を吐いたの?
「帰ります」
菊池が手を掴んだ。それを振り払って、藍華はもう一度同じ言葉を紡いだ。さきほどよりずっと強い声で、それでも泣きそうな顔はそのままに。
「帰ります」
帰って、ベッドに入って、寝て……明日、真紀に電話する。そうすればこの傷は癒えるんじゃないだろうか、そんなことを藍華は考えた。
「さようなら、先生」
痛みを押し殺して、笑った。
そうしなければ、泣き出して、菊池に言ってしまいそうだった。
『あたしはあなたが好きです』と。
「気付いたの?」
「かもしれない」
「はっきりしないわね」
電話向こうの人物は、小さく唸った。しかし次いで急に笑い出す。
「それにしてもねぇ〜。何もこんな日に自覚しなくたっていいのに」
自覚した途端のその言葉でしょ? 運悪いわね。
遠慮がない分、すっきりとした言い方だった。今日つけられた傷が小さくうずき、藍華は眉をそっと下げる。電話の相手はそれに気がついたように声を穏やかにした。
「多分、先生は気付いてないんだよ」
何に、だろうか。
「元生徒さんに、恋してたこと」
話してしまっていた。先生の過去を。いけないと分かっていたのに、他人の過去なんて安易にばらしてはいけないと知っていたのに、いつの間にか話していた。
そうすることで、救われようとしたのかもしれない。
「抱きしめたくなくても、キスしたくなくても、『恋』だったんじゃない?」
だから自分に嘘を吐いてる。『生徒に恋するはずない』って言い聞かせてる。
「先生って、意外に臆病者」
真紀が笑った。菊池を嘲笑するような笑い方だった。
「藍華が認めたんだから、いい加減、先生も認めればいいのに」
認めれば楽だって、言ってあげれば?
「できるわけないでしょ!」
「そうよね。他人の色事なんて首を突っ込まないのに限るわ」
そういいつつ、相談に乗ってくれるこの友人は、実はとってもお人よしなのだと気がついた。
「ねぇ、藍華。ソレ、後悔しないの?」
あなたの今もっているその想いは、後悔しない『好き』ですか?
「分かるわけないよ」
「……そうだったね。ごめん」
少しだけ、何かを呑み込むようにコクリとのどを鳴らし、藍華は言った。『自覚』が体中にめぐっていくのを感じる。
もともと予感していたものがすごいスピードで体になじんでいくのを感じた。
「少しは楽になった?」
「どうかな。自覚した途端、『迷惑』って言われたんだよ」
「それは、今日告白した生徒からの想いにでしょ。それは、少しは痛いかもしれないけど」
慰めるような響きは微塵もなく、ただ事実を言っているようにしか感じられなかった。そして不思議と、真紀にそう言われると納得してしまいそうになる自分がいる。
「多分、そういう想い全部が迷惑なんだと思う」
「分からないじゃない」
珍しく、真紀が言い返してきた。いつも相談しているときは話を黙って聞いてくれる真紀が、『違う』と反論してきた。
「その生徒からの想いが面倒だからって、藍華の想いも面倒になっちゃうわけ? それ、おかしいよ」
後悔したくないんなら、その気持ちを大切にすればいいじゃない。
「報われたから、後悔しないの? 付き合うようになったら、それは全部後悔しない恋なの?」
わたし、それは違うと思うよ。
「報われなくても、後悔しない恋はあると思う。反対に、付き合うようになっても後悔する恋はあると思う」
結局は藍華がどう思うかの問題でしょ?
「そう、だね」
でも報われない恋は痛いと思う。傷つくと思う。もう恋なんてしたくないと思ってしまうかもしれない。
「藍華を振るような節穴男は、藍華のほうから願い下げでしょ!」
そう言えるのは、美人である真紀だけだよ、とは言えなかった。
『先生、あたしは先生に恋をしました』