第二十話 『茶色チョコレート』
自覚と言うのは突然で、そしてそれは一気に胸を占める。
必然か偶然か、それは日本が恋色一色に染まる日にやってきた。……つまりはバレンタインデーに。
幸か不幸か、それはいつもの場所でやってきた。……つまりは美術室で。
「おはよー。藍華ちゃん」
「おはよう、詩織。元気だね」
二月、まだまだ防寒具が手放せない十四日。世間は、というか若い男女は浮かれている。隣にいる友人も例外ではなさそうだ、と藍華は隣を見つつ思った。
“藍華”という名前とは裏腹に、姉が藍華に買ってくるものは全てオレンジ色で統一されている。
家では朔華のものはピンク、春華のものはブルー、藍華のものはオレンジ、と決められているらしかった。
その例に漏れない淡い色のマフラーに顔を埋めつつ、藍華は白いと息を見つめた。
「詩織は誰にあげるの? チョコ」
「え、誰にもあげないよ」
きょとん、と首を傾げる詩織を見て、藍華も首を傾げ返した。
「日下部くんには?」
「駿くん? ああ、でも彼興味なさそうだから。こういう行事」
逆に、義理なのに気を遣わせちゃいそうだから。そう言って詩織は苦笑いする。それを見て、藍華は再び首をかしげた。この友人、随分と日下部駿介のことを気に入っていたのに、どうしたのだろうか、と。
「何かあった?」
わずかに躊躇した後そう聞くと、詩織は小さく目を見開いた後首を振った。何かを隠しているようにも感じたが、藍華はそれ以上追求せず、『そう』とだけ返す。
「藍華ちゃん、時々人の心が読めてるんじゃないかと思っちゃうよ」
それでも詩織はどうしてか、話を続けた。詩織の発言に一瞬だけ振るえ、藍華は『読めるわけないよ』と返す。なんとなく、分かってしまうことならある。だけど『読める』といえるほど完璧なものじゃない。
「駿くんね。好きな人がいるんだけど、『好き』って言えないんだって」
始めからね、そう言われてたから恋なんてしなかったんだよ。
藍華の疑問を読み取ったように、詩織は言う。『詩織のほうが心読めてるみたい』と言い返すと、『藍華ちゃんが珍しく表情に出したからだよ』と笑われた。
「その『好き』っていえない理由は聞いてないんだけど、告白する勇気が出ない、みたいな悩みじゃなさそうなんだよね」
だから、わたしは駿くんの相談役だよ。
「それにわたし、親戚のお兄さんが初恋の人っていうくらい年上好きだし」
にこっと笑った笑顔からは何も分からなかった。そう、何も。誰だって、いつだってある感情の色は何も感じられず、何も感じさせないようにしているのが分かってしまった。
だから藍華は何も聞かず、全く違う問いを口にした。
「五歳くらい上がいいの?」
「もっとかな?」
笑いながら登校する。それはいつもどおりで、それは普通どおりだった。
甘い香りは苦手。同級生の女の子たちが浮き足立って、ソワソワしているのを見るのは嫌いではないけれど。
しかし赤く染まる頬も、きれいにラッピングされたチョコレートも、甘い香りも、それに続く言葉も、自分には不相応な感じがして苦手だった。
自分には関係ないと知ってしまっているから。どうしてもそれに賛同しようとは思えなくなってしまう。
その瞬間までいつもどおりで、何の変わりもなく、その瞬間まで明日もまたこういう一日なのだ、と信じていた。
だって、そうだと信じて疑わなかったから。自分には縁のないものだと、自分とは関係のないものだと思っていたから。だからその瞬間まで、いつもと変わらない今日だと信じていた。
「先生、タバコ、吸わないんですね」
「教室で吸ったら、こもるだろ、煙」
寒いために閉めている窓を見つめつつ、菊池は面倒くさそうに答える。冬の間滅多に吸わなかったのはそのせいなのか、と妙に納得して藍華は頷いた。
確かに冬の間は吸っている姿を見ていない。というか、多分、一回も吸っていない気がする。
「それに……絵が傷む」
付け加えるかのように言われたその言葉を聞く。タバコの煙は絵にとって大敵だ、と随分前に言ったのを思い出し、藍華は思わず微笑んだ。
「覚えてらしたんですか」
「お前よりは記憶能力上だからな」
にやり、といつもどおりの笑みで返されて、藍華はむっと眉を寄せた。こちらとしては褒めているつもりだったのに、皮肉にでも受け取ったのだろうか、と邪推する。
そう思いつつも、人物を塗り上げてしまった絵を見つめた。
一人の少女が夜空に右手を上げている絵だった。少女の手から零れるように星が煌いている。
月の明るい夜、少女は何を思い、夜空に手を伸ばすのか……それは藍華にも分からない。しかし少女が伸ばした手の先には、唯一動かない北極星がある。
何千年かに一度、それでも変わってしまう北極星。現在の北極星はポラリスと言う名前だった、と藍華は思い出す。
いつだったか、北斗七星について話してもらった。自分の名前にちなんで、ということらしい。こぐま座の中で最も明るい星であり、北斗七星の先にある北極星は天の北極に一番近い星。
なぜだかこの絵を描くときに、思い出したのはその星だった。
人物を塗り上げた後は背景を塗るのだが、これはよく乾かさないとできないので今日は無理だ、と結論付ける。その代わり、新しいものでも描き始めようかなどと思ってしまう。
よいしょ、と腰を上げ、画材置き場に足を向けた。
「ちょっと、奥に入ってますね」
そう声だけをかけると、菊池は分かったのか分からないのかひらりと手を翻すだけだった。
「さて……」
ぐるり、と見渡すとこれから使うかどうかも分からないガラクタ……と言って差し支えない程度のものが溢れ返っているのが見て取れる。先生が帰ってくるまで片付けたら驚くかなぁ、と独り言のように呟き、奥へと入っていく。
照明が少し暗く、両脇の棚一面に並べられた画材が光を覆い隠してしまう。画材に気を遣ってかいつもカーテンが閉められているそこはいつも居心地がいいとは言えない場所だった。
煙るような、籠もるような絵の具の匂い。そして木の匂い。
藍華はそれが嫌いではなく、むしろ落ち着くものだと思っている。そんな中、どんどん足を進め、ついには突き当りまで来てしまった。
そして目当てのものを見つけて、それを手に取った。他のものより小さいのを取り、くるりと画材置き場の出口へと向かう。
そして扉に手をかけた。そこまでは……いつもどおりだった。その最後の瞬間でさえ、いつもと変わらなかった。
「先生、好きです」
そう聞く瞬間までは、何一つとして代わり映えのしない毎日だった。
扉にかけた手をそっと聞く。早く、聞こえない場所まで下がらなければいけないと自覚はしているのに、何故か足は動かなかった。指一本も動かず、画材を持ったまま固まった。
まるで何かに固められたかのように、動かないからだが酷くもどかしくなった。
「好きです」
もう一度、同じ言葉が繰り返される。去年の文化祭の人だ、とすぐさま思い出した自分に若干の驚きを向けた。
どうしてその人の声を覚えていたのだろうか、と自問自答するも自分でも何故だか分からない。
「先生、私は」
「俺は教師だ」
随分と、冷たい声が聞こえた。
一瞬誰の声か分からないほど、いつもの声と違っていた。いつもはもっと落ち着いた、少しだけ甘い声だ。思わず聞き入ってしまうほど、優しい声をするときだってある。
なのに何故か、今の声は冷え冷えとしていて冷たかった。少しだけ恐怖を感じてしまいそうになるくらい、冷たくて、そして泣き出しそうになるくらい不機嫌な声だった。
「俺は生徒と恋愛ごっこするつもりじゃないんでね」
皮肉の混じるその言葉は、本性のように感じられる。先生は悔やんでいるのだろうか、と唐突に疑問が浮かんでくる。あいまいな態度が何年か前の生徒を傷つけたのなら、そうなのだろうと思う。
だからもう、あいまいな態度をやめたのだと藍華は思った。
「恋愛、ごっこをするために先生に言ったのわけではありません」
それでも生徒は頑なに言い張った。敬語は崩さぬまま、見えないけれど、多分まっすぐな視線を菊池に向けたまま。
「私は、先生とどうこうなりたくてこんなことを言ってるわけではありません」
それは、いっそ痛々しいくらいまっすぐで、キレイな気持ちの欠片。崩さないまっすぐな姿勢は彼女の決意の現れであるように藍華は感じた。
立ち去らなくてはいけない、これ以上聞いてはいけない。
そう思っているのに依然として足は動かないままだった。
「私は、気持ちを受け取ってほし……」
「受け取ってほしいわけでもないって?」
生徒の言葉をさえぎって、菊池は再び言葉を紡いだ。先程と変わらない、冷たい声のままだった。優しさを見せることなく、つけこむ隙を与えることなく、ただただ言葉を紡ぐだけ。
「随分と勝手ないいわけだな。お前の想像通り、俺は気持ちを受け取らないし、同情もしない」
だけどな、と一瞬だけ声が揺らいだ。
「俺も人の子だ。罪悪感ぐらい感じるんだよ」
弱い声だったと思った。
今まで聞いたことがないくらい、弱い声だった。
「お前は満足だろう。俺に言ったし、それですっぱり諦められるかもしれない。卒業したら忘れるかもしれない。もう終わった恋だってすっきりするかもしれない」
だけど、それじゃあ、俺はどうなる?
「俺はお前を傷つけたことを覚えとかなくちゃいけない。お前の泣きそうな顔を覚えとかなくちゃいけない。それで俺はどうする?」
お前の自己満足につき合わされる俺はどうなる?
「俺は絶対に、もう少し言い方があったんじゃないだろうか、とか、どうしたら傷つけずにすんだんだろうか、って思い続けなくちゃいけない」
この人は、少し優しすぎるんだな、と藍華は思った。いつの間にか足の力は抜け、画材を持ったままその場にへたり込んでいた。そして知らないうちに、涙を流していた。
どちらにとっての涙か分からない。
叶わぬ恋を持った少女への同情の涙かもしれない。
記憶に苦悩する菊池への同情の涙かもしれない。
だけど分かることは一つだけ。
どうしてこんなにも人は悲しい思いを抱えていくのか、という疑問だけ。