第十九話 『オレンジ色携帯』
週五日しか会えなくて、長期休暇なんて……こうしてみれば本当に多くて。どこまでもあたしは学生なんだと思い知らされた。
そしてあの人は、先生なんだと思い知らされた。当たり前のことを、突きつけられた。
「で、何かに気がついた、と」
電話の向こうでは、大人っぽい口調の声が流れた。国際電話が高いことを百も承知でかけている。
冬休みに入った。時間があっという間に過ぎていってしまう。
少しだけ気まずくなればすぐに休みに入って、そして休みが明けたら、休み前自分が何を思っていたのか分からなくなってしまう。
「藍華は少し、鈍感なんじゃない?」
電話をしているうちに『平田さん』から『藍華』へと名前の呼び方が変わってきた。
それと同時に、大人っぽく滅多なことでは動じなさそうな黒田真紀が意外に打たれ弱いということを知った。
「真紀に言われたくない」
藍華が小さく電話の向こうの人物に抗議すると、『確かに』と返ってくる。真紀は小さく笑い、話題を元へ戻した。
電話をすればするほど、賢い人間だということが分かった。人の心を読むのが上手いんだろう。そして自分と違い、それを相手へあまり分からせない。藍華はそれを少しだけ羨ましく感じる。
「藍華はさあ。多分、初恋の負い目があるからだよ。……初恋じゃなかった、ごめん」
『初恋』と言って、慌てて訂正する。蒼也への気持ちのことは既に知らせていた。
「自分で、もう恋じゃないって思ってるわけでしょ? でも正直その感情、あやふやだと思うのよね」
そう言って真紀は続けた。菊池が『恋ではない』と言い切った感情を、真紀は『恋かもしれない』という。その言葉が、藍華を混乱させていた。
「藍華はそれが恋じゃないって思ってた? 違うよね。心の中で、恋だって思ってた。しかも、許されない恋」
それは恋か、恋じゃないか関係なく……藍華の感情を抑制してるんだよ。その記憶が。
「男の人への感情を、ある一定で抑制してる。恋じゃないって、言い聞かせてる。そんなふうに、私は感じるよ」
「そうか、なぁ」
不安そうに言う。まだ分からない。自分が持っている感情が、何なのか。
「智先輩に感じるのは?」
唐突な問いだった。
「信頼と、朔ねえを裏切ったら許さないっていう気持ち」
すっと答えが出てきた。
「日下部くん」
「信頼してて、勉強ができる憧れ。尊敬、かな」
これもまた、答えは出てきた。
「藤田蒼也先輩」
「優しくて、心配性で、春ねえが大好きで、いい人。本当のお兄ちゃんみたいな人」
少しだけ、迷わなかったといえば嘘になる。それでも、『お兄ちゃんみたいな人』には違いなかった。
「じゃぁ」
言い淀むように真紀が口ごもった。
「亮は?」
「真紀の思い人?」
聞き返すと、少しだけ間が空いて『大切には思ってるよ』と小さく返ってきた。受話器の向こう側で、静かに微笑んだことを感じる。
「怖そうだけど、かっこいい感じ。あと、真紀を見たときの笑顔がすごくいい」
描きたいくらい。そう言うと、『亮はダメよ。写真に写るときとかも眉を顰めるの』と笑われた。
「最後」
すっと、声がいつもよりずっと冷たくなった。冷静になったのだと、藍華は感じる。
「菊池先生」
菊池優斗さんを、あなたはどう思う?
「優しくて、意地が悪くて……不真面目なところがあったり、それでも生真面目だったり」
二年にも満たない思い出が、流れ出るように思い出された。初めて会ったときも、今もあまり変わらない。ただ分かっているのは、見た目よりもずっと優しいということ。
「生徒から人気のわりには地味な格好してて、『ちょっと冴えないよね』って言われたり」
メガネをして、そしてスーツも地味だ。
「絶対に告白できないように逃げ回ったり」
どうしてそんなに逃げるのか、少し分からないけれど。
「いつも、『口止めだ』って言ってアメくれたり」
何故か、唐突に涙がこぼれた。声が、揺れた。直そうとするのに叶わず、涙声になった。
「失恋話したときの顔が……」
すごく痛そうで。
「この人は恋をすることを諦めていそうな人だと思った」
「それで、最終的にその気持ち全部をひっくるめると?」
促すような声は抗いがたい響きを持つ。何かをいざなうような、声だった。
「藍華? もう、出てるよ。答え。後はね、それを認めるだけ」
それが一番、難しい。それは私も分かってるよ。
「私もまだ、認められていないよ」
答えは出ている。出そうと思えば、今すぐにでも出せる。
だけど出したくないから、心の中に収めたままにしている。いつか出そうと思っているけど、それがいつか、なんて分からない。
分からないから、見ないふりを続けてしまう。
まだ分からない、と思う。
「早く、認めちゃえば……きっと楽なんだろうね」
だけど認めちゃえば、色んなものが変わってしまうから。たくさんのものが、めまぐるしく色を持って回りだしてしまうから。
だから、その覚悟を決めないと自覚なんかできないと思ってしまう。
「でも、私心の中で分かってる」
真紀の声がわずかに震えた。何かを思い出すように、小さく小さく震えた。藍華は何も言わずに、その言葉を待つ。それしかできないと分かっていた。
「多分、私と藍華の中にある感情は、認める認めない――じゃないんだよね」
それはもう心の中にあって。なかなか捨てられるものじゃなくて、表に出すのはとても簡単で。むしろ隠すほうが難しい。
いつの間にかあふれていて、止めようがないくらい増え続ける。それは涙にもなるし、言葉にもなるし、行動にもなる。
「難しいね」
ただその人を大切に思うだけじゃダメなんだもんね。
「難しいね……」
同じことを繰り返して、真紀は黙った。何も言えなくなったようだった。
「真紀」
静かに呼びかけると、真紀は返事をした。
「大丈夫」
大丈夫だよ。
「だって、私も藍華も――ちゃんと分かってる」
分かってるから、逆に苦しくなるんだけれど。
「分かってるからこそ、大丈夫だって言いたい」
私にも、藍華にも、もう少しだけ時間が必要だね。よく考えて、よく言い聞かせて……それで出た答えならば。きっと。
「きっと正しい答えだよね。誰に何を言われても、私たちにとっては」
他の誰が『間違いだ』と言っても、それは『正しい』。
「そういう、ものでしょ?」
私と藍華が持ってる感情なんて。
「他人にとやかく言われるものじゃないでしょ?」
むしろ他人に何か言われたら、不快に思うよ。少なくとも私はね。
「真紀は強いよ」
「藍華も強い」
強いと他人に分かるぐらい、強くあろうと振舞っている。だから。
「藍華は弱いよ」
「真紀も弱い」
強さは目に見えるものではないから。きっと目に見える強さを持つあたしたちは弱いのだろう。
「藍華。もし……もしも、本当にそうなら」
あなたが本当に、菊池先生のことを想っているなら。
「私より、辛い思いをするのかもしれないね」
おやすみ。
真紀はそう言って電話を切った。
ツーと音のする携帯電話を持ったまま、藍華はじっと携帯を見つめていた。いくつかのボタンをいじれば『菊池先生』と書かれた電話帳の一件に行き着く。
ボタンを一つ押せば、電話は繋がってしまう。自分の意思に関係なく、繋がってしまう。
こんなに薄い、生徒と先生の関係なのに。繋がりは確かにあって、余計落ち込んだ。こんなにまでも薄くて、今にも切れそうな繋がり。
そして理由がなければその繋がりにすがることさえ許されない。
藍華はごろりとベッドへ寝転がる。そして携帯を投げ出した。オレンジ色の携帯が月明かりを反射してキラリ、と小さく光る。その光がわずかに目にしみて、藍華は目を閉じた。
「目を瞑っても……消えない」
その光が目を瞑っても侵入して、瞼裏をちかちかと照らす。その光から逃げるように藍華は寝返りを打った。
「バカみたい」
分かっているはずの感情から目をそむけるように、携帯に背を向けた。何も見えなくなってしまえばいいと、きつく目を瞑り続ける。そうすることでしか、その侵入を防げないというように。
「何であたしが」
そんな感情を持たなくちゃいけないの。
「そんな感情を持つには」
少し傷つきすぎちゃったよ。
もうそんなものに幻想なんて抱けなくなっちゃったよ。
「好きってだけじゃ」
いけないこともある。
「大切ってだけじゃ」
どうにもならないことがある。
唐突に、随分と前に春華が言っていた言葉を思い出した。
『諦めなきゃいけない恋』
それはいったい、どんな恋だろうとぼんやりと思った。藍華にはまだ分からない、諦めなければいけない恋と、そうでない恋。実る恋と、そうでない恋。幸せな恋と、そうでない恋。
何がどう違うから、そう言われるのかまるきり分からず、しかしそういう恋があるということだけは知っていた。初めから、そんなこと知らなければよかったのに。
「もしコレが恋なら」
もしもこの感情が恋だとしたら。
「恋なんて……」
恋なんて。
「しなければいいのに」
しないのが一番だと思ってしまう。
「しないのが一番幸せなのに」
なのにどうして、人は何百年何千年もの間、恋をし続けるのだろう。
「この感情は、恋っていうのには痛すぎて」
憧れというには甘すぎる。