第十八話 『飴色秋風』
「やってまいりました。体育祭。今年も皆さん頑張ってください!!」
行事恒例の……というか、もう慣れてしまった智の放送を聞きつつ、藍華はため息を吐いた。
お祭り人間だと思わずにはいられない、楽しそうな声は藍華の気分を寄り一層滅入らせた。自分がやる気がないときに、やる気がある人間の言葉を聞くとついつい反発したくなる。
文系人間、もとい室内大好き人間にとって体育祭は一種の拷問だ。秋という分類はあれど、まだ暑いこの日差しの中、何が楽しくてグラウンドに出なければいけないのか、と藍華は首を振る。
毎年この行事がある度に、体力が根こそぎ奪われていく気がする。実際そうなのだからやりきれない、と藍華はため息を吐いた。
先程から一切テントの中から動いていない。むしろ、動けない。強い日差しから逃げるようにタオルで顔を覆い、俯いていた。
「藍華ちゃん大丈夫?」
心配して聞いてくる詩織にも返事ができないほどに疲弊している。首を縦に振るだけにとどめておいた。
「暑い……」
「まだ九月下旬だしね」
苦笑いしながら詩織は言い、ペットボトルから水を飲む。
「それにしても、よく晴れてるね。ここ最近、雨ばっかりだったのに」
秋雨前線がまともに当たってしまったせいで、最近は雨続きだった。
「雨でつぶれればよかったのに」
中止はあるけれど、延期は無いのだ。一回中止になってしまえばそれで終わり。藍華はそれを望んでいた。
……文系人間はそうだろう、と思う。
「まぁまぁ。そんなこと言わずに」
駿くん、あれで結構運動神経いいんだね。
詩織が言うので、つられたように藍華もグラウンドに目を向けた。
「百メートル走、次、駿くんだよ」
見ればスタートラインにいた。
体操服をすっきりと着こなしていて、野暮ったい感じが見られない。隣にいる男子と笑いながら話しつつ、合図を待つ。
ここから見ると、なるほど、女子からの人気が高いことも頷ける。
「何か、場慣れしてる?」
「運動部だからね」
藍華の呟きに、詩織が答えた。
「さてさて、お手並み拝見。あんな人畜無害そうな人がどれだけ走るのか」
楽しみにしているのだろうということは分かるが、暑さに負けて再びうなだれる。じりじりと太陽の熱気が、テントをつきぬけ直接入ってくるようだ。
ちりちりと肌を焼かれている感覚は消えなかった。
「あっつー」
小さく声を出すと、いきなり後ろから声をかけられた。
「若い人間が、よくもまぁ……」
気に障る言い方だったので、動かない体を動かしてその人物へと向く。顔を上げれば、声から予想していた人物がそのままいた。
「菊池先生」
「平田、お前は今年で何歳だ」
からかい半分、呆れ半分、そんな視線で菊池は藍華を見ていた。
『パン』
そのときピストルの音が聞こえ、藍華は思わずそちらへと振り返った。
低い体勢からのスタート。そして加速しつつ、体を上げる。足の運びも、手の振り方もすごくスムーズで思わず見とれた。
『描きたい』
無意識のうちにそう感じてしまう。
「平田はまた自分の世界に入ってる」
気づけば百メートル走なんてとっくに終わっていて、日下部――駿介は一位の札を持って立っていた。
「描きたくなった?」
確信を秘められた問いに頷く。すると隣でかすかに笑われた気がした。
「すごく」
あの動きを描きたいと思った。人間とは思えないほどスムーズに、風を切る姿を描きたいと思った。
「お前、本当に絵のことしか考えてないな」
「そんなことないですよ」
現にこの夏は色々考えさせられました、と口には出さずに思う。
あのあと色々考えてみたけれど、やはり答えは出ず、そして誰にも相談できなかった。そもそも人にする質問ではないと思った。
自分の問題だ、と言い聞かせた。
「あたしにだって、色々考えるべきことはあったんです」
「へー」
にやり、と笑う。相変わらず、睨みつけたくなるような笑顔だった。そのくせ、とてつもない魅力がある笑顔だとも思う。
どこか人を惹きつける笑顔だった。
「先生、その笑顔は人が悪いです」
「もともとこんな顔」
その笑顔を崩さないまま、言う。こどもっぽい、というよりむしろ大人気ない顔だった。
「あ、……次職員対抗戦だった」
何のためにテントから出たんだ……。
菊池はそう呟いて、入場門に向かった。
しかし何かに気がついたのか、藍華の方を向くとまた人の悪そうな笑顔を浮かべる。ぞくり、と小さく震えた。
それが何から来るものなのか、藍華は分からない。ただ、本能が感じるまま『危険だ』と思った。
「日下部に負けないように頑張らないとな」
その言葉の真意を、藍華は知らない。本当の真意など、菊池さえ知らないのかもしれない。しかし藍華は何かを感じてか、かっと顔を赤らめた。
暑さのせいでもなく、日差しのせいでもなく……一人の言葉のせいで。
『位置について』
『ヨーイ』
『ドン』
一瞬一瞬が、とてもゆっくりに見える。掛け声に応じて低くする姿勢。よく響くピストルの音と同時に力強く動く足。
見とれていた、というのかもしれないと思った。
あんなふうに、いつも走るのだろうか。
藍華はふとそう思う。美術館へ行った日も、あんなふうに走っていたのだろうか。百メートルなどあっという間で少し惜しい気もした。
いつも見る白衣とスーツではない姿も珍しく、『一位』の旗を持って体育科の先生と話す姿も見慣れないものだった。
「描きたい、な」
自分でも気がつかず、藍華は呟いた。
そして言ってしまった自分に気がつき、とっさに口元を覆った。ぐっと体温が高くなっていくのを感じる。
『どうかしてる』
駿介を描きたいと思っていたときとは違うものが藍華にあった。しかしそれに目を向けないようにして、ただ『描きたい』という願望だけを見つめる。
『描きたい』
その純粋な思いに混じる、かすかな思いに気がつきそうで……しかしまだ気づかない、気づかないふりをする藍華。
「バカみたい」
自分の中に宿る感情を予想し、しかしそれがありえないと思い首を振った。自分の考えを否定するように、はっきりと口に出した。
「そんなことありえない」
だってそうなんだもの。
絶対にありえない。ない。そんなことない。
「ただ描きたかっただけ」
自分に言い聞かせるような言葉とは裏腹に、その頬はわずかに朱色に染まっていた。
「平田どうだった?」
「お年のわりには結構な早さでした」
それを隠すために、少しだけ意地の悪い返事をした。その返事に菊池は気分を害したのか、ぐいっとこちらへ顔を向ける。
「何だって?」
追い詰められている感覚――、気のせいではない。
「だから」
繰り返そうとした瞬間、ピン、と額をはじかれた。
「いたっ」
「性格の悪いヤツにはこれくらいしないとな」
少しだけ、バカにしたように笑った。藍華は自分の心が読まれているのではないだろうかという不安を押し殺した。
「先生、だってこの前はっ」
「お前は、この前二人で美術館へ行ったことをクラス中に知らしめたいのか」
この前は体力落ちたっていったじゃないですか!
そう反論しようと思って口を開いた藍華だったが、菊池の言葉を聞き慌てて口を閉じた。
「べ、別にばれたって」
「誤解ほど厄介なものは無いんだよ」
釘をさすように言い、眉を顰める。
そのとき、藍華の胸によぎったのは。
迷惑なんだ
その思いだけだった。単純なまでにそう思うだけだった。誤解されることが迷惑なんだと、思うだけだった。
悲しいとか、寂しいとか、そういう感情は微塵も無くただただ『あぁ、迷惑なんだな』とそう思うだけだった。そして、そう思うことによって、小さく心に傷がついた。
何のための傷か分からない。それがどう藍華に影響を及ぼすのかも分からない。
だけど傷ついたことは分かった。自分が傷ついたのだと、そういう自覚はあった。涙も出ない、苦しいという思いもない……ましてや胸を締め付けられる切なさもない。
そんなもの感じない。
そう、だから藍華はまた思うのだ。
この気持ちもまた、憧れなのだろうかと。ただの幻影に過ぎない感情なのかと。