第十七話 『空色言霊』
何とかして乗り切った中間が過ぎ、期末は思ったよりもあっけなく過ぎた。もちろん、赤点はない。
「先生! あたし、今年も赤点なんですけど!」
同じクラスである佳奈美は今年も赤点らしく、菊池に抗議している。
「そうかー、大変だな。でもお前の勉強見る俺はもっと大変だということを肝に銘じておけよ」
「補習なくせばいいんじゃないですか? これであたしも先生も大……」
「どの口が言ってるのか教えてもらおうか?」
にこり、と菊池の柔らかな笑みが佳奈美の発言をさえぎった。佳奈美はにこり、と引きつった笑みでそれを返すとすかさず回れ右をした。
「今年は黒田がいないから大変だなー」
「真紀がイギリスなんかに行っちゃうのがいけないんです」
ドアのところまで逃げてそれから、うーと佳奈美が唸り、眉を寄せた。黒田真紀は両親の都合で、外国に行ってしまったらしいと聞いたのは去年のことだった。
随分と驚いたものだったが、すぐに『あっちでの経験が役に立ったらいいと思う』という彼女の気持ちがほんの少し分かってしまった。
「一人ですか?」
「うん、真面目に勉強して赤点取ったのはお前だけだな」
去年のお仲間である平田は、今年余裕で赤点なしだった。
「えー、また仲間減ったんですか?!」
あたしの勉強方法のどこが間違ってると?! そう叫ぶ佳奈美の声が聞こえ、藍華は思わず噴出した。
「そうだな。お前の場合、その他の教科は悪くないんだから……」
多分、理解できてないのに練習問題とかするのが悪いんだろう。
「それで式の立て方が分からないから、式を丸暗記してさらに苦手意識……コレの繰り返しだな。悪循環もいいところだ。まずは理解して、それから公式の暗記。それでやっと計算の入る練習問題」
そうしないことには、点数取れないぞ。
「頑張ります……。悠くんも教えてくれるし」
「彼氏も大変だな。要領の悪いやつを彼女に持つと」
「先生、ひどっ」
その二人のやり取りを見つめつつ、藍華は胸の中にわだかまる何かを感じていた。その正体を掴むより早く、夏休みはやってきた。
随分と、藍華にとって長い夏休みが始まった。
去年から時々訪れる奇妙な感覚の正体を知ろうとするのに中々うまくいかない。それなのに夏休みが訪れた。
まるで『夏休みの間に考えなさい』と誰かに言われているみたい、と藍華は思った。宿題の山は見ないふりをして、今年受験の姉たちの邪魔をしないように二階では静かに過ごすことを心がける。しかしそれにも飽きて、下の階へと降りていく。
「あいちゃん、私、少し出るからお客さん来たらよろしくね」
行き先は彼氏の家である花屋だろう、と勝手に解釈し『いってらっしゃい』と見送った。
姉も、姉の彼氏もこの夏遊びっぱなし……というわけでもなく、姉の行っている大学に行きたいらしく姉の彼氏――智も勉強している。
もっとも、もともと要領のよく、できの良い智なので心配ないだろう、というのが平田一家の予想だ。ただ一人、『希望を言えば、落ちて欲しいんだけど』と言ったのは、もちろん春華である。
「早めに帰ってくるねー」
「ごゆっくり」
嫌味にならない程度にそう言い、藍華は下りるときに持っていたスケッチブックを振る。何もすることがないのなら、絵を描いているほうがましだった。
「さて」
姉の姿が見えなくなるまで玄関先で見送っていたが、見えなくなると玄関から家へと入っていく。外に比べると、日陰というだけなのにかなり涼しく感じる。
額に浮かんだ汗を小さくぬぐうと、藍華はクーラーの効いた部屋へと入った。コップ、お椀、机、家族の写真が入った写真立て……。描くものはたくさんある。何から描こうか迷っていると、いきなり玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
返事をしながら、玄関のドアについている覗き穴から外を見る。外に女が二人、外に立っていた。
「お嬢さん、少しお話しません?」
いかにも胡散臭い話しかたである。
「結構です……間に合ってますんで」
手早く会話を打ち切ろうとすると、帽子を目深にかぶった女は口だけを妖艶に引き上げた。
「そんなこと言わないで、五分でいいから」
「結構です!」
閉めようとすると、スッとその間に靴が差し込まれた。がたん、とドアがなる。
「随分と、手荒な歓迎の仕方ですね。久しぶりの再会なのに」
女が笑うと、隣にいた女は慌てた。
「真紀! そんな言い方」
「あんたを誘ったのは、ただ単に平田藍華さんのお宅を知りたかったから。帰りたいんなら帰っていいわよ? デートでしょ。十五分後、駅前で待ち合わせ、だったわよね?」
女が帽子を取り去った。さらり、とまとめて帽子に入れられてあったらしい髪が散る。
暑い日差しにも負けない、真っ白な肌が姿を現し、女の顔をあらわにした。しかし……女は、いやまだ少女と呼べるその顔は確かに見覚えがあった。
「真紀!」
「うるさい。数ヶ月ぶりにあった友人にその態度は何? 早く行ってらっしゃい」
「どうして、デ、デートのことを知ってるのよ!」
もう一人の女も帽子を取った。こちらは完全に少女の顔で、いつもクラスで見かけている顔だ。菊池と話をしていた、池田佳奈美だった。
「池田さん……。黒田さん」
藍華は目を見開いた。自分の家にこの二人が来ることは、まったく予想できなかったのだ。
黒田真紀……外国に行ってしまったこの少女は、この数ヶ月でぐっと大人びた。
前々から整った顔立ちこそしていた。
しかし目立とうとする意思と、自覚がなかったために少し地味な印象を周りに与えていた。
今は――前とあまり変わらないのに、何かが決定的に違うと思った。
何が彼女を変えたのかは分からない。だけど、何かが彼女を変えたのは分かった。
「知ってるわよ。あんたと悠くんの顔を見れば。あとは脅して問いただすだけ。何て簡単なんでしょ」
おどけたように言った後、真紀は佳奈美の背中を押した。
「遅れてもいいの? ここから駅まで少し距離があるわよ」
やばい、と佳奈美の顔に文字が浮かんだ。そして携帯を取り出して、時間を確認するとこちらを一瞬見た。
「平田さん。ごめんなさい。真紀に言われて断れなくて……。前ここ通ったときに、智先輩から聞いたんです」
ぺこり、と一回頭を下げて、佳奈美は走って駅のほうへ向かった。思いのほか早く、あっという間に見えなくなってしまった。
そして、二人が残された。
「えっと、どういったご用件でしょう?」
話の意図が見えなくて、藍華は首をかしげた。すると今度は真紀が慌てたように頭を下げる。態度が豹変した。
「ごめんなさい、気になることがあって。失礼だと思ったんだけど、学校が始まるまではさすがにいられないから」
「いえ、それはいいんですけど」
そう言って、藍華は大きくドアを開けた。
「どうぞ。片付いてないですけど、よければ」
「ありがとう。コレ、お詫びの品」
ひょい、と差し出された箱には有名な洋菓子店の名前が書かれていた。
「え、でも……」
「いいの。無理矢理来ちゃったの、私のせいだしね」
にこり、と笑うと、美人だと思っていた顔が可愛らしく変化した。
「どうぞ。お茶、淹れますから」
「お構いなく」
その次に見せた表情は、どこか何かを企む顔だった。予想に反して、この人は性格が悪いのではないかと思ってしまう。
そう――たとえばあの人のように。外見はさわやかで、優しくて……いい人のように見える。だけど中身は真っ黒、と藍華は心の中で呟いた。
「それで、話って言うのは……?」
紅茶とケーキがテーブルに揃い、二人が席に着くと藍華は尋ねた。
「うん。まぁ、ちょっと気になって、そのままイギリス(あっち)に行っちゃったから、その後の様子を見に来ただけ、なんだけどね」
苦笑いをしつつ、真紀は紅茶のカップを持った。そっと口をつけると少しだけ目を見張り、藍華の方を見る。
「すごく、おいしい……」
「ありがとう」
藍華は笑って紅茶に口をつける。そして小さく頷いた。うまくできている、と自分も思った。
「話って言うのは、何て言うか……」
小さく迷ったように、真紀が言った。藍華はその心にほんの少しの迷いと、決意が宿っていることを感じる。
「あなたと、菊池先生のことなの」
真紀の言葉に、藍華の笑顔は固まった。
「えーっと?」
藍華が首をかしげると、真紀も首をかしげた。
「私、平田さん、菊池先生のことが好きだと思ってたんだけど」
遠慮がちに、だが確信を含んでいるその言い方に驚いた。
「え、どうして?」
思いも寄らないことを言われたからだろうか、まったく口が回らない。
「何となく、そんな感じがしたから」
まぁ、関係ないって言われればそれまでなんだけどねー、と真紀は笑う。
ついで、いたずら気に笑った。コロコロと変わる表情は多彩かつ、キレイで……この人も恋をしているのだろうかと思ってしまう。
来たときの大人びた表情。先ほどのほっとして見せたような柔らかい表情。少しだけ何かを企んでいるような口を引き上げる表情。
そのどれもが彼女であって、ありのままの彼女だった。
「なんていうか……。こういうのって、見てるほうが面白いでしょ?」
だけどねー、と真紀は髪をかき上げた。
「何度もあなたのお姉さんから相談されたから、様子を見に来たの」
あっさりと今日来た理由を明かし、コレはお姉さんに内緒ね? と付け加える。あっさりと先程来た理由を翻したのは怪しかったが、姉ならありえる気がした。
「あなたには言わない約束で、相談にのってるの。妹が恋してるのかどうか、って」
恋愛経験のない私に言われてもねぇ、と眉を下げる。
「まぁ、聞く限りでは恋してるかどうか微妙だから、直接聞いてみようと思って。本人に聞くのがいいんじゃないかな、と思ったのよね」
苦笑いしつつ、真紀は再度カップを傾けた。流れるような仕草に一瞬だけ目を奪われて、藍華は我に返る。
「そんな、んじゃないの……。ただ」
失恋を共有しているだけ。そう答えると、真紀は一瞬だけ目を見張った。
「先生の、失恋。聞いたの?」
「少しだけ」
ふぅん、と意味ありげに真紀は目を細めた。
「『あの』菊池先生がねぇ」
ニコニコと、何かを面白がるように笑うと席を立った。
「あんまり心配なさそうで良かった。どう春華さんに話そうか迷ってたの。……恋してないんじゃないですか? って言っても、『そんなわけない』って言われそうだし。恋してるんじゃないですか? っって言っても『あの教師に恋するわけないでしょ!』って言われそうだし」
どっちにしても怒られそうだったんだよね。
「それは、失礼しました」
春華さんに言っちゃダメよ。私が怒られるんだから。
そう言って、真紀は笑いつつかばんを手に取ってから、帽子をかぶった。そのせいか、表情が少しだけ翳った気がする。
「でも、まぁ、一つだけ忠告しとくよ。春華さんからの相談料金分は働かないとね」
亮の様子見てもらってるから。
その『亮』が真紀の幼馴染であることは知っていた。『ただ』の幼馴染らしい。
「その人のことを思って離れるのも、私は恋だと思ってる。まぁ、辛い区分だけど。で、どうせするなら、楽しい恋のほうがいいでしょ?」
恋って、もとはそういうものだと思うから。
「今先生に恋をしてないなら、もう引き上げるときだよ。これ以上深入りしちゃダメ。あの先生はたちが悪いからね」
だけどね。もう、手遅れなら。
「もう手遅れなら、一回ぶつかってみるのもいいかもよ? 意外にあっさり落ちるかも」
最後の言葉は冗談の色が前面に押し出されていた。なのに、隠しきれていない感情が見え隠れする。
「まぁ……。経験のない私にはコレぐらいかな。あ、あとお姉さんたちに頼るのも一つの手だよ。経験者なんだし」
玄関に行き、真紀は自分の手で扉を開ける。外を見て、一瞬だけ驚いた顔をしたあと、静かに扉を閉めた。
「最後に」
どうしても、もうダメだと思って、それでお姉さんたちにも相談できなかったら。
「電話かメール、私にして」
ここにいない分、安心でしょ。私もとやかく首突っ込みたくはないし、安全な相談場所だと思うけど?
「どうして、わたしに、そこまでしてくれるの?」
藍華がそう言うと、真紀は笑った。
「だって、似てるんだもん」
誰に、と言わなかったけれど、きっと真紀自身にだろう。
「よく分からなくて、混乱してて……でもそれが恋じゃないって確信はしてる」
恋なんてものを知らないくせに、その存在は否定する。
「すっごくバカらしいくらいに、妄信してる」
自分がバカだって、分かってるのに。
「だからかな。春華さんに相談されたとき、少しでも上手くいけばいいなって思った」
その想いが何か見定めるのが、いいのか悪いのか分からないけれど。
「何がいいのか、悪いのかはあなたが決めることではあるけどね」
私は少しお節介を焼きたかっただけ。そう言って、真紀は笑った。今まで見た中で一番明るく、優しい笑顔だった。
「案外自覚すると、軽くなるかもね」
今度こそ、真紀は玄関の扉を大きく開けた。自分の連絡先を書いたメモを渡しつつ、かばんを持ち直す。
「じゃぁ、お邪魔しました」
藍華が外を見ると、長身の少年がこちらを見ていた。
鋭そうな瞳が、真紀を捉えると柔らかく細められる。愛想の少なさそうな顔はそれでも、かっこいいという部類だろう。黒い髪と瞳がひどく印象深い。真紀はそれを見るとわずかに眉を上げて、不機嫌そうにそちらへと向かう。
「どうして来たの?」
藍華と話しているときとは違う、厳しささえ含んでいる声だった。
「お前、明日帰るんだろ?」
「だから? 私、今回、亮に会わずに帰る予定だったんだけど」
冷たい言い方に、黒髪の少年は少しだけ寂しそうに眉をよせ、それでも歩いていく真紀についていった。
「私と一緒にいると、母さんがまた何か言ってくるわよ? 亮は関係ないって言ってるのに……」
そんな声が聞こえて、先ほどの言葉を思い出した。
『その人のことを思って離れるのも、私は恋だと思ってる』
それは、自分自身のことですか?
自覚し始めるきっかけは、もしかしたら人の言葉からかもしれない。
はたまた、人の行動からかもしれない。
思いもよらないところから、自覚は突然やってくるかもしれない。
あるいは、じわじわと理解するのかもしれない。
しかし、それはまだ少しだけ先の話。