第十六話 『灰色コンクリート』
「……で、この前の美術館で刺激を受けたからこんなとこで絵を描くわけ?」
「ダメですか?」
がちゃり、と扉を開けると真っ青な空が目の前に広がる。雲がゆっくりと流れているのを見つめながら、藍華が笑った。
春といえど、まだまだ風が強くびゅっと強い風が時折藍華の髪を揺らす。
「一回、ここ来たかったんですよねー」
ケガ防止のためか屋上はめったなことでは開放されないのだ。少し黒ずんだコンクリートにスケッチブックを投げ出し、藍華は空へと手を伸ばした。
「届きそうですよね。空に」
これだけ空が近いと錯覚してしまいそうになる。
「手を伸ばせば、届いちゃいそうです」
「太陽は掴めるもんだと思ってたよ」
小学校のときまで、菊池の言葉に『あたしは小学生ですか?!』と藍華が怒る。
「雲も、太陽も、月も星も……高いところに上れば掴めるんだって思ってた」
今ではどうやったって思いつかない発想だよな、あの頃の考えって。
「そういう意味では、お前が羨ましいよ。俺は」
「そうですかね」
菊池の言葉に返し、藍華はコンクリートに座り込んだ。
「お前……」
制服汚れる。
菊池の言葉に、初めてそれを自覚したのか藍華はあー、と呟いた。しかし藍華は言葉の意味をとっても、コンクリートから立ち上がろうとはしなかった。
「そんなこと気にするんですね、先生」
「お前、女だろ……」
菊池は飽きれたように返し、ハンカチを差し出した。淡い緑色のきちんとアイロンがかけられたハンカチが目の前に広がった。
そのハンカチの意味を図りかねたように藍華が首をかしげると、菊池は苦笑いしてハンカチを広げた。がらも何もないハンカチが風に揺らされる。その動きは藍華の髪の動きと重なった。
「この上に座れば、少しはマシだろ?」
お前じゃなくて、お前の姉さんが困るぞ、制服汚したら。
「あ。春ねえが怒る」
姉の名前を出され、そこでやっと藍華は腰を上げた。そして翻るスカートの後ろを二回、三回叩いて汚れを落とし、藍華は菊池の顔をじっと見つめた。
「何?」
一瞬だけ、菊池はその視線から逃れるように体をそむける。その後、ハンカチを再び藍華に差し出した。
「先生って」
藍華はそのハンカチを受け取らずに菊池に笑いかけた。
「紳士ですよね。いまどきそんな気障なこと誰もしませんよ」
ハンカチ汚れるから良いですよ?
そう言って、藍華はそばに投げ出していた鉛筆などを拾い上げ扉へと向かった。
「おい」
どういう意味だ、と問いたいのか菊池は眉を寄せる。
「お前、ここで絵、描くんだろ?」
「え、そんなこと言いましたっけ?」
藍華に呼びかけると、藍華はにこりと笑った。
「あたしはただ、『美術のために屋上開けてください』って言っただけです」
誰も屋上からの風景を描くなんて言ってません。
「だって、さっき俺の質問に……」
「ダメですか? って聞いただけじゃないですか」
重要なのは、ここの風景じゃないんです。
藍華は青空を見上げて言った。
「ここにいて感じる風とか、光とか……そんなものを感じたかったんです」
だから今日の目的は果たされましたよ。ありがとうございます。いたずらっぽく呟いて、藍華はパタパタと屋上から姿を消した。
「平田」
呼んでももう返事は返ってこなかった。菊池はふぅ、とため息を吐いた後、自分も扉へと向かう。
自分でも、不思議なくらい自然に、ハンカチを差し出していた。
自分の行動に驚いてしまって、しばらく思考回路が停止してしまっていた。
だからだろうか、少女の瞳をまっすぐに見つめ返せなかったのは。
赤くなった頬を隠すのが精一杯で、美術室に入ったとたん腰が抜けた。ここまで走ってきて、慌てて美術室の扉を閉める。この顔は誰にも見られたくなかった。
「心臓に、悪い……あの先生」
あんなに優しく、ハンカチを差し出されたら気の迷いで受け取ってしまいそうになる。
「先生が、先生らしくなかったから」
だから変に動揺してしまって、おかしなことを口走って、逃げてきたのだ。
「あー、屋上の風景描きに行ったのに」
何回も頼めないではないか。同じ内容で。
「諦めよう……」
再びあんなことをされたらこちらの心臓が持たない気がした。
「そろそろ中間だよ……」
「今回は赤点から逃げられるといいね」
さらり、と友人が言った一言に傷つく。
「詩織、それ、気にしてるから言わないで」
呟くように訴えると、少女は目を大きく見開いて、そして首をかしげた。
「じゃぁ、日下部くんに教えてもらったら?」
日下部くん、藍華ちゃんのこと気になるみたいだし。それにこの前の休み明けでも高得点たたき出してたじゃない。理系のクラスの中では一番だよね。
「詩織」
少し怒ったように名前を呼べば、『気に障った?』と不思議そうに聞く。
「いいじゃない。教えてもらえば。友達、なんでしょ?」
つまりは意識していないのだから、勉強を教えてもらってもいいだろう、という話だ。
「そういう問題じゃない。大体、日下部くんの都合も考えずに……」
「俺なら別にいいけど?」
ひょこり、と横から地味ながら端整な顔を覗かせる。
「日下部くん」
「物理だけならそれなりに役に立つと思うよ?」
理系だし。と付け加える少年の顔を見て、藍華は心の中でため息を吐いた。
『無理なんだって。先生が教えてもダメなんだから』
しかしそんなこともなかなか言えない。
「あたしも教えてほしいな」
「美浦さんは結構、得意な方じゃなかったっけ?」
勝手に進んでいく話に瞠目しつつ、もうここまで話が進んでしまえば自分に抗うすべは残されていないことを知った藍華は黙っている。というか、姉たちで身を持って体験している。
「放課後、教室でいい?」
そう二人が聞いてくるので、頷くだけで答えた。
「「怒ってる?」」
二人そろって同じ事を聞いてくる。それに苦笑いで応じた。
「ううん。ただあたしの才能のなさって折り紙つきだから」
結局、蒼也さえも苦笑いで『基礎部分さえ取れれば、赤点はないから……』とフォローしたのを思い出す。
姉の風呂上りを見て動揺したくせに、ちゃんと先生として教えてくれるんだから律儀としか言いようがない。
「「大丈夫だよ!」」
この二人は姉たちに似ている、とふと思った。
「だから基本は、この公式を覚えることからだね」
「えっとV=……」
公式を書いた紙を隣に置き、練習問題に取り掛かる。
「そこ。そこは運動の向きが反対だから、数字はマイナス」
「う……さっきも間違えたよね」
まったく進歩していない自分を感じ、若干ブルーになる。藍華はペンを口元に当てて唸った。自分の才能のなさは十分感じているはずだったが、ここに来て一段と酷いのではないだろうかと考え始めた。
「焦らない、焦らない。公式に当てはめられるようになったんだから、前進でしょ?」
褒めるのがうまいな、と思いつつ、それでもやはり嬉しくてペンを走らせた。となりで『そうそう』と言われると、自分が進歩しているようにも感じる。
自分は単純で、褒められれば伸びるらしい。
「できた」
「はい、正解」
横から手が伸びてきて、ノートに丸が書かれる。
「日下部くんって教えるのうまいよね」
菊池が見てるとプレッシャーでペンが動かないのだ。間違えたら怖いし。
そう思いつつ、それでも補習の最後にはきちんとドロップをくれるのを思い出した。
「いや、平田さんが苦手だって言いつつ努力家だから」
教え甲斐があるんだ、そう言われて少しくすぐったくなった。
「日下部くんが、褒めてくれるから。あたし、単純だからね」
昔から褒められればやる気が出た。ずっと絵を描いているのも、姉たちが『天才、才能あるよ』と言い続けてくれたからだ。
朔華の彼氏である智には『意外に、褒められて木に登るタイプ?』と言われてしまった。
「菊池先生は褒めないの?」
「いや、褒められる前にいっぱい怒られるから」
苦笑いすると、少しだけ怪訝な顔をされる。その顔の意味を問おうとしたとき、横から詩織が入ってきた。
「日下部くんって、下の名前駿介だよね?」
「うん」
「日下部くん、って呼びにくいから下の名前で呼んでいい?」
舌噛みそうなんだよね。
「いいけど」
「じゃぁ駿くん、よろしく」
にこり、と邪気のない笑顔につられたように日下部も笑った。
「よろしく」
それが何の始まりか、それはまだ分からない。
「この前の中間返すぞー」
教室に菊池の声が響き、藍華はそっと胸の前で手を組む。今回は問題がとても難しかった、気がする。
「安倍」
平田、が苗字なので、呼ばれるのは半ばなのに、どうしても緊張してしまう。藍華は手を組んだまま、肩をこわばらせた。
「藍華ちゃん、大丈夫だよ」
「そうだよ、大丈夫」
両サイドから励まされるが、前回、前々回と赤点続きだったので、不安にしかならない。むしろ赤点だという自信さえある。前日まで勉強したが、分からないものは分からないのだ。
「日下部」
すっと立ち上がり、テストを受け取ると少しだけ解答用紙に視線を這わせた。表情を変えないので、良かったのか悪かったのか想像がつかなかった。
いや、いつものことを考えれば、いいに決まっているのだが。
「どうだった? 駿くん」
「うーん、まぁまぁって言いたいところだけど、あんまり、かな?」
詩織に聞かれ、解答用紙を差し出した。出した解答用紙には『90』と書かれており、十分ではないだろうかと思ってしまう。そのとき。
「平田ー」
菊池に呼ばれたので、慌ててがたりと席を立った。藍華は緊張を押し殺すことなく、教卓に歩み寄る。いつもの数十倍緊張しているような気がしていた。何しろ、足が震えている。
「はい」
小さく返事をして向かえば、菊池はピラピラと紙を振っている。その顔から、赤点なのか否かは量れない。
「お前今回、頑張ってた」
励ますようにそう言われて、テストが返される。右上には赤い文字で『56』と書いてあった。高校入学してから最高点ではないだろうか……理科関係で。
「赤点じゃ、ないですよね?」
「違いますよ」
恐る恐る聞く藍華に、わざとらしく敬語で返してくるので小さく睨むと、『冗談だよ』と菊池は笑った。
「よく頑張りました」
一瞬だけ、菊池の手が上がったが、すぐに下ろされて耳元で囁かれた。
『ご褒美は放課後、な』
甘い声で、そして意地悪そうな口調で言われているのにカッと顔がほてった。顔が赤くなったのにも気づかず、踵を返して席に帰ると、二人に『顔が赤い』と指摘された。
「え、?」
動揺したように返すと、二人はテストを取り上げて点数を見た。
「藍華ちゃん、やった! 赤点じゃないよ」
「うん、よく頑張ってる。今回、少し難しかったのに」
上出来、そう二人に言われると、藍華はほんのりとまた赤くなった。
熱中して描く。
それは本当に気持ちのいいこと。
何もかも忘れて、自分の世界には自分と目の前の絵しかないように錯覚する。
煩わしいことは何もなくて、自分を傷つけることも何もなくて。
ただただ、楽しいことに熱中する。
時間さえ、忘れて、いつの間にか何も聞こえなくなる。
「おい!」
後ろから肩を引っ張られて、初めて自分が熱中していたことに気がついた藍華は振り向いた。ここに来る人物は決まってきているが、顔を確かめるまでは定かでなかった。
いつもなら……声で分かるのに。
「先生?」
ぽつりと名前が口からこぼれ、そしてそれと一緒に鉛筆が落ちた。細長く削られた鉛筆は芯が折れ、ころりと転がる。それは転がり続け、菊池の足元で止まった。
菊池はそれを拾い、藍華に返す。
「名前呼んでんだから、返事位しろよ」
飽きれたような、怒っているような声で言われたので、肩をすくめると、菊池はふぅとため息を吐いた。
最近、菊池のため息を聞く回数が増えた気がする、と藍華はどこかで思った。
「お前が、一瞬別次元の人間に感じた」
ここにいるはずなのに、どこかとても遠いところにいる感じがして、嫌だった。
「ごめんなさい、熱中してて……夢中でした」
素直にそう言うと、『そうだろうと思った』と苦笑いされる。
そして後ろからスケッチブックを覗き込まれた。そして苦い顔をされる。先ほどの苦笑いとは違い、本当に苦い顔をしている。
「お前」
また描いてるのか、ということは省略された。
藍華も、何がいいたいのか何となく分かった。
淡い、青い色調の絵だった。最近の絵はたいてい暖色を使っていたので、菊池には不思議に映る。この色使いはどちらかと言えば、入学してしばらくたったときのものに似ている。
一人の少女が少年を――それが春華と蒼也だと菊池には分かった――後ろから抱きしめていた。少年の右肩に頭を乗せ、その少し長めの髪が少年の肩に流れている。
イスに座っている少年を、イスをはさんで後ろから抱きしめ、少女は少年の首に顔を摺り寄せていた。両手を少年の胸に回し、上から包み込むような形で立つ少女は涙をこぼしている。
うつろな視線、小さく開いた唇、そして固いくらいに握られた両手。
逃がさないとでもいうように、少女は強く、自分の手を握り締めていた。この手を離せば、少年が逃げていくとでもいうように、強く強く握り締めていた。
何を表しているのか、菊池にはよく分からなかった。
どこかいとおしささえ含んだ、それでも狂気を秘めている瞳が、こちらを見ているのだ。少女がまっすぐとその潤みつつ、虚ろ気な瞳をこちらに向けている。
少年は下を向き、何を思っているのか分からない。ただ、嫌がっているように見えなかった。捕らえられているわが身を悲嘆しているのか、それとも自分で望んで捕らえられているのか、それは分からない。
「何を描いてる?」
菊池はそう聞くと、藍華は笑った。
「昔の……二人を」
一番見ていて辛かった、あの頃を――。
描いています。
藍華の笑顔が、優しかった。
「どうして……」
菊池はこぼれるような声でそう問うと、藍華は困ったように笑った。質問された意図が分かったようだった。
『まだ吹っ切れていなかったのか?』
そう問われた気がしたのか、藍華は静かに首を振った。
「あの頃の二人があるからこそ、今があると思うんです」
だから、そのときのことも描いておこうと思って。小さく、小さく藍華は言った。そこに、どんな思いが入っているのだろうかと菊池は少し気になった。
「二人の全てが、いつかは思い出になるから」
描いていて損はないと思うんです。
そう言って笑い、次いで菊池の顔を見て何かを思い出したように瞬きした。そして今度は何の含みもなく、優しく笑った。その笑顔が瞼裏にも写り、菊池は少しだけ動揺する。
しかしその動揺を押さえ込むと、菊池は藍華を見る。
「先生、そういえば……」
ご褒美、下さるんですよね?
きらり、と笑顔がまた輝いた。年相応の、いたずら好きの少女の顔だった。そういえば、こういう顔を見ることがなかったと、二年目になって気がついた。
いつも、どこか大人びた、世界を知っているような顔をしている少女の素顔を垣間見た気がした。
「え……?」
呆けたようにそう言って、菊池は藍華を見た。先ほど一瞬見た、何か狂気めいた瞳の光はなくなり、ただ温かく笑っている。藍華は席を立ち、スケッチブックを閉じた。
自分の心を、菊池に対して閉じたようにも見えてしまう。スケッチブックに描かれるのは何も、彼女の思ったこと全てではない。むしろ他人に見せるために描くのだから、どちらかといえば、自分の心の中でもキレイなところだろう。
しかし彼女にとってのスケッチブックは感情をぶつけるところだと、この一年間で知ってしまった。
「何ですか?」
「これ」
何がご褒美なんだろう、と教室で感じた菊池の声に含まれる笑いも忘れて、藍華は菊池に聞いた。すると菊池からぽいっと何かが投げられた。カードのようなものだと思い、藍華はとっさに宙で掴む。
見てみるとこの間行った美術館で売られていたポストカードだった。あの日見た様々な絵画が印刷されており、藍華は目を輝かせた。住所を書けばポストカードだが、部屋にでも飾れるようにか土台も付いている。
「先生、コレ」
「昨日、お前の点数見てびっくりして、その帰りにたまたま美術館が目に入ったから」
いらないんなら、捨ててもかまわないし。俺に必要ないから。そう言って、菊池は横を向いた。その横顔が、かすかに赤くなっている理由を本人も、藍華も知らない。
「え、いえ。嬉しいです」
ありがたくいただきますね。勿体なくて使えないと思いますけど。
藍華はそう言って、笑いながら封を切り、数枚捲っていく。一枚一枚を丁寧に捲り、そのたびに笑顔がこぼれた。
それを見る菊池は少しだけ顔を緩めた。自分の目論見が当たったことへの満足感からか。
藍華はしばらく見て、そして一点で数秒と待った。横から見れば美術館でも藍華が止まった、少女の絵だった。それを静かに見つめ、しかしそれも本当に数秒で、また次のポストカードへと映る。
「あ……、あたし、先生に報告がありました」
ポストカードを袋に仕舞い、菊池に向き直る。菊池はその真剣な瞳に気圧され、藍華を見つめた。
「あたし、吹っ切れました」
まだ、先生に言ってなかったから。恥ずかしそうに、照れくさそうにそう言うと、『相談に乗っていただいて、ありがとうございました』と頭を下げる。
菊池はそれを聞き、『納得したのか』と小さく呟いた。
それは、憧れの終わり。では……これは何の始まり?