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drop(改訂前)  作者: いつき
本編
15/43

第十五話 『白色時計台』

「いや、昨日、ここの顧問から電話がかかってきて」

「え、先生から電話かかってきたんですか!!」

 あの絵のことしか考えていない先生が、まさか生徒の心配をしているのだろうか。

「なんか、毎年恒例の『美術館へ行こう』みたいな行事があるらしくって、それの引率よろしくお願いしますって」

やっぱり、絵か……。

「そういえば」

「何ですか、先生」

 いつもどおりの放課後で、いつもどおりのクラブをしていた。

 そしていつもどおり菊池がいて、タバコと携帯灰皿を持ち、窓辺でタバコを吸っていた。よくばれないものだ、と思うがいつも見ないふりをする。 

「それで、今年新入生の部員一人しかいないし、俺まだここの部員お前しか見たことないからどうしようかと思ってんだけど」

「行きましょう!」

 美術館、いいなぁ、行きたいなぁとは思っていたが、さすがに一人で行くのは気が引ける。かといって姉たちに頼むのも……少し気が引ける。

 誰も興味ないし、せっかくのデートを邪魔するのもどうかと思う。なので行かないまま何年か過ぎていた。

 学校の社会見学で行って以来だろうか。いや、そのあと、一回だけ一人で行った。寂しさに耐えられず、一時間もいなかった苦い思い出がある。

「行くのか?」

「イヤなんですか?」

 質問を質問で返すと、菊池は微妙な表情を作り、『美術関係は苦手』と言った。

「印象派とか言われてもわかんないんだけど」

「普通に楽しめばいいじゃないですか」

 描いた人間のことを知らなくても、絵を見ていればどんな人か分かる。何かの本にそう書いてあったが、それはそのとおりだと思う。


 どんな人が描こうが、そこにはテーマがあり、伝えたいことがある。それが愛だったり、平和であったり、家族であったり……。

 さまざまだが、見ているうちになんとなく分かるものだ。


「コレだから、芸術関係の肌はわかんない……」

 菊池は飽きれたように、言った。

「あたしに言わせれば、理科の問題といてる先生のほうがよほど分かりません」

 そう言い返すと、お互い分かんないものが多いな、と菊池は笑った。





『じゃぁ、土曜午後二時。集合場所は駅前の噴水な』

 って、言ったじゃないですか、先生。

「今、午後二時、十五分なんですけど」

 他の美術部員に声をかけたが、ほとんど行かないと言われた。さすがに三年生を誘うのは気が引けたので、言わなかったが。

 しかも新加入部員でさえ『え、美術部は部活動がないって聞いたから入ったのに』と言っていた。どうやら本当に廃部寸前であるらしい。

 まぁ、あの顧問と副顧問では仕方がないか、と藍華はため息を吐いた。

 唯一行くと言っていた友人も『ごめん、バイト入った』の二行で来なくなった。

 駅前……デートの待ち合わせの定番場所に、制服着た少女が一人。さすがに声をかけられることもなく、藍華は空を見ながらぼんやりと空を見ていた。

「こういうとき、物語とかだったら」

 だったら。

「声かけられて困ってる女の子を助けに来るよねぇ」

 その人がヒーローなら。

「ヒロインに待ちぼうけ食らわせるヒーローはいないか」

 しかも先生だし。

 こんなことなら、窮屈な制服で来るんじゃなかった。

「これなら無理矢理、春ねえ連れて来たほうがよかった気がする」

 先生とは少し気まずいから。その気持ちがどこから来るのかも分からず、藍華は一人で空を見上げる。

「遅い」

 ちらりと携帯を取り出して見ると、二時三十分を超えていた。

 先生、忘れてたりして、という思いが藍華の中に広がるが、すぐに打ち消した。

「先生、律儀なところあるし」

 何か用があって遅れているのかもしれない。そう自分を言い聞かせて、背筋を伸ばした。

 こういうとき携帯の番号を知らないというのは不便だと思う。メールアドレスでも良いけど。

「電話番号だけでも聞いとけばよかった」

 そう思いつつ、知らなくていいとも思ってしまう。その番号を見てしまえば、自分は何か分からぬ衝動に突き動かされそうな気がする。

 携帯電話を手の中で弄びながら、先ほどから変わらない空を見上げた。雲ひとつなく、少し肌寒い春にしては十分な陽気を出している春。

「あ」

 空に何かが散り、反射で目で追いかける。見上げる先に桜が咲いていた。

「きれい」

 誘われるように一歩踏み出す。

 しかし次の瞬間、強い力で腕をつかまれ引っ張られた。

「見つけた……」

 吐息交じりの声が、妙に色っぽく藍華はおびえる。

「先、せい」

 どうして遅れてきたんですか? 

 何があったんですか?

 約束、忘れてたんですか?

 聞きたいことはたくさんあったのに、藍華の口から出た言葉は一言だけ。

「遅い、です」

 そんなことが言いたいわけじゃないのに。

「……、お前こそ、何で、こんなところに」

 途切れ途切れの声と、荒い息で走っていたことが分かった。そしてその声がとても心配そうだったのも分かった。

「だ、だって、先生噴水前集合って」

「俺、お前の家に集合場所変更って、伝えたけど」

 嘘、と携帯を確かめると確かに着信履歴十五件……。美術館に入るのだから、と前もって切っておいたのが失敗だった。

 藍華の表情を見て、伝言が伝わっていなかったことを知った菊池はふっとため息を吐いた。

「よかった。何かあったのかと思った……」

「忘れてた、だけかもしれないじゃないですか」

 そう言うと、菊池が小さく笑った。


『それは、なぜか出てこなかった』


「約束時間より余裕をもってくるだろうな、と思ってた」

 事実藍華は約束時間の十五分前にはここへ来ていた。

「一回美術館に行って、それからやっと、伝言が伝わってなかったんじゃないかと思って戻ってきた」

 だから息が切れていたのか。美術館からここまで歩いて十分の距離だ。走ったとしても五分はかかる。

 十分間走りっぱなし、はさすがにきついだろう。

「あー、ダメだな。運動不足。昔はもっと走れたのに」

 年取ったー、と菊池が呟くのを聞き、藍華は笑ってみていた。

「先生、携帯番号教えてください」

 また迷うのはイヤですから。するり、と言葉が出るのを、他人事のように感じながら藍華は言った。

「それ、俺も思ってた」

 もう、あんな思いはこりごりだ。

 そう言った菊池をまた藍華は笑顔で見つめていた。



 が、さすがに生徒の携帯番号を持つことに抵抗があった菊池は、結局携帯番号を教えただけだった。

「あたしのケータイ」

「あー、いいわ。誤解されると、こういうのって面倒だから」

 美術館の中は適度な温度に調整されていた。薄暗いのは油絵への配慮だろうか。

「お前に電話番号を教えておけば、困らないだろ? 俺からの連絡は……また、家に電話する」

 今日の出来事を思い出してか、少し苦い顔をした。藍華は小さく首をかしげ、聞き返す。

「誤解って、どんな誤解ですか?」

「教師と生徒の禁断の恋、とかなんとか」

 一瞬だけきょとんとした藍華はついで顔を赤く染め上げた。

「そ、そんな!!」

「いや、誰もお前がそんな大それたことしようなんて考えてないから」

 赤くなって否定する藍華を見つつ、菊池はフォローの言葉を口にする。

「先生が、生徒の相手をするわけないじゃないですか」

「あー、まぁな」

 ちくり、と最近よくある痛みを感じて、わずかに藍華は眉をひそめる。そして絵のほうに視線を向けた。

「印象、派」

「はい?」

 わけが分からない、というように菊池が聞き返す。目の前にあるのは一つの絵だった。


 鮮やかな色彩、柔らかな光が少女の肌を照らしていた。

 温かな笑顔を浮かべた幼い少女だったが、ドレスのふくらみが少女から女への過程を表しているようにも感じた。


「この画家、印象派なんですよ。ほら、ルノワールとか、モネとかと一緒」

 あたし好きなんですよね、と笑いながら絵に見入る藍華を隣で見つつ、菊池は首を傾けた。

「よく、分からないけど……明るい色で俺も好きだな」

 そう言うと、藍華はにこり、と笑う。

「絵の趣味が一緒の人と回るのっていいですね」

「趣味っていうほどたいそうなものじゃないけどな」

 菊池が言うので、藍華は少しだけ怒ったように言った。

「感じ方が似てる人って、大切なんですよ」

 味覚がまったく違う人と食べるのはイヤでしょう?

「印象派が嫌いな人と見たって面白くないじゃないですか」

 絵画の勉強をするのなら、そんな視点もありかなって思いますけど、今は純粋に楽しんでるんですから。

「そんなもんか?」

 そうまだ納得しないように菊池が言うので、藍華は今度こそむっとしたように返した。

「そうですよ。先生だって、理科が大嫌いなあたしみたいな生徒より、得意な生徒のほうが、理科の話してて面白いでしょ?」

 そう言って、それで藍華が自分の言葉に一瞬だけ傷ついた。言わなくていいことを言ってしまったような気がした。

「いや」

 そして菊池の言葉を聞いて、驚いたように目を瞬かせる。

「違うからその違いの面白さを知らせたくなるし」

 お前の発想は本当に面白いから、話してて飽きない。

「価値観が違う人間といても、純粋に楽しめるけど?」

 それに芸術家肌のお前の感性についていけるやつとか、中々いないと思うぞ、俺は。

 そう言って、菊池は笑う。

「人を、勝手に変人扱いしないで下さい」

「いや、かなりの変人だと思う。芸術家肌の人間って、面白いよな」

 しばらく続いていた、印象派画家たちの絵を抜ければ、近代が現れた。しかもあまりなの知られていない、新人が多いようだった。

「あ」

 吐息のような声を漏らし、藍華はある一点で静止する。

「どうした?」

 そう声をかけてみても、藍華には通じない。一つの絵を見つめ、藍華はじっと止まってしまった。


 一つの、暗い色調の絵だった。

 少女が一人、涙を流している。抑えきれない嗚咽が聞こえてきそうなくらい、悲痛の伝わる絵だった。

 黒いドレスを着た少女が一人、顔を両手で覆っていた。その手から、一粒、二粒涙がこぼれる。

 少女の座り込んでいる床は水で覆われていて、涙は水に溶け込んでいる。

 その波紋は少女を包み、まるで悲しみが広がっているように見えた。その水は、涙が溜まったものなのかと思ってしまう。

 それくらい、少女は永遠と泣き続けているように見えた。


「嗚咽さえ……漏らせない悲しみ」

 自分の発言だと分かっているのか、藍華は一言呟いた。

「声を出すことが許されない、この女の子は……どんなことをしたんですかね?」

 ポツリと呟いて、そしてそれ以上の興味を失ったのか、藍華はその絵の前から動いた。

「平田?」

「気にしないで下さい。時々、こういう気分になるんです」

 感情移入しちゃうんです。絵に。

「画家が何を思って描いたのか、分からないのに」

 それが何への悲しみか分からないまま、だけどその悲しみを感じてしまう。

「きっと、あの画家さん。何か許されないことをして、自分を責めているんですね」

 本当は涙を流すことさえ許されないのかもしれない。

 だけど我慢できないから、涙を流し、そして戒めを守れなかった自分を責める。

「声を出すことを禁じ、ただ涙を流して」

 やがて足元に涙の海ができる。

「お姉ちゃんたちには……少し、可哀想な目で見られるんです」


 あいちゃんは、少し感性が豊か過ぎるね。きっとそれは優しさになるし、自分や他人を傷つける諸刃の剣になる。


 藍華。それはいつか、他人と、あんたを傷つける。今のうちに、覚悟しなよ。あんたにしか分からないことが、きっとあって、絶望する。


「あたしにしか、分からないことが出てきて……、そしてそれが他の人に理解されなくて、あたしが傷つくことが、この先あるんですって」

 藍華は人の気持ちが分かりすぎる。それは辛いね。人の心が分かりすぎるのは、痛いね。

「確かに、事実だと思います」

 瑲也への憧れを自覚したとき、それと同時に絶望したから。

「あー、それ分かるかも」

 お前、苦労人っぽいもん。

「あれだな。人に気を遣い過ぎて、胃とか壊しそうなやつ」

 お前の周りのやつら、気遣わなさそうだしな。

 少し違うような気もしたが、自分がそうとう落ち込んでいたらしいことを知り、藍華は無理矢理笑った。

「ほら、そうやって無理矢理笑う」

 子供がそんなこと覚えてどうするんだよ。

「今のうちに泣いとかないと、後で後悔すると思う」

 そう言って笑い、菊池は藍華の髪をぐしゃりと撫でる。藍華は気まずげに髪を手櫛で整えながら、『先生はずるいです』と呟いた。


 この人は、一番ほしい言葉をくれる人。




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