第十四話 『翠色教室』
あっという間の一年だったという気がしてならない。気がつけば二年生で、クラス替えがあって……そして。
担任が、変わった。
「今日から君たちのクラスの担任をします。菊池優斗です。二年生とはいえ、受験を意識する頃だと思います。相談があれば、言ってきてください」
型どおりの挨拶をして、菊池は頭を下げた。いつもどおり、メガネをかけ、地味なスーツを身に着けている。
そのせいか、女子からは『あーー、隣のクラス有田なのに』と言う声が漏れる。菊池も『こら、そこ。俺に失礼だから』と笑いながらつっこむ。
藍華は関心のないまま窓の外を向いていた。クラスが変わろうと、学年が変わろうと、少し周りの空気が違うだけだ。
自分には大差ない。ただ少しだけ周りの雰囲気が変わってしまっただけ。
それに。
「藍華ちゃん。また同じクラス! しかも隣だよ。よろしくね」
にこりとこちらを笑ってくる詩織は一緒なのだから、あまり変わらないのだ。
「よろしく詩織。丁度いい具合に隣だね。出席番号順なのに」
苗字が平田の藍華と、美浦の詩織はうまい具合に隣同士だった。そう、あまり変わらない、はずなのだ。
「平田、こっち向け」
この担任さえ、他の人間だったならば。
「ここで、この運動は等加速度運動なので……」
ここは一年の復習だ、と言いながら菊池は黒板に文字を書いていく。はっきり言うと、藍華には何を書いているのかさっぱり分からない。
物理なのだろうが、実際自分が何をしているのかはさっぱりだ。
コンコン、とシャーペンの後ろで頭を叩き、ノートはとる。帰ったら春ねえに聞くしかないな、と一人で思った。
聞いても大して変わらないけれど、聞かないよりはましだろうと結論付けた。
そもそも物体の動きなんて、見たままなのだし、それをわざわざ数字に表す必要があるだろうか! いや、ない。
藍華一人の言い分が、心の中で語られる。しかしテストでそんな言い訳は通じないので、意味が分からない教科書とにらめっこしなければいけないのだ。
赤点になれば進級さえ危ぶまれる。さすがにそれでは姉たちから怒られる。
「〜〜、それではここでの物体の運動速度を、美浦」
「え、と。13m/sです」
「よろしい」
メートル毎秒……。1秒当たり、13m進んでるってことであってますよね?
「では物体が停止していたときから、現在までの加速度は? 平田」
「え」
加速度って何ですか……。(A. メートル毎秒毎秒)
「ひーらーた。去年、やったよな? 補習でもやったし」
結局学期末試験もうまくいかず、補習をした藍華には痛い話だ。しかも菊池の笑顔が異様に怖い。
「えっと、物体が停止したときから、現在までの時間が5秒なので」
……なので?
分かるわけないだろ!! と、思うが、それを口に出してしまえば笑顔で『補習』と言うに決まっている。これ以上補習をして、もし姉などにばれた場合……とくに春華の反応が怖い。
「そうそう、それで速度が変わってるんだから。公式に当てはめて」
菊池もヒントを出しているようだが、そもそも出し方が分からないのだから解けるはずもない。公式の文字に何を入れればいいのかも分からない。
そのとき、クンクンと袖口を引っ張られた。
見れば詩織とは反対側の隣の人がノートに数字を書いてある。
「2m/s²」
「正解」
菊池は笑って、言ったあと、また説明に戻った。
「ありがとう……答え」
隣の少年にそう言うと、にこりと笑って返された。
「いや、いいよ。苦手そうだったから」
染めていなさそうな髪は黒。規則正しく着られた制服。笑った顔は少し幼く、なんとなく誰かに似ている気がした。
「ねぇねぇ、藍華ちゃん。日下部くん、絶対藍華ちゃんに気があるよね?」
詩織の言葉に驚き、慌てて隣を見る。幸い、少年は授業に集中しているようだ。
「詩織、何言ってるの。困ってるから、助けてもらっただけじゃない」
そう言うと、詩織はフフフと柔らかく笑ったあと、藍華のほうを見た。
「ばかだなぁ。藍華ちゃん。日下部くん、地味だけど顔はいいし、優しいから結構人気なんだよ? それなのに特定の彼女は去年も今年もいない! なのに、藍華ちゃんに優しいって、何かあるのかなって思わずにはいられないじゃない」
穏やかな詩織にしては珍しく、こぶしを握り締め、小さく力説した。
「女の子が苦手なのかと思ってたけど、そうか、日下部くん、藍華ちゃんみたいなのがタイプなんだ」
ふーんと詩織がまた小さく笑った。
「ないから、絶対」
「どーしてよ」
「恋になりえないから」
「えぇ〜〜、じゃあ、藍華ちゃんは好きな人が他にいるの?」
詩織が小首をかしげる。肩までの柔らかそうな髪がうねった。とっさに何も言い返すことができない。
「なッ……!!」
そこで止まってしまったのが、藍華の敗因だと自ら悟る。
「いるの?」
「い、いない!」
どうしてここまであせっているのか、自分でもよく分からない。だけど『好きな人』と言われて、何かが一瞬、浮かんだ気がした。
「怪しい〜」
「あ、やしく、ない!」
ふいっと、詩織の視線から逃げるように反対側を向いた。そのとき日下部駿介と目が合い、気まずくなる。
かと言って、詩織の方を向き直るのもイヤなので、大人しく下を向いた。
「美浦さん、照れてるんじゃない?」
「あ、そっかぁ。照れてるのか。可愛い」
二人で勝手なことを言っているのに、まともに顔が上げられない。あげたが最後、どんな目に遭うか分かったものではないのだから。
「そこ、三人。しっかり聞く」
菊池の声がやけに大きく響き、藍華は小さく肩をそびやかせた。次当てられたら、絶対に答えられない自信がある。
今言っている、問題の意味さえ理解できていないのだから、当たり前ではあるが。
そのとき、チャイムが鳴った。
まさに天の助けである。そそくさと筆記用具を片付け、ノートを閉じた。これ以上あんな記号みたいなのを見ていると、気が狂ってしまうのではないかと思う。
大体、何度も言うようだが、物体の運動の速度なんて、普通の人間は使わない。
『時速40kmの車が壁に激突しました。壁にかかる力はどれだけでしょう』
そんなの、壁が大破するぐらいに決まってる! っていうか、使わないから、そんなの。そう思った瞬間だった。
「平田」
名前を呼ばれて、肩が跳ねた。名前を呼んだのは、菊池で、そんなこと呼ばれた瞬間に分かった。
「教科書p.23の問3の問題、お前に解いてもらうから」
「えっ! どうしてですか!!」
思わず噛み付くと、菊池は思いっきりかっこよく破願した。
首を絞めてもいいですか……。
「できなさそうだから」
こんな教師嫌いだ。
「だからね、ここはこの加速度を使って移動距離を出すの。公式は、コレ」
よって、この『a』というのは加速度で……。
春華による講義は続く。
「だから移動距離は36mってこと。分かった?」
「うーん」
「分かってない、ね……」
春華が苦笑いして、勉強机から離れた。後頭部を叩きつつ、教科書を見る。その顔には『何が分からないのか、分からない』とはっきりと書かれている。
「だから、この『x』は移動距離なの。それで、これが時間」
一個一個の数字が何を示しているのか、ノートの隣にある紙に書いていく。ついでにどのような運動だったのか、図も描かれているわけで。
そこまでして分からないのは、『苦手だから』と形容するしかない。
いや、むしろ『苦手だから』では済まないほど壊滅的である。
「ごめん、春ねえ。三年生なのに」
肩を落とすと、春華が笑った。
「三年生って言っても、まだ夏前だし、大丈夫よ」
それよりやっぱり瑲に頼むべきかな、わたし、人に教えるの苦手だし。
「瑲は何かにつけて、教えるの上手なんだよねぇ。何、聞き分けのないわたしに付き合ってたから? だから教えて、諭すことが上手に?」
それはそれで、気分悪いかも、と春華は呟いた。呟いたあと、春華は窓を開けて、数字の書かれた紙を丸める。
そしてその紙の塊を、隣の家の電気がついている部屋に向かって投げた。紙はほとんど音を立てることなく、だがきっちりと窓に当たった。
「それじゃぁ、瑲さん、気がつかないよ?」
「え、気づくよ」
わたしが投げたんだもん。
変に自信に満ちた言葉に何も言えなくなった。
耳を澄ませていれば聞こえたかもしれない。しかし、しょせん紙が窓に当たっただけ。人に聞こえるはずもない、と思った。
なのにカーテンが開き、中から人影が見えた。
「嘘」
「あ、今メールしたから」
春華がひらりと携帯を翻す。『送信完了しました』の文字を見つめ、驚いた顔のまま藍華は春華を見つけた。
「春ねえはぁ!」
「聞こえるわけないよ」
それでも、姉の声なら、行動なら、どんなに些細なことでも瑲也には通じるのではないだろうかと思ってしまうのだ。
「いくら瑲でも、それは無理。一応人間だから」
それにわたしは『愛の力』なんてものを信じるほど、乙女じゃないんです。
無理だって知って、携帯にメールを打ったの。だから瑲がカーテン開けたのよ。そうじゃなきゃ、聞こえるわけないじゃない。
「あんた、瑲に夢持ちすぎ。いくら瑲でも、動物並みの耳を持ってるわけないでしょー」
笑いながら春華は言い、ベランダへと続くドアの鍵をあけ、扉を開いた。
隣との距離が近いせいか、瑲也は屋根に乗り、そこへ降り立った。
「さむ……」
「ごめん。何か持ってくる」
あ、これでも肩にかけておけば? そう言って、春華が瑲也に渡したのは、黒色のカーディガンだった。飾りが少なく、大き目のを買ったせいか、春華の膝下ほどまで隠してしまう。
春華はそれを受け取ったまま着ようとしない瑲也を見て、業を煮やしたらしくばっと奪い取ると強制的に肩に羽織らせた。
「瑲さん、顔、赤いですよ」
「風呂上りって、聞いてないし」
苦労しますね、とだけ、藍華は答え、笑った。その瞬間、完全に吹っ切ったのを感じた。これが、憧れの終わり。