第十二話 『クリーム色仕切り』
「お姉ちゃん、これからどうするの?」
「あいちゃんの絵を見たら、また智くんのところに帰ろうかな。一人でうろうろしちゃダメ、って言われちゃった」
エヘヘ、と小首を傾げながら笑う朔華に、『智さん過保護すぎるだろ』とつっこむ藍華。たぶん朔華は気がついてない。そして藍華も言うつもりはなかった。
「一人で智くんのところに帰れるから、もうあいちゃんは受付に戻っていいよ。ごめんね。わざわざ迎えに来てもらって。
智くんがどうしてもだめだって言って、放してくれなかったの」
どうしてだろうね、と不思議そうに呟くが、理由が分かっていないのはたぶん本人だけだ。生徒会メンバーは苦笑いで送ってくれたから。
特にさっきここへ来た真紀という少女は『智先輩の弱点』を見つけて随分と嬉しそうだった。
「それにしても、今年の生徒会の人は、きれいだったねー。私、黒田真紀さんっていう女の子が好きだった。美人さんだったね」
確かに、美人だったし、その他のもう一人の書記と副会長もかっこよかった。(男二人)
「智くんが言うにはね、ファンクラブだってできちゃう勢いなんだって」
『美人さんたちはいいね』と邪気もなく、笑う。その『ファンクラブができる勢いの人気』は智にまで及んでいると知っているのだろうか。
まぁ、知っていても朔ねえには関係ないな、と藍華は勝手に思っていた。
朔華が智を好き、というのも分かるが、どちらかと言えば朔華のことが好きでしようがないのは智、というのが藍華と春華の見解だった。
「ほら、もうお姉ちゃん見るから、受付に行っていいよ」
そう言うが、ついでなので、受付がないもう一つの入り口から入る。
もしかしたら、菊池が女子に捕まっているかもしれないので、受付から離れたところを案内する。どうせ妹のことしか頭にないので、その絵以外は素通りなのだ。しばらく二つの絵を見比べたあと、朔華は藍華のほうを見て笑った。
『大丈夫だね』
何が、かはよく分からなかったが、とりあえず姉が笑ったのでよしとする。対して追及されたくないのは、自分なのだから。
「お姉ちゃん、もう出るね? だから早く、受付に戻って」
入ってきた扉から出て行こうとする姉を不思議に思った。いつもの姉なら、
『あいちゃんとはるちゃんがお世話になっている先生に挨拶する』
くらいは言いそうなのに。不思議そうにしているのがばれたのか、朔華はふふ、と小さく笑った。
「また今度の楽しみにしておくの。だってほら、そのほうが、わくわくするし」
よく分からなかったが、とりあえず頷いておいた。今日の姉の発言は、意味が分からないものが多いと思う。
「じゃぁ、あいちゃん。頑張ってね」
何に対しての『頑張れ』かは確かでないけれど、とりあえず菊池と顔を合わせるところから始めなければならなかった。
朔華が階段を降りていくのを見送ってから、よしっとこぶしを握り締める。くるりと踵を返して、正しい入り口から顔を覗かせる。
姉との会話が漏れているので、帰ってきたのが分かっているだろう。
「先せ……」
呼ぼうとして、途中で止まった。
「寝てる……?」
確かめるようにそう言うと藍華はそっと教室に踏み込んだ。受付の机につっぷし、珍しく上に白衣を着ていないスーツが皺になっている。
きれいに整えられているはずの髪も乱れ、ついでにメガネもしたままだ。意地悪そうな目が閉じられているせいか、なかなか女性受けしそうな顔が目立つ。
「先生。帰ってきましたから、寝るんなら自分の教室に帰ってください」
そう言っても、返事は返ってこなかった。目が閉じられているせいで、気まずかった雰囲気もない。いや、あたしが勝手に気まずがっているだけなのだが、と藍華は一人ごちる。
どうしてか、あの失恋話を聞いて以来、話をすることがためらわれた。自分が頼んで、話してもらったくせに、どうしても、気まずかった。
「先生の、アレも、あたしの思いと、一緒、ですか?」
本当に? 自分のはもう吹っ切れた気がする。朔華と話してから、少し軽くなった気がする。だから改めて、憧れだと実感した。だけど。
「先生、もう、何年もそれが忘れられないのなら……吹っ切れないのなら、それはもう、立派な恋じゃないんですか? あたしの持っていた感情と、先生が持っていた感情は、もしかしたら」
もしかしたらと、そうずっと考えていた。あの日、話を聞いてから。春華と話してから。
「違うのかもしれませんよ」
どうして、何も語らないの……? そのときだ。いきなり足音が聞こえてきたのは。ここは四階。
四階で何かをしているのは、美術部だけ。つまり、四階に来ているということは、目的は絶対美術部の展示。
どうしよう。なぜかこの現場を見られてはいけない気がした。しかし、隠れる場所は見つからない。少し離れたところに教務室に繋がる扉があるが、そこへ言っている時間はもうないと分かる。開けっ放しにしていた扉から、人が入ってくる。
思わず、絵を飾っている移動式の仕切りの後ろに隠れた。丁度大きな仕切りだったので、足元も見えないはずだろう、と希望の入った予測をする。
入ってきたのは一人の女生徒だった。ネクタイの色から、春華と同じ二年生だと分かる。そしてなぜか、この前春華が話していた『菊池先生のことが好きな』女生徒のことを思い出した。
「先生……?」
か細い声で、女生徒は聞いた。
「どうして、ここにいるんですか」
それでも、菊池は起きなかった。
「先生、先生は……、恋をしますか」
声が、わずかに震えていた。藍華の手も、知らず震えていた。
「私は、先生のこと、好きです」
起きていないのに、届かないのに、あなたは、その人に思いを告げるのですか?
「先生が、どう思おうが、関係ないんです。生徒にしか、思われなくても。でも、先生を、そういう目で見てる生徒もいるんだって知ってください――――知るだけで、いいんです」
それは、なんて歯痒い想いだろう。
「返事をくださいとも言いません。付き合ってくださいとも言いません」
だけど、どうか、知っておいてください。
「私は、あなたが好きです」
藍華は何も言わず、立っているままだった。自分が知る限り、菊池に対しての二度目の告白は、まだ、現在形の告白だった。『まだ』好きだと、彼女は言った。
目をつぶる。クリーム色の仕切りに身を任せ、耳をふさぐ。何も考えるな。何も感じるな。あたしには何も、関係ない。
先生に誰が告白しようが、その想いがどんな種類であろうが、あたしには関係ない。それでも、耳をふさいでも、入ってくる音がある。
彼女が去っていく、足音が聞こえる。でも、彼はまだ起きないまま。そっと、仕切りの後ろから出てくる。そして受付のところまで行くと、まだ菊池は寝ていた。
何も知らないまま……、あの女生徒がどんな思いで告白したか知らぬまま。
「先生」
起きてください。
「先生」
お願いだから起きて。そうしないと、あたしは何かを自覚してしまいそうになる。
「先生は……どうしてみんなに優しくて、そして」
みんなに冷たいの?
心に、何かが形作られていく。こんな感覚、知らない。
コンナカンジョウ……シリタクナイ。
「先生!!」
思わず出した大声に、菊池はやっと身じろぎした。
「ん、平田?」
寝起きの声は、いつもより低くて、そして少しだけ甘い。腕をつかまれて、とっさに振り払った。何かが、体を流れた。電流のようなものが、流れた。
「何、してるんですか?! 誰か、来たんじゃないんですか?」
気まずさを、紛らわせるための言葉は、裏返った声でゆれた。
「お前、親切にしてやった俺に向かってなにその口調」
「ありがとうございました」
「うわ、棒読み」
そう、これでいい。このままが、あたしたちにとって一番いい雰囲気。どうか、このまま……進んで。