4.4.1 今夜のパースはヘトヘトで
その十日後は雪の激しい日でした。授業が終わっても、外を出歩く生徒は一人もいません。けれどもルナリアの着ている服は特別製、どんなに雪が降ってもへっちゃらです。おまけにぜんぶクリーム色ですから、雪が降っても見た目はたいして変わりません。ルナリアはいつものように森へ入りました。
また狼の背に乗せてもらい、パースのもとへ向かいます。ルリメアゲハたちは、温かい蛍色のキノコの上で羽を休めています。その横を通り過ぎると、またいつもの焚き火が見えました。
けれどもパースの姿が見えません。
「パース、どこにいるの?」と呼びかけます。
すると「ここだよ、ここ。家の中」と、パースの声がしました。雪でキャンバスを汚さないよう、部屋で作業をしていたのです。どうも手が離せない状態だったらしく、ルナリアは三十分ほど待たされることになりました。
「ごめん。待たせて」と出てきたパースは、太陽を浴びた氷のようにキラキラしてました。全身、鉱石の入った絵の具でベタベタです。とても淡い水色ですから、闇夜でもくっきり見えます。
「もしかして、絵の具こぼした?」
ルナリアが聞くと、パースは「へへへ」と苦笑い。
個展に向け、慌てて作品を描いていたものですから、疲れてうっかりしていたそうです。
パースがいるのは結界の向こう側、ルナリアにはどうすることもできません。
「今日は休んでて。私、帰るから。邪魔してごめん!」
ルナリアは狼へ駆け寄り、声をかけます。
「疲れなんて気にしなくていいよ。ちょっと絵を見てほしい。ルナリアの感想を聞きたいんだ」
パースに頼まれたルナリアは、狼の背から降りました。
パースがふらふらの足取りで、小屋の陰から二本の杭を出しました。杭の先にはボロ布がくくられています。二本の杭を広げて地面に突き刺すと、小さなひさしができました。小屋の入口までつながっているので、ちょっとくらいなら雪も雨も避けられます。
「これがあれば、外でも描けるじゃない!」
ルナリアが言うと、パースは手を横に振りました。
パースいわく、ずっと広げておくわけにはいかないそうです。雪が上にどんどんたまって壊れてしまうのです。絵を描くときは雪のことなど気にしていられません。そんなときに崩れてきたら大変。絵は台無しです。
「お山の形にしたら」
「いや、この布じゃあもたないよ」
山型にしたら積もりませんが、だんだん水が滴ってきます。それにこの布、そもそも穴だらけなのです。気をつけないと雪が吹き込んでくるので、絵を描くときは使わないそうです。
「その布、こんど街へ行ったときに買ったら? いまは丈夫で水濡れに強い生地もあるの。杭ももっと太いのにして、斜めにピーンって張りさえすれば、長く使えるはず。ぜんぶ合わせても絵の材料よりずっと安いと思うけど」
パースは腹を抱えて笑いました。
「そうするよ。家は絵があるから火は使えないし、外で描く方が僕には合ってる」
パースは身体の雪を払って小屋へと戻り、一枚のキャンバスを持ってきました。
それは翼の生えた女の子の絵でした。その子はきらきらした雪色の服を着けています。暗い夜に現れた天使のよう。胸元で開いた両手には、青い宝石がたくさんあります。石はあまりに多いので、手からぽろりぽろり落ちています。落ちた先は深い闇の中。夜より暗い色で描かれたその場所に、鉱石の光はありませんでした。
「この女の子って、もしかして……」
「ルナリアだよ」
パースの答えにルナリアは大笑いです。
「あれ? 私ってこんな顔だったっけ? ぜんぜん似てないよ」
「わざと変えたんだよ。僕はルナリアを売り飛ばすなんてしない」
それを聞いて、ルナリアはぷっくり膨らせた赤いほおを引きます。
そして二人で笑い合いました。
「で、絵の感想は? ルナリアならどう思う?」
「これ、元は私が考えたものよ。あのとき、めいいっぱいきれいな魔法をかけたんだから。絵の感想も同じよ。『これ直した方がいいよ』って言えるセンスもないし」
「センスがないって、冗談が過ぎるよ。ほんとにそうなら、あんな魔法使えないはず」
「ありがとう」
ルナリアは照れ顔で言いました。
「じゃあ、ちょっとセンス認めてくれたから言うね。なんだか皮肉な絵、私はそう思った」
「ありがとう。その一言でも充分参考になったよ」
パースはそっと絵を小屋の中にしまいました。さっきまでふらついていたのに、身体が少しシャキッと戻っています。また小屋から出てくると、こんどはひさしをたたみ始めます。
「いま片付けなくても……杭だけ抜いて倒しておけばいいのに。あんまり雪をかぶると風邪引いちゃうよ」
「大丈夫、真冬でもこのとおり絵を描いているんだ。風邪なんか引かないよ。それに杭を倒すだけだったら、雪に埋もれる。あとで取り出すのが大変だし、濡れたままだと腐って使えなくなるんだ」
そう言っている間に、パースはひさしを片付け終えていました。
頭の雪を払っています。
そんなパースの姿を見て、ルナリアは疑問に思いました。
「それにしても……どうしてこんなへんぴなところに住んでるの? 寒いし雪はかぶるし、こわ~い魔法使いの学校がそばにあるのよ。街からも遠いはず。絵を売りに行くのなら、街のそばにいた方が便利な気がするけど」
ルナリアの言葉にパースは首を横に振りました。
「僕は南西領から逃げてきたんだよ。身を隠さなきゃならないし、街のすぐそばだと人目につく。この領では身を隠せる森はここしかないんだ。最初は街に近づくことすらできなかったから、その間に森での暮らしにすっかり慣れちゃって、もう住みたいと思わなくなったよ」
パースは「ははは」と笑いながら答えます。
「じゃあ、どうしてこの場所に? 学校には人を宝石に変える魔法使いがいっぱいいるのよ。その気になれば杖の一振りで飛んできて、宝石にされちゃうかもしれないよ。狼の親子みたいに変な魔法かけられちゃうかもしれないし。もっと離れた場所はいっぱいあるでしょ」
パースがきょとんとした目つきでルナリアを見ています。
「え? それ、僕と別れたいの?」
ルナリアの口がぱっかり開きました。
「なんでそうなるの! 違うって、ただ聞いてるだけなの。別れたかったらそもそも来てないから!」
「ごめん……」
パースが頭を小さくペコリと下げます。
頭に乗っていた雪がボサッと音を立てて落ちました。
彼は帽子をかぶっていますが、薄い布で作った粗末なもの。ルナリアのクリーム色の服と違って雪がしみこんできます。とても冷たかったはずです。けれどもパースはなにも言いませんでした。きっと感覚が鈍るほど疲れているのでしょう。
いや、それだけではありません。ずっと黙って耐えていたのです。ルナリアはそのことに気づけませんでした。パースを見つめながら、小さくくちびるを噛みます。
――失敗した。
さっき、パースは真顔でした。それで出たのがあの言葉です。いまさら帰るなんて、ルナリアにはできませんでした。
「どうしたんだい? 考え込んだ顔して」
パースにそう言われたルナリアは大慌て。両手を激しく左右に振ります。
「なんでもない、なんでもない……続けて」
声がすっかりうわずっています。
するとパースが笑いかけました。でもそれは本心なのでしょうか。ルナリアはずっと緊張した面持ちです。さっきの一言でなにが本気でなにが冗談なのか、つかめなくなってしまいました。ルナリアに心を読む魔法は使えないのです。
「ここに住んでるのは単純、僕にとって最高な場所だから。よほどのことがない限り、離れるつもりはないよ」
ルナリアの緊張を吹き飛ばすくらい、パースはさらりと言いました。
「ここは動物たちとルリメアゲハに守られているんだ。僕の周りにいる動物たちはみんな大きくて、魔法使いだって倒せるほど力がある。人さらいも来やしない。それに石の悲鳴も聞けるほど勘が鋭いんだ。もし彼らが近づけば教えてくれる。狼さんの話で心配になったようだけど、僕の周りにはルリメアゲハの巣がいっぱいある。だからここには近づけない。危ないように見えてここほど安全な場所はないんだよ」
「そうなの……でも私、狼さんみたいな身体の動物、他で見たことないの。パースがいるのはどこの領?」
「ここは西方領、魔女オルカの治める領だ」
そう言い切るパースは、澄んだ川のようでした。
「やっぱり、そうだったんだ……」
ルナリアはパースに届かない声でつぶやきました。
西方領はルナリアがいた領です。だから『ガラスの壁の向こう側』の絵が描けたのです。あの構図はルナリアの家の近くで描いて生まれたもの。西方領にいなければ描けない代物です。南西領から逃れたパースは西方領で活動していたのです。そしてオルカと出会い、ノルン先生の部屋にあった『ガラスの壁の向こう側』とそのオリジナルを売ったのです。
「いまオルカはどうしているの? あの女は私に人さらいをよこしたのよ」
ルナリアが尋ねると、パースは暗い顔になりました。
「オルカは人さらいを続けている」
「どうして? あの女は改心したんじゃないの?」
「いや、元のままだよ。だけど他の魔法使いとは違う」
「どこが? 魔法使いはさらった人を宝石に変えて、尽き果てるまでこき使うのよ」
ルナリアの言葉にパースは首を横に振りました。
「たしかにオルカは人をさらっている。でも、絵を売ったときに知ったんだ。彼女は捕らえた人たちを宝石にはしていない。さらわれた人々は彼女の住む大きな城で働いてる。人の姿のままでね」
「どうせみんなボロボロになってるんでしょ」
パースはまたしても首を横に振りました。
「いや、むしろ元気だったよ。囚われた人たちは日の出ている間だけ働いて、夜は地下で宴をしていた。みんな外に出られないこと以外は満足そうだった」
「幻惑の魔法にかかってなかった? 魔女の力を使えばいくらでもだませるのよ」
ルナリアは杖を一振りしました。宙に光の球が現れてどんどん大きくなります。球はたちまち銀色のペガサスに姿を変えました。ルナリアの背よりちょっと高くまで膨れたペガサスは、ルナリアのほほをペロペロとなめました。まるで現実にいるかのように。
「僕も疑ったよ。でも銀の鉱石で描いた絵を彼らが握っても、なにも起こらなかった。僕の絵は魔法の力に触れるとぜんぶ灰色になってしまう。それに魔女の力でもってしても鉱石の色は繕えない。だから彼らはほんものの人間だ。もし幻だったとしても、ルナリアの方がはるかに上手くやると思うよ」
「じゃあ、どうして人をさらうの? おかしいよ」
ルナリアが聞きます。
「それはオルカから聞いたよ。『魔法使いは決して逆らえない、恐ろしいものだと知らしめなきゃならない』と。『どうか秘密にしてほしい』と頼まれながらね」
「なにそれ? 意味不明!」
ルナリアの高い声が森に響きます。
「きっとオルカは、狭い魔法使いたちの世界で、体裁のために生きているんだ」
パースが目を伏せてボソリと言います。
「悲しい人だよ」と。
「私にはぜんぜんわかんない」
「僕も同じさ」
パースがあきれかえりながら、両手を肩の横で天に向けました。
ルナリアが知らない間に、子ども狼たちが、ほんのり温かいペガサスに身体をすりよせていました。
パースの側にいた父親狼はもう帰ってしまったのです。
ルナリアは杖の一振りでペガサスを消しました。
「うわっ、消えちゃった」
「せっかく暖かかったのに」
「ルナリアのケチ」
「早く食っちまえばよかった」
「あれを食えばきっと腹が温まる」
「こんど会ったら食ってやる」
「いやいや、いますぐ出せ!」
子ども狼たちがペガサスをねだります。
あの光は人肌ほどの温かさで、真冬にはぴったり。すっかり気に入ってしまったようです。
「ダメ! 食べてもなにも起こらないよ。あごの下からすり抜けちゃう」
「ちぇっ。じゃあ今日のデートは終わり。さっさと帰る!」
「「「「「「さっさと帰る!」」」」」」
子ども狼たちがルナリアに『さっさと乗れ!』とばかりに身体を押しつけます。
だけど今日のルナリアにとっては、都合のいいタイミングでした。これでパースの心を煩わせることなく、帰れるのですから。
ルナリアは狼の背に乗って「じゃあ、またね」と手を上げます。
「僕もまた作品を用意しておくよ」
無邪気に手を振るパースに見送られながら、狼は走りだしました。




