4.1.2 画家パース
「あなたが……パース?」
ルナリアの声に少年が振り向きます。黒髪にちょっぴり焼けた肌の色、全身にぽつぽつと、泥を跳ねたようなぶち模様があって、銀とオレンジに輝いています。手やボロボロの袖も同じ色に染まり、光の絵の具で汚れた顔は、どこかあどけなさを感じさせます。
「そうだよ。君がルナリア?」
声変わりは済んでいます。でも見た目は十代、それも前半でしょう。ルナリアと年は離れていないようです。
「そうよ、私がルナリアよ」
くちびるを震わせながら答えます。そしてゆっくりと、パースの方へ歩きだします。風に押され、吸い込まれているようです。その足取りはだんだん速くなります。遠くのものをつかむように両手を伸ばしました。そんなルナリアの前に黒い影が飛び込んできました。ルナリアを乗せていた子ども狼です。急に割り込んでくるものですから、狼の身体にぶつかってしまいました。
「ちょ、ちょっと、邪魔しないでよ!」
ルナリアは両手で狼をはたきます。けれども相手は大人の丈を超える身体です。ルナリアの力ではびくともしません。それでもパンパンたたきます。
「ルナリア、どうか落ち着いて。これをよく見て!」
パースが弓矢を持ちながら、ルナリアより左の空を指しました。
彼の姿が見えるよう、狼が下がってルナリアの視界を開けます。
パースは弓を構え、矢を遠い空に向けました。
やじりは銀にまたたき、弦は月と炎の輝きを放っています。弦が引かれるにつれ、黒い弓がぐっとしなります。
パースは腕がパンパンに張るほど弦を引き、矢を放ちました。
矢は空をのぼる流れ星のように飛んでいきます。やじりが光っているおかげで、闇夜でもはっきり見えます。けれども空高くのぼりきる前に、青い火花をあげて落ちてしまいました。
「ガラスの壁が、ここにもあるのね……」
ルナリアは力なく言いました。
パースのもとへ飛び込むことはできないのです。
「魔法でできた結界だよ。きっと学校ぜんぶを囲ってる。破れないようずっと誰かが守り、見張っているはずだ」
パースがルナリアの目を見据えながら言いました。その声の中に静かな怒りが煮えています。結界に対する思いは壁越しでもはっきりわかります。それはルナリアも同じでした。
「「「「「「「父ちゃん……」」」」」」」
ルナリアの横で七頭の狼が悲しげな声をあげました。結界の向こうにある木々の陰から、母親よりさらに大きな狼が現れました。どうやら彼が七頭の父親のようです。
「母ちゃんはどうした? 今日も来ないのか」
父親狼が野太い声で言います。
「母ちゃん魔女に見られてる」
「ねちねち魔女に見られてる」
「目のつり上がった怖い魔女」
「傷つけることしか能がない」
「あいつにここを知られたら」
「俺たちだってもう会えない」
「だから遠くの森でお留守番」
父親狼がルナリアのほうを向きました。
「じゃあその子は?」
ルナリアに鋭い視線が刺さります。
「私、ルナリアです。パースさんの絵が好きでここに来たんです」と、慌てて自己紹介します。
「ルナリアは魔女の子」
「でも大丈夫、とってもいい子」
「ひどい魔法は使わない」
「他の魔法使いとは大違い」
「ほら、石が笑ってる」
「ルリメアゲハも認めてる」
「俺たちの味方だよ」
子ども狼たちがみんなルナリアを良く言うものですから、父親狼はすっかり信用しました。
「じゃあ、ルナリアにお願いしてみよう。どうかこの忌まわしい結界を破ってくれないか」
ルナリアは首を横に振ります。
「ごめんなさい。魔法の腕が未熟でできないんです」
「ぜんぶじゃなくていい。身体一つ通ればいいんだ。できないか?」
「いえ、できません。私の力で破れるなら、とっくにそちらへ行っています」
――そんなことわかりきっているでしょう!
ルナリアは心の中で叫びました。
だけど父親狼は、それほどルナリアの魔法に期待していたのです。話を聞くと、これまでなんど体当たりしても結界は破れなかったのです。高さは人の丈の倍以上、体重だって大人三十人分はあるでしょう。そんな巨体が助走をつけてぶつかっても、ダメだったのです。
でも光の魔法をぶつけても、青い宝石の輝きになって散ってしまいます。ルナリア一人の魔法では破れません。ルナリアはそのことを、胸を痛めながら父親狼に説明しました。
「そうか……」
狼はとても残念そう。
ルナリアはなんだか申し訳ない気持ちになりました。
「狼さん、嘆いてもしかたないよ。他の方法を探そう。きっと見つかるはずだから」
パースが父親狼の太い脚をさすります。
その間、狼はルナリアのほうを向いたまま、目を伏せていました。
「ルナリア。落ち込ませてすまない、俺が大人げなかった」
「そんなことないよ。狼さんだけじゃない。誰だって魔法の力に期待しちゃうもの。だって私もそうだったから」
ルナリアは母親と暮らしていたころを思い出しました。ルナリアも母親の病気を治すよう、魔女のオルカにお願いしたのです。まぁ、彼女は助けてくれませんでしたが……。
いまの父親狼も、あのころのルナリアと同じ気持ちなのです。
「もし俺でよければ、声をかけてくれ。ルナリアが望めばできる限りの力を貸す」
父親狼はルナリアにくるりと背を向け、暗い森へと歩きだします。
「父ちゃん、帰っちゃうの?」と子ども狼が声をかけました。
「狩りにいく。いつか結界が破れるときに備えないと。お前らにも分かるだろう」
父親狼はそう言い残して、黒い木々の向こうに消えていきました。
「あ~あ、行っちゃった」
パースはちょっぴり苦笑いです。
よく見ると、黒いキャンバスには銀色の狼がいました。けれどもまだ途中、狼の形しかありません。どうやらパースは、木陰に潜む父親狼を描いていたようです。
「ご、ごめんなさい。私、邪魔しちゃって」
ルナリアが慌てて頭を下げます。
「気にしなくていいよ」
パースは笑いながら、せわしく両手を振ります。
「動物たちだって都合があるんだ。僕がどんなに熱を入れて描いてても、『水飲みに行く』とか言って消えてしまうんだ。すんなり描けたことなんて一度もないよ。ルナリアが悪いわけじゃない」
「それならいいけど……」
ルナリアはうつむいたままです。
「そうだ! せっかくだから絵を見るかい?」
「もちろん。そのために来たんだから」
「狼たちから聞いたよ」
パースは笑い混じりにそう言って、小屋の中に消えました。どうやら彼も動物たちと話せるようです。
パースが丸太の小屋から次々とキャンバスを出してきます。ぜんぶ暗闇に棲む動物たちの絵です。たき火に照らされて、炎の色にきらめいています。だけどどの絵も未完成。
ルナリアが見たパースの絵は、たとえ幻のものであっても、現実にいるかのように描かれています。あのペガサスの絵だって、いまにも飛び出してきそうでした。
でもここにある絵は、それとはほど遠いものばかりです。
「ほら、これぜんぶ逃げられたあとだよ。今日だけじゃないんだ、だからどうか気を落とさないで」
「そうだ絵描きの言うとおり」
「父ちゃん、冬の支度中」
「冬になれば獲物は減っていく」
「だから熊といっしょで太るんだ」
「父ちゃん身体でかい。だからよく食べる」
「絵描きのパースだから手伝うけれど」
「ずっとはいられない」
パースの言葉につけ加えるように、子ども狼たちが話します。父親狼のことは、彼らが一番知っているのです。
「わかった、気にしないことにする!」
ルナリアはパースの絵に目を戻します。そしてしばらくの間、壁の向こうできらめく絵に、瞳を輝かせ、ふけっていました。




