1.3.1 迫りくるトリオ
平原に入ってしばらくすると、辺りはすっかり真っ暗になってしまいました。さいわい空は晴れていて、月が見えます。ルナリアは闇夜に慣れていましたから、月明かりさえあれば家に帰れます。
でも、雪の積もった夜の平原は、危険がいっぱいです。夜になると空気が冷たくなり、身体の熱を奪います。おまけに木がほとんどないので、風がびゅうびゅう通り抜けます。ルナリアはその風に抗いながら、家に向かって歩き続けます。疲れても休んではいけません。水も凍り付く平原で休んでいたら、凍え死んでしまいます。途中に泊めてもらえるような家はありません。身体が消耗しないよう、できるだけ早く家に着かなければならないのです。
もう一つ、恐ろしいものがルナリアに迫っていました。背中からかすかに雪のすれる音がしたのです。
シャリ、シャリ、シャリ。
そんな音がどんどん強くなっていきます。
ルナリアは振り返りました。すると白い息の向こうに、月明かりに照らされた影が三つ並んでいたのです。影はどんどん近づき、どんどん大きくなっていきます。大きくなるにつれ、うごめく影は人の男だとわかりました。
男たちの声がします。
「娘が一人歩いてる」
「夜道を一人歩いてる」
「どうやら針子の娘らしい」
「作った服すべて売り切った」
「きっと腕はたしかだろう」
「役に立つこと間違いなし」
話の内容にルナリアはゾッとしました。三人の男が言う『娘』は自分のことだと思ったからです。男にかまわず歩き続けます。けれども、男たちはずっとついてきます。どんどん、どんどん、近づいてきます。彼らのほうが足が速いのです。
「娘はとても困ってる」
「母ちゃん病気で困ってる」
「魔女に乞うほど困ってる」
「よほど切羽詰まってる」
「かわいそうだがどうでもいい」
「そんなの俺たちゃ関係ない」
三人の狙いは間違いなくルナリアです。街で話したことをなぜかすべて知っています。おそらくずっと狙っていて後をつけてきたのでしょう。考えるだけでゾッとします。三人の男はそんな気持ちを知っていて、ルナリアの耳に入るよう、わざと大声で話しているのです。
ルナリアは走りだしました。でもここは雪の上。春の草におおわれた平原と違って上手く走れません。一方、男たちは雪にも夜の闇にも慣れているようで、みるみるうちに距離が狭まっていきます。
話し声もどんどん大きくなりました。
「魔女に話しかけるなどいい度胸」
「世間知らずのバカ娘」
「だから夜道を一人歩いてる」
「こりゃさいわい、都合がいい」
「さぁ、とっとと連れて行こう」
「バレないように連れて行こう」
三人の男は人さらいだったのです。人さらいは新しい奴隷を探しています。ルナリアのようにひとりぼっちで歩いている人を狙って捕まえて、売り飛ばすのです。逃げられればいいのですが、人さらいの裏にはたいてい悪い魔法使いがいると聞きます。魔法使いは捕らえた人が逃げられないよう呪いをかけ、大きな農場や工場で一生こき使うのだと、ルナリアは母親からさんざん聞かされていました。
ルナリアの父親が帰ってこないのは、悪い魔法使いに捕まっているからだと。
人さらいに捕まったら、もう二度と母親に会えません。ルナリアは逃げる方法を必死に考えました。でも、もう手遅れです。人さらいは小さな家一つ分の距離まで迫っています。どんなに逃げても、女の子のルナリアは大人の男に勝てません。おまけにここは広い平原ですから、隠れる場所もないのです。持っているものは、仕事に使う服の生地と、汚れたパースの絵にわずかなお金。武器はありません。
「助けて~! 誰か、助けて!」と、ルナリアは大声で叫びました。でも、周りには人さらいの三人しかいません。
気づけば男たちは半分の距離まで迫っていました。不気味な笑い声が聞こえます。ルナリアが動く間もなく、いっせいに襲いかかってきました。
声は出ませんでした。あっという間に猿ぐつわをはめられてしまったからです。さらに手をつかまれ、背中へと引っ張られました。男たちの力はとても強く、どんなに暴れても手が離れません。人さらいは目も口もある人間ですが、腕っ節の強さや乱暴さは、魔女オルカが作った人型の怪物そっくりです。
ルナリアの後ろには縄を持った男が構えています。どうやら男たちは後ろ手に縛る気です。
「このでけぇ袋、邪魔だ。取るぞ」
ルナリアは身体を押さえつけられたまま、背負い袋を引き剥がされました。男たちがあまりにも強引に取りあげるものですから、袋から中身が出てしまいました。服を作るための生地が雪の上に散らばり、パースが描いたペガサスの絵がルナリアの目の前に落ちました。
銀色のペガサスは、月明かりを受けて光り輝くはずでした。でも砂で汚れてしまったいま、ペガサスの身体は真っ黒のままです。
それなのに、ルナリアの頭に銀色のペガサスがいました。闇夜にふんわりと浮かびあがったのです。その姿は画家パースの描いた絵に棲む、ペガサスにそっくりでした。それは心の中でどんどん膨らんでいき、あっという間に人の背丈を超えていきます。人を踏み潰せるほどの大きなペガサスは、背中の翼をはためかせながら、強く、強く輝きます。放たれた銀色の光が、ルナリアの目に突き刺さりました。
視界は真っ白になり、なにも見えません。夜だったことを忘れてしまうほどです。身体を引き裂かれるような痛みはありません。さるぐつわはまだかかっていますが、男たちの手は離れていました。
ルナリアはとっさに立ち上がり、猪のようにまっすぐ走りだしました。雪を蹴るたびに、真っ白だった視界はどんどん暗くなり、辺りはたちまち闇夜に戻ってしまいました。
逃げながらちらりと後ろを見ます。人さらいたちは追いかけてきません。白い雪の上で腰を抜かしていたのです。彼らのそばには大きな大きなペガサスが立っていました。ペガサスは銀色の光を放ちながら、人さらいをにらみつけ、左の前足でしきりに雪を蹴っています。いまにも駆け出しそうです。
「このペガサス、どこから来た?」
「ペガサスなんてこの世にいない」
「ではなぜ、ペガサスがここにいる」
「誰かが魔法で呼んだのだ」
「この娘に魔法など使えない」
「魔法使いはどこにいる?」
人さらいたちは腰を引きずって後ずさりしながら、辺りをきょろきょろ見ています。その間に、ルナリアは足音を殺して逃げ続けました。
銀色に輝くペガサスは白い翼を広げ、大きく羽ばたき始めます。けれども飛び立つわけではありません。巨大な翼で人さらいを脅す、怒った獣の動きでした。
それにしても、このペガサスはいったいどこから来たのでしょう。ルナリアも考えてしまいました。人さらいたちが言うように、ペガサスはお話の世界にしかいません。そんな動物を呼び出すなんて、魔法の力としか考えられません。ルナリアは光の球こそ出せても、ペガサスを呼ぶことはできないのです。
――きっといい魔法使いが見ていて、助けてくれたのよ。
ルナリアはそう思いました。
でも、ここにいるのはルナリアと人さらいの三人だけ。魔法使いはどこにも見当たりません。魔法で姿を消しているのでしょうか。透明になって歩いているときに、ルナリアが襲われているのを見て、銀色に輝くペガサスをけしかけたのでしょうか。
それにしても、なぜペガサスなのでしょう。獰猛な生き物はこの世にたくさんいます。ルナリアにとっては狼や熊のほうがずっと怖いです。おまけにこのペガサス、どこかで見たことがあります。大きさは違えど、パースの絵に描かれたものそっくりです。毛の乱れ方、胴についたわずかな傷も同じ。魔法使いはルナリアの心をお見通しで、大好きなペガサスを選んだのでしょうか。
「おい、娘が逃げるぞ」
人さらいの声がして、ルナリアは我に返りました。人さらいの手から逃れたとはいっても、まだ姿が見える距離しか離れていないのです。人さらいの三人が巨大なペガサスをかわして走ります。足の速さは人さらいのほうが上、このままでは追いつかれてしまいます。ペガサスが守ってくれなければまた捕まって、こんどはほんとうに連れ去られてしまうでしょう。
ルナリアはひたすら逃げ続けながら、ペガサスが自分を守ってくれるよう祈りました。夜空がちょっぴり明るくなった感じがします。目の前に自分の影がくっきり映ります。それに気づいたルナリアはふと後ろの空を見ました。
すると月明かりしかない冬の夜空に、銀色の光を放つ巨大なペガサスが飛んでいたのです。その動きは画家パースの絵に棲んでいたときとは大違い。風を蹴りながら走る姿は本物の馬のようです。まるで天国から舞い降りる天使みたいに、大きく羽ばたきながら、音を立てず、人さらいを遮るよう着地しました。そしてルナリアを守るように翼を広げ、人さらいの行く手をふさぎました。
「魔法使いめ、どうしてこんな娘をかばうのだ」
「あとで主に報告しよう」
「主はとても強いお方、たとえ魔法使いでもただではすまんぞ」
どうやら人さらいたちの裏には、悪い魔法使いがついているようです。魔法で呼ばれたペガサスをさし向けられても手を引かないのは、魔法使いの味方がいるからです。あわよくば襲いかかろうとする人さらいの眼差しを、ルナリアは見逃していませんでした。
もしかしたら、人さらいは魔法使いから力を借りているかもしれません。ペガサスに怯えているのは見せかけで、きっとその気になれば魔法を使えるのでしょう。もしそうだとしたら、悪い魔法をかけられて捕まってしまうかもしれません。そう思ったルナリアの心臓はバクバクバクバク鳴っています。もう息がつまりそうです。
「魔法使い様、ここにいるなら、どうか人さらいをやっつけて」
ルナリアはささやき声で、ペガサスを呼んだ魔法使いにお願いしました。でも状況はまったく変わりません。それは人さらいを脅すだけで、倒してくれる様子はありません。
人さらいたちが不気味な笑い声をあげています。このペガサスは自分たちを殺せないのだと、勘づいたようです。もうルナリアを守るものはありません。
ルナリアの頭にいろんなものが浮かびます。生地屋の店主、今朝までいた石を積んだだけの粗末な家、木の枝の火に照らされ、オレンジに輝くペガサスと母親の寝顔。大切なものに囲まれた日々は今日で終わってしまいます。
そんなルナリアをなぐさめるかのように、銀色のペガサスが暖かな炎の色に変わりました。
人さらいたちの話し声がまた聞こえます。
「おい、あのペガサス、色が変わったぞ」
「魔法使いがまだここにいる」
「ならば主の力を借りようか」
「どうせ、いつもの変身魔法だろ? 自力で元に戻れない」
「魔法を解く代償で、給料タダにさせられる」
「だが主の望みはあの娘。捕らえなければひどい目に遭うだろう」
「たしかに主の怒りは恐ろしい。給料タダより恐ろしい」
「それならしかたない」
「力を借りて、さぁ、とっとと捕まえよう」
話を終えた人さらいたちが、いっせいにルナリアのほうを向きました。その姿を見たルナリアは、白い息を吐きながら、身体をガクガク震わせました。彼らの顔には目と口がありません。市場で会った魔女オルカが作った怪物と同じ顔。人さらいの三人は彼女の手下だったのです。