1.2.2 市場の魔女
ルナリアは服の材料を仕入れるため、生地屋へ向かいます。
そこは母親の行きつけで、いっしょに行ったルナリアもすっかり顔なじみです。
「おぉ、今日は一人かい?」
ルナリアを見るなり、生地屋の店主が声をかけてきました。
生地屋の店主はとても気さくな男です。いつもは明るい笑顔で出迎えてくれます。でも、今日の店主はなんだか固い面持ちです。
ルナリアはそんなことおかまいなし。「うん、一人よ」と素直に言いました。
「どうしてそんな危ないことを? 街のまわりには人さらいがいる。ルナリアみたいなかわいい女の子が一人で歩いていたら捕まっちまう。なぜだ、母ちゃんはなにしてる?」
ルナリアは店主に、母親が病気であること、組合で服の売値を半値にされたこと、母親の病気を治す薬が買えなかったことをすべて話しました。そして背中の袋から、ペガサスの絵を出しました。画家パースの描いた闇夜は砂に汚れ、輝いていたペガサスは光を失っています。目利きの男に価値をおとしめられたのです。ルナリアはその絵を生地屋の店主に突き出しました。
「どうか、この絵をこっそり買い取って。いまは汚れてしまったけど、ほんとは闇がもっと深くて、ペガサスも闇に負けないほど光り輝いていたの。ほんとは、ほんとはとってもきれいな絵なの。だから、お願い」
ルナリアは店主に絵を買うよう頼み込みました。けれども、店主は首を横に振りました。
「俺にはその絵のほんとうの価値はわからない。元はルナリアの言うようにきれいな絵だったのだろう。でも、汚れてしまったいまでは俺の家にも飾れない。それに組合の目がある。ばれるとお互い面倒なことになる」
店主の言うとおり、この市場では組合を通していない商品のやりとりが禁じられていました。
「その絵はルナリアが持っているからこそ価値がある。きっとだいじな宝物だったんじゃないか」
「そうだけど、早く薬を買わないとお母さんが」
たしかにパースの絵は宝物です。けれども母親の病気を放っておけば、どんどんひどくなっていき、このままでは死んでしまうかもしれません。お金を集めようとルナリアは必死でした。
その姿を見た店主はパースの絵を引き取り、ルナリアの頭をそっとなでました。
「じゃあルナリアには特別、生地代を一割まけてやる。余ったお金を貯めて薬代にするといい」
生地屋の店主がそう言って、パースの絵を差し出してきたのです。ルナリアは目を丸くしました。
「俺は値引きをすると言った。絵を買ったわけじゃない。だからこの絵はルナリアのものだ」
パースの絵はふたたびルナリアの手に戻ったのです。
「この絵はルナリアの手元でこそ価値がある。きっと陰から支えてくれるはずだ」
ルナリアは服の生地を一割引で買い、パースの絵といっしょに背負い袋へと詰めていきます。お金は余りましたが、薬代にはぜんぜん届きません。これでは半月後も薬は買えないでしょう。けれども、値引きはもう精一杯。生地屋の店主もけっして裕福ではないのです。
「俺が隣の宝石商みたいに金持ちだったら、助けてやれたかもしれんが……」
店主が力なくつぶやきました。
生地屋の店主が言う宝石商は、店の見た目こそ質素な灰色で目立ちません。けれども店に入れば、きらびやかな黄金と宝石がたくさん並べられています。ルナリアはもちろん入ったことはありませんし、街に住む人の大半には用のない店です。宝石など、位の高い裕福な家しか持てないのです。
ルナリアが宝石の店を見ていると、男が三人出てきました。その後ろには、きらびやかな飾りをまとった女性がいます。女性の服は、氷河を舞う鳥の羽でできた上等な品物で、普通の人にはけっして買えません。まるで別世界の人でした。
「ルナリア、ひざまずけ!」
生地屋の店主がいきなり、小さく鋭い声を立てました。
ルナリアは「なぜ、どうして?」と店主に聞きます。ひざまずく理由がわからなかったのです。
すると店主は「オルカ様のお出ましだ」と言いました。
宝石店から現れた女性は、西方領を治めるオルカという魔女でした。この街で最も力のある魔女です。うわさではどんな魔法も使いこなし、空を飛ぶのも、変身するのも、人の病気を治すのも自由自在だと聞きます。でも、怒らせたらなにをされるかわかりません。だからみな、魔女を恐れていました。
周りの人たちは、魔女に目をつけられないようひざまずき、ひたすら地面を見ています。
けれども、ルナリアは違いました。立ったままずっとオルカのほうを向いています。
「オルカ様に頼めば、お母さんの病気治せるかな?」
ルナリアは生地屋の店主に言いました。
「バカなことを言うな、早くひざまずけ。呪われるぞ」
店主が叱りつけます。でも、ルナリアはひざまずきません。それどころか魔女のほうへ走りだしたのです。
「オルカ様!」
ルナリアが呼びかけると、三人の男が魔女との間に入り込み行く手をはばみました。
その男たちの姿を見て、ルナリアは思わず立ちすくんでしまいました。三人は遠くから見ればとても体格の良い人間の男です。でも彼らの顔に口や目はなかったのです。この三人は魔法で作られた人型の怪物でした。怪物の手が迫ってきます。怪物の身体は止まったまま、腕だけが熱したチーズのように伸びているのです。ルナリアは逃げられません。六つの手が手足と腰をつかんだ瞬間、大きな叫び声をあげました。
怪物の手は溶けたチーズとはぜんぜん違って、骨が砕けてしまいそうなほど強かったのです。ルナリアは両手両足を握られています。これ以上引っ張られたら身体が裂けてしまいます。周りの人はそんな様子を見ても、助けてくれません。ただ地面を見つめたまま、震えているだけでした。
「よい、ただの娘だ。下がれ」
オルカの声とともに、ルナリアを引き裂こうとしていた手の力が緩みました。いきなり手を離されたものですから、ルナリアはボトリと地面に崩れ落ちてしまいます。人型の怪物たちはスルスルと腕を縮め、ポンッ、ポンッ、ポンッと三つ音を立てて消えました。
「どうしたのだ。お嬢ちゃん」
オルカが声をかけます。
ルナリアは砂を吐きながら立ち上がり、向き合いました。
「オルカ様にお願いがあるの」
「どんな願いだ、言ってみなさい」
オルカがルナリアのもとへ歩み寄ります。背の低い少女に合わせて首を下げ、目をのぞき込むよう見つめています。その眼差しは怪物を使う女とは思えません。生地屋の店主が女の人ならこんな感じなんだろう、って思えるような目です。
「お母さんの病気を治して欲しいの!」
ルナリアの願いは宝石店街すべてに響きわたりました。周りの人たちはひざまずきながらも、驚いた顔でルナリアを見ていました。普通の女の子が一人で魔女と話すことすらありえないのに、願い事をするなんて普通は恐ろしくてできません。
そんなルナリアをオルカは笑いました。この世のものとは思えない鳥の、高鳴きのような声です。ひどい音にルナリアだけでなく、ひざまずいていた人たちも思わず耳をふさぎました。笑い声をあげる彼女の顔は別人のように変わり、肉をむさぼり喰う狼のようでした。
オルカはさんざん笑い飛ばしたあと、言い放ちました。
「あたしが願いを叶えてくれると思ったか、世間知らずのバカ娘!」と。
ルナリアの目からは涙がこぼれます。
「どうして。どうしてそんなことを言うの?」
オルカは「平民には魔法を使えない決まりなのだ」と言い放ちました。
「平民とかそんなの関係ないでしょ。どうか助けてください」
オルカがささやきます。
「ならばなにをよこす? まさか、タダとは思っておらぬか」
「まさか、そんなつもりはありません」
ルナリアは持っているお金をぜんぶオルカに差し出しました。
「これが私の出せるすべてです。どうか、どうかお願いします」
その額を見た魔女はまた甲高い笑い声をあげました。
「あたしをバカにするな!」
オルカがルナリアに、青白い光を帯びた魔法の杖を向けます。どうやら怒らせてしまったようです。
けれどもルナリアは引き下がりません。
「では、いくらあれば……」
そう言いかけたとき、青いまたたきとともに杖から赤い光が飛び出しました。光は地面に当たり、小さな穴をあけました。穴からは煙と赤い光が漏れています。魔法で土が溶けてしまったのです。
「とっとと去れ! さもなくばこうしてやろう」
オルカが杖を一振りすると、店の陰から大きなねずみが現れました。後ろ向きに、ズルズル引きずられながら出てきます。また杖を振ると、ねずみはたちまち青い宝石へと姿を変えてしまいました。
「さぁ、娘よ。もの言わぬ石の姿で、溶岩にくべてやろう」
魔女の杖がルナリアに向けられます。
ルナリアは叫び声をあげて逃げだしました。背中からオルカの不気味な笑い声が聞こえます。周りの人たちはひざまずいたまま動きません。生地屋の店主も同じです。魔女はそれほど恐ろしいのです。
ルナリアは生地屋の前を通り過ぎ、そのまま市場の外へ飛び出しました。オルカは追って来ていません。けれども街の外へ外へと走り続けます。もう半月の間にいるものはそろえたので、戻る用はありません。太陽は地平線のそばまでおりています。オレンジ色の光を浴びながら、広い雪の平原に入っていきました。