2.8.- 失意の翼
翌朝、ルナリアは怒鳴り声で目を覚ましました。
「あんた補習をサボる気かい? まさか寝坊していたなんて、いい度胸ね」
ティランナ先生が寝ぼけ眼のルナリアをにらんでいます。赤い髪を炎のように揺らし、ベッドをなんども蹴っています。もうカンカンです。
ルナリアは魔法の杖でつつかれて、むりやり教室に飛ばされました。
どうして寝坊なんてしたのでしょう。実は昨日の夜、ルナリアは森の中で眠ってしまったのです。部屋で朝を迎えられたのは、シャルが夜中、寮へ運んでくれたおかげでした。
ルナリアは国の宝物です。もし森にいたままだったら、先生たちがルナリアを探しに森へ入り込んだことでしょう。そうなったら森の動物たちは大変です。
部屋で怒鳴られただけで済んだのは、ラッキーだったかもしれません。
ルナリアが飛ばされた教室には、たくさんの生徒がいました。みんな教卓を囲うように立っています。その教卓の上にルナリアはボトリと落ちました。
みんな大笑い。これでは見世物です。
ルナリアは顔を真っ赤にしながら、教卓から降ります。そのとき足になにかがカツッと当たりました。
鳥かごです。中には青い小鳥がいます。その姿にルナリアは見覚えがありました。
昨日、軍事訓練の教室にいたあの小鳥です。ルナリアにろうやの場所を教え、森でも話をしたあの小鳥がかごに囚われていたのです。
「ルナリア、頼む。助けてくれ! ここから出してくれ!」
小鳥の悲痛な声が聞こえます。この声がわかるのはルナリアしかいません。他の生徒は遅刻したルナリアを笑うだけ。小鳥の気持ちなどまったく頭にないでしょう。
教室の空間に黒い裂け目が現れます。そこからティランナ先生が、飢えた狼のような恐ろしい形相で出てきました。
「ルナリア、あんたは甘っちょろい考えに囚われているようだ。これでは国にお仕えすることはできない!」
先生はルナリアから鳥かごをひったくり、教卓の上に置きます。そして、かごをなんども乱暴にたたきました。これでは八つ当たりです。
青い小鳥がピィピィ激しく鳴きます。
「黙れ、暴君! 石に魂を売った魔物め! ルナリア、こんなやつの言うことは聞くな!」
小鳥の叫びなど、先生はなんとも思っていないでしょう。ピィピィという鳴き声を、蚊の羽音みたいにうっとうしがっています。彼の思いなどぜったい届いていません。
かごの取手をたたきながらルナリアに言います。
「その杖で小鳥を倒してみよ」
「どうして? この子はなんにも悪いことしてないでしょう」
ルナリア声を荒立てて拒みます。
「あんた正気かい? 昨日どれほど手間取ったと思っている? この小鳥があんたをそそのかしたのだろう。立派な罪人、いや罪鳥だ。まぁ、あんたは獣を脱走させた張本人だから。わからなくてしかたない」
ルナリアはあぜんとしています。ティランナ先生の言うことがさっぱりわかりません。いえ、わかりたくありません。
悪いのは学校の方でしょ、とルナリアは思っていました。
先生の話は続きます。
「だが、その考えはいま改めてもらおう。魔法使いたる者、国のためなら魔法で戦わなくてはならんのだ。人を率い、罪人を始末し、他国から国を守るのがここで学ぶ者の務め。鳥一羽すら倒せないなど、情けない!」
先生が鳥かごから手を離します。そしてまばたき一つもしない間に、スッとルナリアの背後に回りました。ルナリアは先生に背中を杖でつつかれながら、鳥かごの前に立ちます。
青い小鳥は「助けてくれ、出してくれ」と叫んでいます。
ルナリアは杖を取り出しました。
青い宝石がゆっくりと光を放ちます。
先生に知られないよう、ルナリアは心の中で、鳥かごの鍵が外れる様子を思い描きました。青い小鳥は元気に羽ばたいて、教室の外へと飛んでいきます。誰にも捕まることなく、猪や熊たちのいる森の中へ帰っていきます。そしてあの泉を越えて、学校から遠く離れた大空を進むのです。
魔法の杖を振れば願いは叶います。ルナリアは小鳥のために杖を一振りしました。
その瞬間。
ルナリアの中で小鳥は燃え尽きました。
現実世界の青い小鳥も炎をあげます。ついに骨一つ、灰一粒残すことなく小鳥の姿は消えてしまいました。あるのは焼け焦げた教卓の天板だけです。
ルナリアの瞳に一粒、二粒と涙が浮かびます。
「どうして? どうしてなの……」
ルナリアは誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやきます。
そんなルナリアに、先生は「よくやった」と言いました。周りの生徒たちも大拍手です。
――いったい、どこが『よくやった』なの?
ルナリアには悲しみと怒りしかありません。ルナリアに小鳥を燃やすなんて考えはありませんでした。あれは魔法で書き換えられたものです。
ティランナ先生のしわざに違いない。
ルナリアにはわかっていました。
でも、ルナリアはなにも言いませんでした。なにを言っても、この人たちにルナリアの思いなど分かりません。おまけにこんな先生のことです。下手に思いを口にすれば『こんどは自分の意思でやれ』とか言って、別の獣を連れてきて、倒すよう指示するにきまっています。そしたら犠牲が増えるだけ。いくら魔法の力を借りても、死んだ小鳥は返ってこないのです。
ルナリアは外へ走りだしました。
すぐさま先生が杖を振ります。ルナリアを捕らえようとする魔法の手が伸びていきます。
ルナリアは先生より先に杖を振り、地面を一蹴りしました。身体は一気に加速します。風がルナリアの背中を押しているのです。こんな魔法はまだ習っていません。だけど風は力強くルナリアを支えています。
ろうかには誰もいません。すべてがルナリアの思いをくんで、味方しているようでした。
ルナリアは真っ黒な手を振り切り、ろうかを抜けて校舎を飛び出しました。外の日差しを浴びて鳥のように空をかけます。あの青い小鳥に願った光景そのままに、森へぐんぐん進みます。とはいってもルナリアは人間の身体。小鳥のように生い茂った木々をくぐることはできません。森を少し入った木のすき間を狙って、ルナリアは地面に降りました。
ルナリアは木の陰に隠れながら、自分を森へ運んだ杖を見ます。ひじから手首ほどの長さの枝に、丸いくぼみ。そこに青い宝石がはまっています。
この杖があればたいていの願いが叶います。杖の魔法があれば、もしかしたらこの学校をなんとかできるかもしれません。
だけどここには敵が多すぎるのです。シャルのような人はいてもごくわずか。あまりにも分が悪すぎます。いくら逆らったってルナリアに勝ち目はありません。
飛行の授業みたいな魔法ばかりなら、どれほどよかったことでしょう。人を助ける魔法ばかりなら、どれほどよかったことでしょう。けれども現実は違います。シャルが『悪い魔法使い』になるのを恐れるほど、先は真っ暗です。
彼は言っていました。『僕は学校から出るなんて無理だと言った。でもルナリアには当てはまらないかもしれない』と。
――それなら、いっそ……。
ルナリアは両手で杖を握り、力を込めて曲げました。
杖の青い宝石が点滅します。なんだか不気味な声がルナリアの頭に響きました。
「いいのかい。折れば、あんたは宝石の力を引き出せなくなるよ。魔女ではなくなり、恵まれた身分も失う。それでもいいのかい」
なんと杖がささやいているのです。優しい声ではありません。毒薬を煮詰め、不幸の呪いをまき散らす年老いた魔女の声です。それが自分の手元にいたことに、ルナリアはゾッとしました。
手にますます力が入ります。
ルナリアは杖に言いました。
「私は魔女よ。あなたなんかいなくたって、魔法を使えるの」
「そうかい。せいぜい後悔するとよい。ひっひっひ」
杖は不気味に笑いながら、ポキリと折れました。
くぼみにはまっていた青い宝石は外れ、草の上に転がりました。ルナリアは折れた杖と宝石を服の中にしまいました。
そのとき、遠くで動物の叫び声がしました。それに混じってしわがれた魔女の声がします。ルナリアが杖を折るとき聞こえたものと似た声、でも、さっきと違って耳をつんざく大声量です。どこから響いているのかわかりません。魔女の姿は見えません。獣たちも見えません。いったいどこでなにがあったのでしょう。
ここの動物たちはルナリアの味方、だけど魔女の声は気がかりです。ルナリアは両手を胸元に当てながら、辺りをキョロキョロ見ます。
するとルナリアの前に一匹のねずみがひょっこり現れました。なにやら慌てています。ルナリアに向かって走っています。けれどもたどり着く前に、ねずみは倒れてしまいました。
倒れたねずみはぐったりしたまま、ちっとも動きません。拾い上げると、おなかをヒクヒクいわせています。まだ生きている証です。きちんと治せばまだ動けます。
でも、ついさっき杖を折ってしまったばかり。もう魔法で治すことはできません。いま使えるのは、学校に入る前に身につけた光の魔法だけなのです。
ふと、ルナリアはあることを思い出しました。
――いい家系の人は青い宝石の力で入学している。もしかしたら、杖なんかなくたって……。
「娘よ。わしなんて置いて早く行きなさい」
手元から聞き覚えのある声がします。お風呂にいたあのねずみのおじいさんの声でした。
「どうして? わたしは魔女よ。あなたを助けられる」
「いいや、お前さんには無理だ。そう長くない老いぼれにかまってないで、早く逃げなさい。近くに悪い魔法使いがうろついておる」
「大丈夫、私は魔女だから捕まらないわ」
ルナリアは服の中にある宝石を取り出そうとしました。
けれども、なんだか形が変です。出してみるとまるで人形のよう。手のひらほどの大きさで、なんだかしなびた感じがします。その人形の顔に、ルナリアは見覚えがありました。
ルナリアは青い宝石だった人形を握りしめ、泣き叫びます。
人形の顔は、いなくなったルナリアの父親だったのです。
「なにをしている? 早く逃げなさい!」
叫ぶねずみの声は、ルナリアの耳に届いていません。
森の陰から、黒いマントを着た何者かが飛んできます。「やっと、見つ、け、た……」と不気味な声をあげてやってきます。マントから出た黒い手がカエルの舌みたいに伸びて、ルナリアを捕らえました。
マントはコウモリの翼へ形を変え、空へと飛び上がってきます。ルナリアをつかむ手は、もはや人の物ではありません。鳥獣の物でもありません。虫の物ですらありません。足とは別で、手が四つもあります。どこか他の世界からやってきた魔物のようです。腕の力はとても強く、どれほどもがいても逃げられません。
魔物はルナリアを連れ去っていきます。
暗い森を抜けて青空が見えたとき、魔法の青い光とともにルナリアは眠ってしまいました。




